ちよにやちよに、こひのおり「約束だ、違えるな」
糖蜜で作られたような、甘い甘い声が囁く。
その言葉に、女はうっとりと瞳を細めた。
「ええ」
ほうとこぼした吐息は、彼の声に負けず劣らず甘い。
吐息を交えて、指を絡めて、女は恍惚に満ちた笑みを浮かべる。
「約束だ」
耳朶を喰むように囁かれたその声がじわりと脳を浸食し、頭の芯を痺れさせた。
操られるように頷いて、彼の背にしがみつく。
思わず反らせた喉へと、彼の視線が落ちた。
「愛しい――」
熱に浮かされたように女の名を呼び、彼はそこへ唇を寄せる。
悦楽の予感に震える首筋に唇を押し当てて、彼はくつくつと喉の奥で笑った。
自分が組み敷いた女は、潤んだ瞳で彼を見上げている。
熱を帯びた眼差しは、ぞっとするほどの色香を漂わせていた。
何かを期待するような女へと、彼は顔を寄せる。
「――違えたな」
そして、首筋に牙を突き立てた。
恍惚が恐怖に、悦楽が苦痛へと変わる。
歪んだ笑みを浮かべて、彼は女の魂に悪夢を刻み込んだ。
*
目を覚ませば、そこは見慣れた場所の、見慣れない天井だった。
「え……」
小さく声を上げ、慌てて体を起こす。
体の上にかけられていたのは薄っぺらい衣ではなく、綿の入った厚い布団だ。馴染みのない滑らかな感触に困惑しつつ、自分の身に何かが降りかかった事を理解する。
視線を落とす。
横たわっていた場所も固い床ではなく、体が沈み込みそうなほど柔らかな、真っ白の褥だった。
もしかして自分は、どこかの権力者にでも拐かされたのだろうか。
この土地を治める領主の名を脳内に思い出し、すぐに打ち消す。
まさか、この辺り一帯を治める領主が、片田舎の寂れた社に住む巫女の事など知るはずがない。
では、あまりの困窮ぶりに耐えかねて、宮司に遊郭にでも売り飛ばされたのだろうか。
それもあり得ない。なぜならば、宮司はつい先日、少女が看取ったのだ。
では、この状況はいったい何なのだろう。
全くわけの分からないこの状況に困惑し、視線をさまよわせる。
ここは、寂れた神社の廃れた社(やしろ)――だったはずの、場所だった。
しかし少女の目に映るのは所々がささくれだった床ではなく、隅々まで磨き上げられた艶のある床だ。
湿って埃っぽい空気は花のような香りのする空気へと取って変わり、黒っぽくくすんでいた柱は飴色に輝いている。
さらには真新しい調度品が運び込まれ、所狭しと並べられていた。
まるで、貴族の姫君のようだ。
そんな感想を抱いたが、それも一瞬の事だ。
褥から抜け出そうとした少女は、次の瞬間に栗色の瞳を見開いた。
シャンと、涼やかな音が響く。
小さく息を飲み、少女は己の足首に結わえられた小さな鈴と、その鈴から繋がっている赤い組み紐を凝視した。
組み紐はかなりの長さを持ち、褥の横でとぐろを巻いている。
しかしその先は太い柱へと伸びており、少女をこの場からけして逃さないようにしていた。
「な……」
呆然として、言葉を失う。
一体何が起きたのか、何が怒っているのか、全く分からなかった。
際だって美しくもない、学も教養も持たない片田舎の娘には、何もかもがそぐわない。
小さく鳴る鈴が、少女をあざ笑っているようだった。
周囲を見回しても、人影が見あたるどころか、気配すら感じない。
生きているものの気配も、物音さえもしなかった。
背筋にひやりとしたものが走る。頭の中で警鐘が鳴り響き、心臓が早鐘を打つ。
おかしい。
ここは「異質」だ。
得体の知れない恐怖が少女を雁字搦めにし、その動きを奪う。
微かな物音がしたのは、その時だった。
滑らかに木戸が開き、しゅるりと衣擦れの音が響く。
「目が覚めたのか」
はっとして頭を巡らせた少女の瞳に、人影が映った。
その瞬間に、息を詰める。
扉の前に佇んでいたのは、驚くほど美しい男だった。
