あの場所できみとひとりきりになる2
ゼラと出会う、少し前の話。
暇で暇でしょうがなかった僕は、解剖に使えそうな動物を探しに町を適当に歩いていた。気づくとどこかの森の中にいて、耳をすませても自分の足音と木々のざわめきしか聞こえない。
ナイフを片手で弄び、周囲に目をやりながら進む。やがて、川のほとりでカエルを見つけた。
「きゃはっ、みーっけ」
素早くそいつを捕まえて、逃がさないようにして移動する。機嫌良く鼻歌を歌いながら歩いていると、草原が風で揺れる音が耳に入ってきた。
一面緑色の原っぱに出て、僕は腰を下ろす。手元で暴れるカエルを地面に押しつけて、その腹にナイフを突き刺した。
ぐしゃ、ぐちゃ、ぶちぶち。手元の生き物がみるみる死体に変わっていくのを感じながら、ナイフを突き立てて、身体を引き裂いて、臓物を引きずり出して、ああ、楽しいなあ。
頬に飛び散る血とか、手に伝わる感触とか、全部が気持ちよくて、僕は夢中で解剖を続けた。
「ねえ、何してるの?」
突然背後から聞こえた声を鬱陶しく思いながら、ゆっくり振り向いた。ばちり、と交わった視線。その目を見て、僕は息を呑む。
光のない、まっくらな瞳がそこにあった。
体を電流が走って、ぞくぞく、背筋が震える。
何これ、すごく、綺麗だ。
「うわ、何それ。カエル?」
「解剖してるんだよ。きゃはっ。きみもやる?」
「解剖っていうか、……」
僕の隣にしゃがみこんだその子は、地面の上で、もはや原型をとどめてすらいないカエルを見て眉をひそめる。解剖っていうか。その続きを口にはせず、彼女が再び僕を見た。僕も彼女を観察する。歳は僕と同じくらい。衣服は少し汚れていて、そこから覗く手足は傷だらけ。それに、ひどく血色が悪い。
「きみ、顔色悪いね。幽霊みたい」
「……そうだね。死んで、幽霊になれたら、楽かもね」
ざあ、と緑色を揺らした冷たい風を受けて、彼女の黒い髪が靡く。動かなくなったカエルに向けられる暗い目は、世界の全てに絶望しているかのように見えた。
それはもう何年も前の出来事なのに、鮮明に思い出せる。赤い血も、緑色の草原も、彼女のまっ黒な憎しみも、全部。
夜道を一人歩きながら、あの瞳に思いを馳せる。もう一度見たいな。目を閉じればすぐに思い浮かべられるけど、やっぱり彼女に会いたい。ゼラ以外にこんな感情を抱くなんて、変だな。基地を覗いた浜里とかいう同級生と女教師を処刑して、テンションが上がってるのかも。
まだ帰りたくないなあ。適当に寄り道でもしようか。
「ミカン、電線、富士山……」
鼻歌まじりに暗い道へと入っていく。このあたりは街灯があまり機能してなくて、ほとんどまっくらだ。
そのまま歩いていると、工場も民家もない寂れた場所に、ボロボロの小屋が建っているのを見つけた。あまり興味がわかなくてすぐに視線を逸らすと、少女が一人、小屋の前で立ちつくしているのに気づく。脱力しているかのように垂れた腕と、青白い顔、それにこの暗さも相まって、一瞬幽霊か何かかと思った。
少女はこちらをぼんやりと見つめる。螢光町の中学の制服だ。なんて名前の学校だっけな。
顔が見えるぐらいまで歩いていって、彼女の目に、既視感を覚えた。
「……ん?」
全てを嫌っているかのような、全てを憎んでいるかのような黒い瞳。昔出会った彼女の瞳に、よく似ている。
横に建つ廃小屋をちらりと見て、それからもう一度視線を目の前の少女に合わせる。どことなく雰囲気も似ているような。思わず首を傾げた。もっと近くで顔を見たい。
足を踏み出して、ぐっと距離をつめる。少女の目が見開かれ、すぐ後ろのドアに背中をぶつけた。じっと瞳を見つめていると、急に電気がついて、眩しさに眉を寄せる。すると、少女の顔色がますます悪くなっていった。
「どうしたの?顔、まっ青だよ」
そう言って伸ばした手を見て、彼女は悲鳴をあげてその場に座り込んだ。光に目が慣れてきて、その顔がよく見える。ああ、やっぱり。この子は、この瞳は、僕がずっと焦がれていたそれに違いなかった。
「きゃは。びっくりしちゃった?」
しゃがんで、彼女と目を合わせる。小学生だった頃より当然背は伸びて、少しだけ幼さの残る顔立ちは、それでも僕の記憶よりも大人びていた。
