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短編:時喰みの牢獄

 そこは「時喰みの塔」と呼ばれていた。
 頂上が見えないほど高く大きな塔は石造りで、窓は一つも無い。壁中を這うツタが、塔が建てられてから長い年月が経っている事を告げていた。扉は一つだけしか見当たらず、決して開かないように鎖で封じられた上に鍵がかけられている。
 そんな塔の中で、少女は目を開いた。
 広い寝台の上に寝そべったまま、ぼんやりと天蓋の模様を眺める。深い藍色にいくつもの点が散らされたそれは、夜空というものをイメージしているらしい。藍色が空で、点は星の大きさと並びだそうだ。
 らしい、そうだ、と不確かな事しか言えないのは、それが人づてに聞かされた情報であり、少女が本物の夜空を知らないからだった。
 仮初めの夜空を、少女は飽きることなく眺める。
 少女にこの夜空を与えたのは、どの主だったか。
 ふとそんな事を考えたが、すぐに頭の隅に追いやった。考えても栓のない事だ。
 ようやく体を起こし、寝台から下りる。
 行く宛も無いままに、少女は歩きだした。

 ひたひたと足音を立てながら、少女は塔を歩き回る。
 記憶にある限りずっと、少女はこの塔にいた。
 なぜここにいるのか、自分が何者なのかも分からない。
 ただ自分が「時喰み」と呼ばれている事、普通の人間では無いらしい事だけは知っていた。
 窓は一つも無いというのに、塔の中は常に光に溢れている。
 塔にはいくつもの部屋があり、その一つ一つが信じられないほどに広かった。両手を広げて歩けるほど幅のある廊下も、どこまで続くのか分からないほど長い螺旋階段も、とにかく何もかもが大きい。
 ふと目についた扉を開け、その中に入ってみる。
 白い髪と赤い瞳が少女を出迎えた。
 少女は瞳を瞬かせる。
 手を伸ばせば、手のひらがぺたりと冷たい壁に当たった。
 目の前に立つ白い髪と赤い瞳は、少女と全く同じ動きをする。
 少しだけ考えて、少女はようやく目の前のものが自分自身の姿だと気づいた。
 記憶を辿る。これはたしか、鏡というものだ。以前訪れた主がそう言っていた。興味も無かったし、どの部屋に鏡があるのか知らなかったから、すっかり忘れていたのだ。
 鏡に映る姿を、少女はじっと観察する。主から見た自分は、このように見えているのか。
 まっすぐに流れ落ちる白い髪は、身の丈よりも長い。まるで血の色だと言われた瞳は、なるほど、言われてみれば血のように鮮やかな赤だった。
まつげが影を落とす頬やドレスからのぞく手足は、髪と同じように白い。
 主が言うには、この容姿は「アルビノ」というものが原因らしい。アルビノがどのようなものかはよく分からなかったが、彼がそう言うのならばそうなのだろう。少女には反論する知識も、その理由も無い。
 観察を続ける。
 肩が剥き出しになったドレスの胸元は白く、足下に向かって徐々に瞳と同じ赤に染められていた。
 それ以上の事は分からない。少女は主以外に人間を見た事が無いのだから、判断のしようがないのだ。
 その場にぺたりと座り込み、少女は自分自身を観察し続ける。
 首を傾げれば、目の前の自分も首を傾げる。
 口角を引き上げれば、目の前の自分もぎこちなく笑った。
 面白い。
 素直にそう思い、少女は自分自身と掌を重ね合わせた。