目にも鮮やかな衣を幾重にも纏い、身の丈ほどもあるぬばたまの黒髪を背に流している。
朝靄のように白い肌は上等な焼き物のように滑らかで、人形師が端正込めて作り上げたような顔立ちはぞっとするほど整っていた。
黄金色に輝く双眸が少女を射抜き、色の無い唇が三日月を象る。
言葉を忘れて男を眺めていれば、彼は細い、だがしっかりと肉のついた腕を伸ばしてきた。
その瞬間に、目の前に閃光が走る。
不意に耳鳴りがし、頭の芯がぐらりと揺れた。吐き気がこみ上げ、視界が暗くなる。
がくがくと震えだした身体を抱きしめて、少女は悲鳴を噛み殺した。
何だこれは。なぜ、出会ったばかりの男に底知れぬ恐怖を抱えているのだ。
必死に恐怖にこらえていると、くつくつと嗤う声がする。
「……ほう?」
耳朶に吹き込まれた声は、驚くほど冷たかった。
「……覚えているのか、千代(ちよ)」
千代。それは少女の名だ。社に預けられた時に宮司から授けられた、少女の名。
しかし、なぜこの男が知っているのだ。
千代の中で、疑問が渦巻く。
考える時間は、与えられなかった。
ぐるりと世界が周り、平衡感覚が失われる。
シャン、と小さく鈴が鳴った。
一拍置いて、千代の背が褥に触れる。
「答えろ」
男に押し倒されたのだと理解し、千代は瞳を見開いた。
両手をまとめて押さえ込まれ、自由を奪われる。力などさして込められていないのに、恐怖に震える身体では彼を押し退ける事が出来ない。
「答えろ、千代」
男の顔が近づいてくる。耳鳴りと吐き気がよりいっそうひどくなり、涙が滲んだ。
掴まれている手首が、みしりと軋んだ音を立てる。痛いはずなのに、感覚が失われてしまったのか何も感じない。
「千代」
温もりが一切感じられない声音が、耳朶に吹き込まれる。
「私は約束した。違える事は許さない」
約束。
何の事だ。
問いたいのに、千代にそれは許されない。
目の前に迫る黄金色がどろりと濁った輝きを帯びる。そのおぞましさに、喉が凍り付いた。
答える事も出来ない千代の頬に、空いた男の手が触れる。その冷たさにびくりと体を震わせた千代を見下ろして、男がくつくつと笑った。
いや、違う。
男は、くつくつと「嗤って」いた。
美しい声で紡がれる、何かをかけ違えたような笑み。
「千代」
頬を撫でていた手を離し、男はさらに顔を寄せてくる。
耳の後ろの薄い皮膚に唇を押しつけて、彼は囁いた。
「まほろばに、お前を」
その瞬間に、頭の中でぶつりと何かが切れる音がする。
まほろば。「千代」に執着する男。
幼い頃に聞かされた、おぞましい昔話が脳裏に蘇る。
冷たい指先が千代の首筋を撫で、着物の合わせにかかった。
喉のくぼみに指を這わせ、男は声を出さずに嗤う。
「まほろばに、お前を。今度こそ、千代に、八千代に」
その言葉に、目を見開く。
「い……すず……」
無意識の内に唇からこぼれた言葉に、男の唇が弧を描いた。
「覚えているのか」
彼の言葉にかすれた悲鳴を上げ、のがれようとがむしゃらに暴れる。
シャンシャンと、その度に鈴の音が響いた。
千代をこの場に縛り付ける鈴が、涼やかに歌う。
嘘だ。
心の中で絶叫し、千代は瞳を閉じた。
嘘だ。生贄の儀式はとうの昔に廃れたはずで、今では昔話として語られる程度のもので。
あれは、作り物の話のはずで。
五十鈴と呼んだ男が、千代の首筋に唇を押し当てた。
「今度こそ、永久に」
祈るような声音には、妄執が込められている。
ひくりと息を飲み、千代は体を強ばらせた。
「違……」
蚊の鳴くような声で否定の声を上げるが、彼には届かない。
「違わない。お前は千代だ」
「違う……!」
なおも否定の声を上げようとした千代の唇は、男――五十鈴によって塞がれた。
口腔に何か固くて冷たいものが突っ込まれる。尖った先端で喉の奥を軽く突かれ、呼気にわずかな血の味が混ざった。
シャンと小さな音が響く。