きみは僕のこと、覚えてるかな。
手についた血なんて気にせずに、相変わらず血色の悪い頬に触れる。
「ねえ、きみ顔色悪いよ。電気がつく前から、幽霊かなって思うぐらいだった」
怯えた様子の少女が震えた声で何か言ったのを遮って、僕はそう言った。驚いたような表情をする彼女の頬を撫でて、その体温を感じる。あたたかい。幽霊じゃない。
きみはまだ、生きていてくれたんだね。
彼女とまた会えたことがなんだか嬉しくて、頬が緩む。
「ねえ、こんなところで何してるの?家出?」
隣に座り直して、僕は純粋な疑問を口にする。彼女は体を強ばらせて口を閉じたままだったけど、数秒してからゆっくりと言葉を発した。
「……そんな感じ、かな」
家から逃げ出してきたのだと言う少女は、吹っ切れたみたいに淡々としている。
僕のこと、覚えてないんだろうな。なんとなくそう思った。でも、彼女はあの日見たのと同じ暗い目をしてる。それだけで、たまらなく幸せに感じた。
「家が嫌いなんだね」
「大嫌い」
急に低くなった声に、少し驚く。けど、諦念が滲んでいた彼女の瞳からその感情が消えて、代わりに憎悪でいっぱいになるのを見て、なんとも言えない心地良さが背中を走った。
この世界が嫌いだ、と。そう言う少女の瞳には、たしかにどす黒い憎しみがどろどろと渦巻いていた。
「この世界は、私に何も見せてくれないから。星空を、見せてくれないから」
「星?」
この町では星空が見えないという彼女の言葉に、顔を上げて空を見てみる。黒い煙のせいで見えづらいが、星の光はちゃんと届いていた。
ああそうか。彼女はこの世界が嫌いだから、自分の夢見る星空がそこに存在するってことが許せないんだ。だから、見えない。
星空に憧れている彼女は、この世界を愛せなければ、ずっとそれを見ることはできないんだろう。それを知った彼女がどんな瞳をするのか、考えるだけで胸が踊った。
「きみ、名前はなんていうの?」
「……名前」
素直に名前を言ってくれた名前に、僕は本名ではなく光クラブでの名前を教える。そう呼んでほしいから。
何年越しの自己紹介だろう。おかしいや。
夜中までいろんな話をして、寝落ちてしまった名前を小屋の中に運んでから、僕は家に帰った。
短い睡眠時間を経て、すぐに朝になる。ゴウンゴウンと響く工場の音を聞きながら学校までの道を歩いていると、古本屋の前で大人が三人、何か話しているのが見えた。
店主らしいおじさんと、おそらく夫婦なのだろう男女。いつもなら気にもしない風景だけど、彼らの会話の中で名前、という名前が聞こえて、僕は思わず建物のかげに隠れ、そこから三人を盗み見た。
「ですから、名前さんがどこにいるか、僕にはわかりかねます」
「でも、ここでバイトしてるんでしょう?今日は来ないんですか?」
「色んな店でアルバイトをしているようですから。今日は別の場所じゃないですかね」
娘が帰ってこないので、とりあえずバイト先に居場所を聞きに来た、ってとこかな。店主から特に情報が得られず、母親は肩を落としてため息をつく。その顔には焦燥と心配が滲んでいた。
父親はそんな母親を横目で見て、ガーゼの貼られた自分の側頭部をさする。そしてひどく苦しそうな声音で話しだした。
「昨日名前は、逃げるように家を飛び出して行った。このまま帰ってこないんじゃねえかって、不安なんです」
「あの子が丸一日帰ってこないなんて初めてで……。どうして、急に出て行ってしまったのかしら」
不安げに眉を下げる母親のその言葉を聞いて、店主の目が少し鋭くなった。「どうして、だって?」そう聞く声は先程よりもずっと低い。
「僕は貴方達の家の事情を知りません。ですが、名前さんがここで働いて、もう二年近くになる。彼女の様子を見ていれば、普段どんな扱いを受けているのか、推測することはできます」
落ち着いた声で紡がれた言葉に、母親が息を呑んだ。まっすぐに夫婦を見据えて、店主は続ける。
「袖を捲りたがらないのも、大きな音をひどく恐がるのも、閉店時間が近づくにつれて表情が強ばっていくのも、ご家庭の事情が関係しているのではないですか。彼女が帰ってこないのも、それが原因なんじゃないですか」
図星を指されて、父親は気まずそうに視線を逸らす。唇を歪めて眉を寄せるその表情は、どこか悔しそうにも見えた。
「貴方達は、あの子にしたことを覚えていないかもしれない。でも、された側はずっと覚えているんです。人につけられた傷は、薄くなったり目立たなくなったりはしても、決して消えはしないんです」
店主の喋り方は、夫婦を責めるようなものではなかった。親が子どもを叱って諭すような、そんな声音だった。言い返すこともできずに店主の言葉を聞いている彼らは、何を思っているんだろう。
「親として、貴方達が彼女に何をしてやれるのか、よく考えてください」
夜になって、光クラブの活動もおわった。基地から暗い夜道を歩いて、古小屋の前で足を止める。小屋のドア付近を明るく照らす街灯の下で、僕は名前を待っていた。
やがて、暗闇の向こうからセーラー服の少女が歩いてきた。名前だ。
「今日も来ると思ったよ」
そう言って、自然と緩む頬もそのままに名前の手を引いて小屋に入る。奥の方にある本棚には、たくさんの漫画や小説、図鑑に絵本が並んでいた。その前にしゃがんで、名前を見上げる。
「昨日言ってた小説ってどれ?」
きみの大好きなもの。きみの大切なもの。きみに、そんな存在は必要ない。
「ここにはないんだ。家に置いてある」
「なんだ。借りようと思ってたのに」
返すつもりはないけどね。きみは憎しみだけ抱えていればいい。そして僕だけに、そのまっ黒な感情を見せてくれればいい。
きみの心を奪うものは、僕が全部奪う。
「なら、明日取りに帰るよ」
全く表情を変えずに、なんでもないみたいに言われたその言葉に少し驚く。今朝見た名前の両親の顔が脳裏にチラついて鬱陶しい。
「家、嫌いなんじゃなかったの?」
「誰もいない時間を狙えば、大丈夫」
大丈夫、か。名前はきっと、その時間に行けば親に会わずに帰れるって意味で言ってるんだろうけど。
もし彼女が両親に会って、和解してしまったら。
もし彼女の憎悪が、愛情に変わってしまうようなことがあれば。
それは、嫌だなあ。
少し考えてから、僕は名前と目を合わせる。けど、すぐに逸らされた。
「じゃあ、お願いしよっかな」
大丈夫。もしきみの瞳に映るどす黒い色が消えてしまったなら、その時は、僕が殺してあげるから。
名前が僕の隣に座る。何に怯えているのか、少しだけ手足が震えていた。そう言えば、彼女は僕と目を合わせてくれない。どうしてだろう。ちゃんと真正面から瞳が見たいのに。
足を伸ばしてなげだすように腰を下ろして、前方をぼんやり見ながら僕は口を開く。
「名前はさ、これからどうするの?」
「私は、……」
しばらく言い淀んでから、名前がはっきり言った。
「私は、この世界が嫌い」
その声にはどろどろした憎悪が滲み出ていて、僕は彼女の横顔を視界に映す。ああ、そう、その瞳。もっと、もっと見たい。
「働きもせずに酒とタバコに耽溺して、気に入らないことがあるとすぐに私を殴る父親なんて、消えてしまえと思うし」
もっと憎んで。この町を、その家を、世界を嫌って。
「愚痴ばかり吐いて、自分の娘とまともに接することができない母親も、いなくなればいいと思う」
冷たく細められた目に、ぞくぞくと背中を何かが掛け登った。思わず笑ってしまう。よかった。きっと大丈夫だ。名前の瞳が、あんな大人に汚されるわけない。
「けど、私、本当に彼らのことが嫌いなのかな」
は?
逆接で紡がれた名前の言葉は、僕から笑顔を奪うのに十分だった。
「……どういうこと?」
「私は家に帰りたくない。なのに、私がいない世界で両親が何も変わらず生きていくのは、嫌なの」
そんなこと言わないで。それじゃあまるで、きみが愛情を求めているみたいじゃないか。
そんなこと、許さない。
「私は、愛されたいんだ」
その言葉を聞いた途端、何かが切れた。名前の肩を押して床に組み敷く。その瞳はまだ暗い何かで濁ったまま。
きみに愛なんて、必要ないでしょう。
「愛されたい、だって?じゃあ聞くけど、きみは誰かを愛したことがある?」
そう聞くと、名前は無表情のまま少し考えて、「ないよ」と、それだけ答えた。そうだろうさ。だってきみはこの世界が嫌いなんだろう?
「誰のことも愛せないきみは、誰からも愛されない」
目を合わせようとしても、すっと逸らされる。それが嫌で、僕は名前の頬に手を添えた。こっちを見て。ねえ、僕を見て。
きみの心を奪うもの。せめてそれは、僕であってほしい。
「愛されたいなら、僕のことを愛せばいい」
驚いたように名前の目がこちらを向いた。ああ、やっと、目が合った。口角が上がるのを感じながらその瞳を見つめる。
「僕、けっこうきみのこと気に入ってるんだよ」
ゼラの次にね。きゃはっ。
朝になって、眠ったままの名前を起こさないように学校に行って、つまらない授業を受けているうちに放課後になった。
基地の中、光クラブのメンバーがそれぞれ作業をしているのをぼんやり眺めながら、自分の唇を指でなぞる。そういえば、女の子とキスしたの初めてだ。ゼラとは違って、柔らかくて、甘かった。
「おい、ジャイボ?」
気づくと、目の前にゼラがいた。訝しげな表情を浮かべるゼラに、僕は笑ってみせる。
「なに?どうかした?」
「……いや、心ここにあらずといった様子だったから、少し気になっただけだ」
眼鏡を押し上げてそう言うと、ゼラは僕に背中を向けた。そのまま歩いていこうとする腕に抱きついて引き止める。
「ねえゼラ、ゼラはさ、女の子とキスしたことある?」
「はっ?」
珍しく間抜けな声を出したゼラが誤魔化すように咳払いをした。それにクスクス笑うと、「笑うな」と怒られる。
「そんなこと聞いてどうするんだ」
「どうもしないよ。聞いてみただけだもん」
腕を絡めたまま顔を覗き込む。顔赤いよ、と指摘すると、視線を逸らされた。
ゼラのその仕草に、昨日の名前との出来事を思い出す。
名前が僕を愛したとしても、僕が愛するのはゼラだけ。でも、名前が他のなにかを愛するのは許せない。
こういう感情は、なんて呼べばいいんだろう。よくわかんないや。
「……もういい時間だな。今宵は解散!」
ゼラの声に各々が「はい、ゼラ!」と返事をして、作業していた手を止める。絡めていた腕をはなすと、こちらに一瞬だけ目をやってから、ゼラも帰り支度を始めた。
基地から出て空を見上げると、いつも通りの見えづらい星空が広がっている。そう言えば、名前はちゃんと小説を持ってこられるのかな。大丈夫だった、かな。
やけにキラキラ光る星が視界に入って、急に不安になった。はやく、早く名前に会わなきゃ。
急いで小屋まで向かう。星や月が僕を嘲笑っているような気がして、イライラした。
やがて、前方に名前を見つけた。古小屋に向かってまっすぐ歩くその後ろ姿に違和感を覚えて、思わず立ち止まる。
あれ、名前、何か変だ。いつもと変わらない制服を着ているのに、いつもと変わらない背格好なのに、いつもと何かが違う。
街灯に照らされた名前が、くるりとこちらを振り向く。ここからじゃ、顔がよく見えない。ゆっくり足を動かして彼女に近づく。
「今日は早いんだね」
「うん、君に会いたかったんだ」
僕に気づいた名前は、そう言って鞄から本を取り出す。差し出されたその表紙に、見覚えがあった。ああ、やっぱり。
僕は、この小説を知ってる。その結末も、知ってる。
「大丈夫だった?」
本に視線を落としたまま、そう聞いた。視界の端で名前が首を横に振る。僕は笑顔を貼り付けたまま、上目で彼女の瞳を見ようとした。
「両親と会って、色んな話をしたよ」
名前が、笑っていた。
「私、この町も、あの家も、好きになれそうなんだ」
その瞳には、光が宿っていた。僕が大好きだった“憎しみ”は、どこにもなかった。
あまりにも幸せそうに笑う名前は、僕の知っている名前じゃない。
そう。“大丈夫”じゃ、なかったんだね。
自分の顔から笑みが消えていくのを感じる。そのまま彼女と目を合わせると、名前の瞳が見開かれた。手元から本が滑って、地面に落ちる。
「きゃは、」
僕がずっと焦がれていたあの瞳は、もう消えてしまった。
もう一度笑顔を浮かべて、硬直している名前に抱きついた。あったかい。この熱をもう少しだけ感じたかったなあ。なんて思いながら、耳元に口を寄せた。
「きみ、もういらないや」
地面に転がる名前の死体の傍に座って、動かなくなった瞳を見つめる。僕にしては綺麗に殺してあげた方だと思う。落ちている本を拾い上げると、血でべっとり汚れていた。
「ねえ、きみが好きだったこの小説、最後はどうなるか教えてあげようか」
名前は、何もこたえない。
「少年たちは、外の世界につづく最後の扉を開けるんだ。けど、その先に広がってたのは、鉄格子だった。笑えるよね。彼らがいた世界は、彼らが夢見た世界は、鳥かごの中の、狭くて薄暗くて息苦しい、そんなくだらないものだったんだ。主人公が知った外の世界っていうのも、ただのおとぎ話だったのさ」
名前は、もう、僕にこたえてはくれない。
「結局、みんな捕まった。捕まって、目を潰されて、耳をちぎられて、舌を抜かれて。何も見えない、聞こえない、喋れない。無音の暗闇のなかでもがき苦しみながら、全員死ぬんだ」
虚空を見つめるその目から、涙がこぼれたような気がした。
「なんというグランギニョルだ、……なんてね」
僕ら光クラブが、一年半かけて作ってきた機械がようやく完成した。ライチと名付けられたそのロボットに、ゼラは美少女の捕獲を命令する。
最初は“美”を理解できずに、的外れなものばかり持って帰ってきていたけど、「自分は人間である」とインプットされて、ライチはようやく“美”を理解できるようになった。
そんなライチが連れて帰ってきた一人の少女を、ゼラはひどく気に入ったみたいだ。眠ったままの少女を玉座に座らせて、女神だなんだと捲したてる。
そんなゼラを見ても苛立たないくらい、胸にぽっかり穴があいてしまったような感覚がして、なんとも言えない喪失感がその穴を埋めていた。
ぼんやりと、頭に靄でもかかったみたいだ。白く濁った意識のまま時間はすぎて、気づくと僕以外のメンバーはいなくなっていた。
「…………」
外はもうまっくらだろう。帰らなきゃ。制帽を被りなおして鞄を肩にかける。
基地の外に出て、未だにぼーっとする頭のまま足を動かした。暗い夜道を歩いて、歩いて、民家が減り、工場も減り、自宅からどんどん遠ざかっている気がする。
それでもしばらく歩き続けて、ふと刺すように冷たい風が首元を通り抜けた。それにはっと我に返って辺りを見回すと、森の中だった。
奥に草原が見える。吸い込まれるように足がそこへ向かう。
一面に広がる緑色。名前と、最初に会った場所。
強く風が吹いた。ざあ、と音を立てて草原が揺れる。月光に照らされるその光景は、美しかった。
“美”。美しいもの。憎しみに染まった名前の瞳は、とても綺麗だった。
初めて見たときから、僕はあの瞳が大好きだった。暗い厭世の中に煮えたぎる憎悪を混ぜたような、どす黒い瞳。
そうだよ、僕は彼女の“憎しみ”が好きだったんだ。それがなくなった名前なんて、なんの価値もない。
あの瞳を思い出そうと目を閉じる。なのに頭に浮かぶのは、世界を好きになれそうなのだと笑う名前だった。僕が初めて見た、心の底から嬉しそうな笑顔。
記憶のなかで再生される名前の笑顔は、すぐに曇ってしまう。だって、僕が彼女から笑顔を奪ったから。
あれ、おかしいな。ボクは彼女の負の感情が大好きだった、はずなのに。
なんで、どうして。
どうして、もう一度名前の笑顔を見たいなんて、思うんだろう。
何度思い出しても、幸せに満ちた笑みはあっという間に消えてしまって、心臓が鷲掴みにされたみたいに苦しくなる。
ねえ名前、どうしてかな。
どうしてこんなに、かなしいのかな。
……ああ、そうか。僕はきっと、きみが好きだったんだ。
死んだ方が楽だと言う寂しそうな顔も、僕に怯える気弱そうな態度も、星に憧れているのだと語る真剣な表情も、愛されたいと訴える悲痛な声も、幸せそうなあの笑顔も。全部。
厭世とか憎悪とか、そんなのは関係なくて。
ただ、きみのことが、好きだったんだ。
あの日、あの場所で、きみを殺した僕は、もう二度ときみに会えない。
ああ、
──死にたい。