 どのくらいそうしていたのだろうか。
 不意にリンという音が響き、少女は顔を上げた。
 不定期に鳴るその音は、来客の合図だ。
「お前が時喰みか」
 唐突に背後からかけられた声に、少女は無言で振り返る。
 扉の前に「主」が立っていた。
「ごきげんよう」
 ずっと前に彼に教えられた言葉を紡ぎ、ドレスを少しだけ持ち上げて身を屈める。
 少女自身も久しぶりに聞く、細く高い自分の声が耳に届いた。
 少女の言葉が、静寂に溶けて消える。
 彼は黙ったまま少女を見下ろしていた。
 その表情は分からない。唯一この塔を訪れる彼は、いつでも仮面を被っていた。
 訪れる間隔も、かけられる声音も毎回異なっている。
 ただ、かけられる言葉だけは殆ど変わらなかった。
「わたしの名は――」
 少女の元に訪れる主は、毎回違う名前を名乗る。
 いちいち覚えるのも面倒で、少女はいつも適当に聞き流す事にしていた。
「そうですか」
 ゆったりと頷いて、話を聞いている事を示す。
「前の主が崩御した。だから、わたしが鍵を受け継いだ。つまりわたしが、今日からこの塔の主だ」
 いつもと同じ言葉。
「あなたがこの塔の主という事ですね」
 納得したように、もう一度頷いてみせる。
 すると彼は、どこか憐れむような声音を出した。
「お前も不幸だな」
 少女は首を傾げる。不幸。知らない言葉だ。
 黙っていると、彼は再び口を開いた。
「老いる事がない。眠る事も、食事をとる事もない。何も知らず、何も知ろうとせず、ただいたずらに時を食む」
 彼は何を言っているのだろう。
 老いる。眠る。食事をとる。
 全て少女の知らない言葉だ。
「朝も夜も知らず、寒暖も分からない。この塔と己の時を食み、止まった時の中をさまよう」
 知らない響きで埋め尽くされた彼の言葉は、全く理解できなかった。
 だから少女は、もう一度首を傾げる。
 そしていつもと同じ言葉で彼に答えるのだ。
「それがどうかしましたか?」
 彼がそれに答えた事は一度もなく、少女が答えを期待した事も一度もない。
「何でもない」
 結局、彼はいつもと同じ言葉を呟いた。
 だから少女も、黙したまま彼を見上げる。
「そうですか」
 いつもと同じ言葉を呟き、少女は去っていく主の背を眺めた。

 いつもと違う事が起きたのは、主が帰った後だった。
 少女には時を計る術がないし、時を知ろうと思った事もない。だから彼が去ってからどれだけ時が経ったのかは、少女自身にも分からなかった。
 リンという音が響く。
 振り向けば、そこに少年がいた。
「……誰?」
 思わず問いかける。
 少女がそう聞いてしまうのも仕方がない。少年は、仮面を被っていなかったのだ。
 驚いたように見開かれた黒い瞳が、少女を見下ろしている。
 ぽかんと口を開けている様は、ひどく間抜けに見えた。
 その場に立ちつくしている少年に困惑し、少女は首を傾げる。こんな事は初めてで、どうした良いか分からなかった。
「……あなたは、誰?」
 少年の視線に耐えかね、少女はもう一度問いかける。
 その言葉にはっとしたような表情を浮かべて、少年が視線を逸らした。
 首を傾げたまま、少女は少年の答えを待つ。
「お前こそ、誰だ?」
 返ってきたのは答えではなく、問いだった。
 少年の言葉に少女は瞬く。彼は何を言っているのだろう。この場に訪れる者は皆、彼女を一つの名で呼ぶというのに。
「わたしは、時喰みよ?」
 記憶にある限り、ずっと時喰みと呼ばれていた。主が自分をそう呼んでいるのだから、自分は時喰みというのだろう。
 しかし、少女の言葉に少年は眉をひそめる。
「……時喰み?」
 訝しげにそう反復して、彼は首を傾げた。
 互いに首を傾げたまま見つめ合う。
「知らないの?」
「知るもんか」
 二人の間に沈黙が降りた。かけるべき言葉が分からずに、少女は視線をさまよわせる。これはどういう事だろう。この塔に存在する事を許されたのは、少女とこの塔の主である主だけのはずなのに。
 ――そうだ。主と自分以外は、この塔に入る事を許されないのだ。
「あなたは、この塔の主なの?」
 ようやく思い当たった可能性を問うと、少年はまた首を傾げた。
「主?」
 何の事だと問われる。少女は言葉につまった。
「主は、主でしょう?」
 それ以外に何と呼べば良いか、少女は知らない。
「前の主が崩御したから、鍵を受け継いでこの塔の持ち主になるの。彼はそう言っていたわ」
「彼?」
「彼はこの塔の主よ。いつも違う名前で、仮面を被っているの。わたしに会いに来て、いつも同じ事を言うわ。あなたは主ではないの?」
 再度問いかけると、少年は首を振った。短い黒髪がふわりと宙を舞う。少女は思わずつやつやとしたそれに手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。
「違うの?」
 少年の答えに驚いて息を飲む。少女と主以外の人間がこの塔にいるのは、初めての事だった。
「じゃあ、あなたは誰なの?」
「だから、そういうお前こそ誰なんだ」
「だからわたしは時喰みよ」
「それは名前じゃないだろう」
 話が最初に戻ってしまう。
 黙り込んだまま、二人は見つめ合った。それ以外にする事が思い当たらなかったのだ。
 少年は仮面を貼り付けたかのように表情を崩さない。最初の間は物珍しく思って見ていたが、少女はすぐに飽きてしまった。
 自分の姿を映して動く鏡の方が面白い。
 少年に背を向け、鏡へと手を伸ばす。
 自分の姿を映す冷たい壁に掌を這わせていると、鏡の中の少年が不思議そうな表情を浮かべた。
「何をしているんだ?」
「これを見ているのよ。たしか、鏡と言うのでしょう?」
 振り返らずに答える。
 少女の様子を見ていた少年が、鏡の中で首を傾げた。
「鏡がそんなに珍しいのか?」
「ええ、そういうものがある事は知っていたけれど、初めて見たわ。自分の姿を見たのも、この部屋に入ったのも初めて」
「初めて? この塔で暮らしているのに?」
 少年が眉を寄せる。
「それにお前は、朝起きた時に鏡を見て身だしなみを整えないのか? 魔除けとして持ち歩かないのか?」
 その言葉に少女は鏡から掌を離し、振り返った。
 自分よりも少しだけ高い位置にある瞳を見つめ、首を傾げる。
「ここに朝は無いわよ?」
 あるのかもしれないが、少女は見たことがない。
「それに、わたしは確かにこの塔に住んでいるけれど、この塔の全てを知っているわけではないし、全ての部屋に入った事もないわ」
 知る必要がないのだ。自分が時喰みである事、主が度々訪れる事さえ覚えておけば、何も困る事はなかった。
「ねえ、朝って何?」
 ふと疑問に思い、少女は問いを口にする。
 今まで少女を訪ねてきた主は、少女が何を聞いても答えてくれなかった。彼はいつも一方的に言葉を投げつけて去るのだ。いつしか聞く気力も関心も薄れ、少女もそれに甘んじていた。
 しかし目の前の少年は、少女と会話を交わしている。問いに答えてくれるし、少女の事を問うてくれる。
 初めての体験に、胸の中がほわりと温かくなった。今まで誰かに聞きたくても聞くことが出来なかった事を思い出す。彼なら答えてくれるかもしれない。
「……一日の始まりだ。太陽が上って、空がきれいな青になる。
 本当に、見たことが無いのか?」
 その言葉に頷く。一日という言葉もわからないし、太陽も見た事がない。きれいな青とはどんな色なのだろう。
「じゃあ、魔除けって何?」
 少年が答えてくれた事に安心して、さらに問いを重ねる。
 聞いてみたかった事が一気にこみ上げ、留まる事無くこぼれだした。
「老いるってどういう意味なのかしら? 眠るって? 食事をとるって?」
「ちょ、ちょっと待て」
 次々と問いをぶつける少女を見下ろして、少年は驚いたように手を前に突き出す。
 言われた通りに口を閉ざして待っていると、少年は額を押さえながら何やら呟いた。
 彼の言葉を聞き取る事が出来ずに、少女はただ黙したまま彼を見つめる。
「……お前は今まで、どうやって生きてきたんだ?」
 沈黙の後に投げかけられたのは、意味がよく分からない問いだった。
「生きるって、どういう意味?」
 その言葉に困惑する。聞いた事のない言葉だった。
 返事に困って首を傾げていると、ふと手に何かが触れる。
 驚いて見下ろせば、いつの間にか近寄っていた少年が少女の手を握っていた。
 少女よりも肌の色が濃くて大きな手は温かく、脈打っている。
「生きるっていうのは、温かくて、体の中を命が巡っていて、その動きが分かるっていう事だ」
「温かくて、命が巡っていて、それが分かる……」
 少年の言葉を反復する。
「そうだ。俺は生きているだろう?」
 その問いに、少女は頷いた。少年の手はたしかに温かくて、皮膚越しに伝わる脈動からは何かが彼の体を巡っている事が分かった。
 そうか、これが生きているという事なのか。
 人事のように納得し、ふと自分はどうなのかと疑問を抱く。
「ねえ、わたしは生きているのかしら?」
 胸の中に冷たい感覚が広がり、ぎゅっと痛くなった。
 だって少女は、生きているという言葉を一度も使われた事がないのだ。
 少年を見上げる。
 唐突な質問に彼は驚いたように目を見張り、当たり前だとでもいう口調で答えた。
「生きているだろ? そうでなければ、俺はお前と出会えない」
 それに、と少年は少女の手を持ち上げる。
「お前もちゃんと、体の中で命が巡っている」
 少年の指が少女の手首を押さえた。
 軽い圧迫感を感じ、少し遅れて自分の体を何かが巡っている事に気づく。自分で手首を押さえてみれば、たしかに皮膚の下で脈打つものがあった。
 その事に、自分でも驚くほど安心する。少年と同じように、少女も生きているのだ。
 気づかずに小さく息をこぼした少女を、少年が不思議そうに眺める。
「……変なやつだな」
「だってわたし、何も知らないんだもの」
 呆れたような声に、少女は強い声で返事を返した。間近にある少年の顔を見上げる。吐息がかかるような距離に、少年が息を飲んだ。黒々とした瞳が見開かれ、逃げ場を探すように揺れる。
 少女がなおも彼を見つめていると、少年は深々とため息をついた。
「……だ、誰か教えてくれるやつはいなかったのかよ」
 顔をそらしながら後退する少年に、首を振ってみせる。
「いないわ。わたしが主以外の人に会ったのは、あなたが初めてだもの」
 ねえ、と小さく呟いて少女は口を開いた。
「あなたはどこから来たの? どこに帰るの? いつ帰ってしまうの?」
 少女に会いに来る主は、すぐに少女の元を去ってしまう。どの主だったかは覚えていないが、彼は自分の世界は少女と違う場所にあるのだと呟いていた。
 この少年もそうなのだろうか。少年の世界も少女とは違う場所にあって、すぐにここを去ってしまうのだろうか。
「どこって……」
 少女の言葉を受けて、少年が戸惑ったように呟く。
 ぶつぶつと何事かを呟いていた彼が、不意に顔を上げた。
「どうして、そんな事を聞くんだ?」
 少女は口を閉ざす。
 答えたくとも、自分でもよく分からなかった。
 彼が少女の元を去ってしまえば、また一人きりになってしまうのだと思った。
 その瞬間に胸に穴が空いたような感覚に襲われて、問わずにいられなかったのだ。
 記憶にある限りずっと、一人きりの時間を過ごしてきた。
 主だけは少女の元を訪ねて来たが、彼は少女と話をしてくれなかった。
 それが当たり前で、何とも思っていなかった。
 けれど、少女は会話に飢えていたのだ。
 少女はそれを自覚していない。飢えるという言葉も、その意味も理解していない。自分が何かを求めている事すらも分からない。
 だから、首を傾げる事しか出来なかった。
「何でかしら」
 要領を得ないその返事に少年が口を開き、何も言わずに閉じる。
「……帰るのはいつか分からないけど、帰るまでは一緒にいてやるよ」
 再び開かれた口から紡がれた言葉に、少女は顔を輝かせた。

 少年は、たくさんの事を知っていた。
 悠久にも思える時にはいくつもの区切り方があり、少年はその区切りを数えて生きているのだという。
 そして夜は眠るという行為で時間を潰し、夢というものを見るそうだ。
 夢で見るものはその日の出来事であったり、行ったことの無いような遠い場所の事であったりと、一定ではないらしい。
 実は今も夢を見ているのだと、少年は笑った。眠りについて、気がついたら少女の元にいたのだと。
「行ったことの無い場所なのに、どうやって見るの?」
 少年と並んで腰を下ろし、問いかける。
「話を聞いたり、本で読んだり、絵で見たりした事で想像するんだ。たとえば俺の故郷は、どんなところだと思う?」
 返ってきたその言葉に、少女は少年をまじまじと見つめた。
 彼の故郷。そもそも故郷とは何だろう。
「……分からないわ」
 何も分からない。
 何も想像出来ない。
 ぎゅっと唇をかみしめる。それが「悔しい」という感情であることに、少女は気づかない。
 驚くほど優しい眼差しで、少年が少女を見下ろした。
「……教えてやるよ。そうしたら、想像出来るだろ?」
 顔を上げる。
 彼の黒々とした瞳が、きらきらと輝いていた。
「俺の故郷は、あたたかいところだ」
 彼の言葉に、首を傾げてみせる。
「あたたかいところ?」
「そう。全員が笑っている。空がきれいに見える。優しい歌が聞こえる。……俺を、受け入れてくれる」
 ぽつぽつと紡がれる少年の言葉を、少女は繋ぎ合わせた。
 彼は「タイコウケ」という家で生まれたらしい。その家は代々「マジョ」と呼ばれる女をどこかに閉じこめていて、そのマジョが世界に興味を持たないように見張る事が役目なのだそうだ。
 彼には「キョウダイ」がたくさんいて、そのせいで「アトメアラソイ」が起きてしまった。「マジョ」に興味を持っていなかった彼はその家を出て、小さな「ムラ」に身を潜めたのだ。
 彼にとっては、その村が故郷なのだという。
 故郷という言葉もやはりよく分からなかったが、話の流れから「戻りたくなる場所」という意味だと理解した。
 村は、とてもすてきな場所なのだそうだ。
 木々の匂い、小鳥のさえずり、ベールを何枚もかけたように少しずつ色を変える空。
 少年の話はとても面白くて、聞き飽きなかった。
 瞳を輝かせる少年の傍らに座り込み、彼の声に耳を傾ける。
 それはとても楽しくて、心の奥が温かくなる体験だった。
 ふと声が途切れ、閉じていた瞳を開く。
 すぐ側にいたはずの少年は、いなくなっていた。

 鏡に覆われた部屋を出て、少年の姿を探す。
 数え切れないほどの扉を開け、少女はどこまでも続く螺旋階段を上った。
 少年は見つからない。名前を呼ぼうと思ったが、少女は少年の名前を知らなかった。これでは呼ぶ事が出来ない。
 鈍く痛む頭で、少年がこの塔を去ってしまったのだと理解する。
 彼が次に来るのは、いつなのだろう。
 そもそも自分は、彼の事を覚えていられるのだろうか。
 とりとめもない事をつらつらと考え、少女はため息をついた。
 体が思うように動かない。頭だけではなく、腕も足も、胸の奥も、痛かった。
 きっとこれが「疲れる」という事なのだろう。
 滲んだ視界に辟易して目元を擦ると、手に水滴がつく。
 透明なその滴は、初めて見るものだった。
 これもきっと、疲れたからに違いない。
 そう判断して顔を上げ、目についた扉に手をかける。
 音を立てて開いた扉の先には、見覚えのある寝台が置かれていた。
 少女はふらふらと寝台に歩み寄り、倒れ込むようにして横たわる。
 瞳を閉じた。
 その途端に、意識がすうと遠のく。
 これが眠るという事なのかと思いながら、少女は意識を手放した。

 夢を見ていた。
 見たことのない鮮やかな世界が少女を取り囲み、どこからか甘い匂いが漂ってくる。
 ああこれは、少年が話してくれた光景だ。
 これが想像する、夢を見るという事なのだろうか。
 そんな事を思いながら、少女は足を踏み出す。
 柔らかな草が少女の素足を受け止め、大地の温かさがじんわりと広がった。姿の見えないものが少女にぶつかり、白い髪を舞い上げる。見た事のない色をした天井は、じっと見上げていると目が痛くなった。
 顔を下げ、正面を見据える。目を凝らしても、壁は見えない。少年の世界はどこまでも広いのだ。
 ああ、と少女は笑みを浮かべる。
 どこまでも、この世界を見てみたかった。

 その場所は「時喰みの塔」と呼ばれていた。
 周囲の「もの」の時を糧にして永遠を生きる少女が閉じこもり、自分の記憶と周囲の時間を食べて作り上げた、永久の牢獄。
 塔に訪れる事が出来るのは、少女をこの塔に閉じこめた者と、その者の血を引く子孫だけ。彼らは塔の主が変わるごとに夢で少女の元を訪れ、少女の様子を窺う。
 少女は眠る事を、夢を見る事を恐れた。少女の力は意思とは関係無く、夢に見たものの時までをも喰んでしまうからだ。
 喰まれた時は戻らない。全てのものが長い時間を経て迎える滅びを、彼女は無意識にたぐり寄せてしまう。
 だから少女は全てを忘れて思考を放棄し、己の時のみを食べて生き続けていた。
 塔の中で、時喰みと呼ばれる少女は微睡む。
 かつて夢見る事を恐れた世界を想像し、その時を喰みながら。

(終)




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