「違わない」
千代の口腔内に簪を突き立てた五十鈴は、感情の見えない眼差しでそう呟く。
「お前は千代だ。遙か昔に俺が殺し、そして巡り会う度に俺を裏切り、俺に殺される千代だ」
答えろ、と彼は暗く嗤う。
「お前は俺を裏切ったのか」
言われた意味が分からなかった。そもそも、答えられる状況ではない。
「……ああ」
しかしそれは、五十鈴にとっては好都合のようだった。
「確かめろという事か」
口の中から簪が引き抜かれ、打ち捨てられる。小さな鈴の音と共に褥に転がった簪は、千代の唾液でてらてらと輝いていた。
詰めていた息を吐き出そうとした瞬間に、五十鈴の手が膝にかかる。
逃れられない。
シャンと響いた鈴の音に、視界が絶望に染まるのが分かった。
*
わたしは違う。
あの女じゃない。
その女は、もうずっとずっと昔に死んだ。
あなたに殺された。
心の中で絶叫する。
千代は「千代」だ。
けれどこの男にとっての「千代」は千代ではない。
――狂ったこの神には、些細な問題なのだろうけれど。
いつか聞いた、昔話を思い出す。
昔々、あるところに一人の女がいた。
とても美しい女は大層な男好きで、村中の男を虜にした。
女は男だけではなく、その村で祀られている神さえも虜にした。
神は女に「まほろばに連れて行こう」と約束し、女は頷いた。
しかし、女は神を裏切った。
怒り狂った神は女を食い殺し、それ以来生贄を求めるようになった。
生贄は村中から忌み子として避けられ、村から離れた場所で神に捧げられる日までを静かに過ごす。
そして時が満ちると、神が攫いに来るのだ。
――女の身代わりとして、その生贄を愛でる為に。
「ああ、今度の『千代』は俺を裏切っていないのか」
嬉しそうな声が、社に響き渡る。
「千代、お前にはこの衣が似合うだろう」
神と呼ばれる男は美しい顔を歓喜に輝かせ、目の前で座り込む生贄を眺めた。
うつろな瞳を開いた少女の顔は男が施した化粧に彩られ、華奢な体は男が見立てた衣で覆われている。
せせらぎのように流れ落ちる黒髪を一房掬い上げて口づければ、少女がのろのろと顔を上げた。
その仕草が何となく気に入らず、男は手にした髪を力任せに引く。
抵抗もなく倒れ伏した少女の頭部に足を乗せ、男は少女を見下ろした。
軽く力を込めてやれば、少女は小さなうめき声を上げる。
前の「千代」はこれで壊れてしまった事を思い出し、男は仕方なく足をどけた。
「千代」は壊れやすいのだ。もっと大切に扱わねば。
丁寧な仕草で少女の体を起こし、再び少女の髪に口づける。
少女は抵抗しなかった。身じろぎもせず、傀儡のように佇んでいる。
その姿に満足して、男は笑みを深めた。
「千代」
まほろばに連れて行ってやろう、と男は囁く。
まほろば。素晴らしい場所。
それはかつて、男を裏切った「千代」が請うた事。
「お前は裏切らなかった。約束を違えなかった」
だからこの千代を、連れて行ってやろう。
愛しい恋しい千代を、まほろばという檻に連れて行ってやろう。
澱んだ光をその目に宿して、神は笑った。
逃さない、逃しはしない。
この「千代」は、自分のものだ。
――千代は永久に、恋(こひ)の檻。
醜悪極まる、恋の澱(おり)。
<終>
後書きのようなもの
というわけで、こちらではお久しぶりです。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
「ちよにやちよに、こひのおり」、いかがでしたでしょうか。
私は思いがけず薄暗い話になって戦いています。
伊勢参りに行ったのに、なぜか煩悩をゲットして帰ってきた気がします……。
どう見てもお先真っ暗な話ですが、個人的には書いていてとても楽しかったです。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました。