04

それの声をこんなに間近で聞いたのは初めてだった。いや、その声の“声”を聞くこと自体初めてだった。

生まれたばかりの赤子のような、年老いた老人のような、幼い子供のような、不思議な響きを持つねっとりとした、けれども何の感情も感じられない不気味な音。けれど、それでも。“声”は私に話しかけた。私を認識した。ならばこそ、私は答えねばならない。

「……わた…は……」

随分と久しぶりに動かした喉は震えて、不恰好で情けないものだった。

「…わた、しは……だれ、な…ろう、か」

声を出せるようになっても未だ、自身の肉体を視認することは出来ない。もはやそれを恐ろしいとも思わないが、けれど今の私には何もないのだ。

私を私と証明するものが身体だけであるとは思わない。だが、一番身近に感じる筈のその身体さえ、それを表す名称さえ浮かばない。だから私は、私が何なのかわからない。

「……は……だ?」

声がもう一度問いかける。私は、それに答えることは出来ない。
“これ”が黙ったままでいると、暗闇に静寂が訪れる。成る程、音がないと言うのは、こんなにも恐ろしいものだったのかと何とはなしに声の理由を理解する。

「ああ、嗚呼、……い…………さない、ぜ……に、…………い」

暫く経つと、声は次第にいつものように音を吐き出す。けれども近くにいるはずのその声を正確に聞き取ることは出来ない。

「なにを、そんなに…でいるんだ」

私はそれに問いかけた。
上手く言葉になっていたのかはわからない。けれども姿の見えない声の意識がこちらに向いたことは不思議と理解出来た。

「……ない」
「さ……い」

ぼそぼそと、近い筈の声が聞こえない。相変わらず耳元で聞こえる声に不気味さを感じるものの、それでもこの声以外に何もないのだ。私はこれにすがるしかない。

「絶対に…さない」
「なにを?」

もう一度声に問いかける。私に向けられた問いに答えることは出来なかったが、これの真意は理解したいと思った。随分と勝手なものだ。私は彼の問いには答えられないというのに。

「なに、を…さない?」
「な…が憎い?」
「なにを……たい?」

声は答えない。ただずっと、私に向けられた“目”は反らされることはない。

出切ることなら今すぐにでもこの場を離れたかった。あれほど望んでいたくせに、自分で会いに来たくせに、私はこの声をひどく恐ろしく思っていた。
しかし離れたところで何もないのだ。こうして意志の疎通を計ってしまった今、あの暗闇に戻りたいとはもう思えなかった。一人の暗闇が恐ろしいと、今になってようやく気付いてしまった。

「……い。……けは、……だけは、絶対に」

ぼそぼそと紡がれる言葉はその答えのようだったが、やはり私に聞き取ることは出来なかった。


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