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開いたドアの向こう、にっこりと笑ったロックハートがベッドの上に座っていた。
きれいにカールしたブロンドの髪、勿忘草色の瞳。
白い歯がのぞく唇の上がり具合まで、以前と全く変わらない。
どうしよう。
何を言えばいいんだろう。
口を開くが、出すべき言葉が思いつかない。
次の瞬間、馬鹿みたいに明るい声が、耳に飛び込んだ。
「やあこんにちは、サインですね?」
「お友達にもあげるといい。何束欲しいですか?写真が足りるといいんだけど…」
私があっけにとられている間に彼はそう言い、写真の束をごそごそと探りはじめた。
サイン?
サインだって?
言われた言葉を反芻しているうちに、体の力がみるみる抜けていくのを感じた。
どんな状態になってもサインのことしか考えてないのか。
三つ子の魂百までとは聞こえがいいけど、馬鹿は治らなかったってことですね。
私のさっきまでの緊張をどうしてくれよう…!
「いりません」
気を使う必要がないと判断した途端、すっかり口が軽くなった。
部屋に入りベッドに近づいていくと、彼は残念そうな顔でこちらを見上げた。
勿忘草色の瞳が私を見つめると、目がまん丸に大きくなる。
勢いよく、窓際で花を取り替えていた癒者の方へ振り返った。
「ねえマーサ、ごらんよ!なんて綺麗なお嬢さんなんだろう!」
歯の浮くようなセリフも変わってないんですか、あなたは。
「嘘ばっかり」
「あなたに嘘なんて言いませんよ」
「それが嘘なんじゃないですか」
「本当です。私は今まで、こんな素敵な人に会ったことがありません!今まで一度も…いままで…」
何度も言い募っていくうち、ロックハートは徐々に真顔になった。
「…以前、どこかで会いました?」
胸がぎゅっと締め付けられたようになった。
「ええ」
それだけ言うのが精一杯だった。
彼は視線をさまよわせ、頼りない声でぶつぶつと呟いている。
「…ずっと前に…どこだったかな…」
「…いいんですよ」
一呼吸おいて落ち着いた私はロックハートに言った。
「いいんです、忘れていても」
それは本心だった。
もし思い出したことで悩んでしまうのなら、忘れたままで構わない。
彼を苦しませに来た訳ではないのだ。
ロックハートは突然笑顔に戻った。
「そうでしょうね、こんなハンサムな魔法使いに会ったときのことは、なかなか忘れられないでしょう!」
ふたたび脱力。
この緊張と緩和の波状攻撃、非常に疲れるからやめてほしい。
「ええ、忘れませんよ。あなたみたいにハンサムで”嘘つきな”魔法使いのことはね」
「…どうして信じてくれないんだろう?」
むすっとした顔で不服を言う。
その表情が子供そのもので、ちょっと笑った。
「お元気そうでなによりです」
「ええ、元気ですよ!サインはいかがです?」
「いりませんってば」
「まあ。二人はとっても仲がいいのね」
ごゆっくり、と笑って癒者は部屋を出て行った。
* * *
いつの間に用意してくれていたのか、サイドテーブルにはティーポットとカップ、それからクッキーが盛られた小さな皿が置かれていた。
ベッド脇の肘掛椅子に腰かけた私は、カップから立ちのぼる湯気をしばらく眺めていた。
ロックハートはあれからしばらく、恐ろしいほどの勢いで私を褒め称えまくっていたが、私がまったく取り合わないことに拗ねてしまった。
今はサインを書く作業に没頭している。
ふと、既視感をおぼえた。
けれどここに来るのは初めてのはずだ。
辺りを見渡してみる。
窓から見える空は、青々と晴れている。
二つ並んだティーカップ。
彼の写真ばかり並んだ壁。
ブロンドの髪の下にさらりと隠れる、うつむき加減の整った輪郭。
この風景そのままの経験はなかった。
けれど、いつか見た景色の断片が、そこにはいくつもあった。
ひとつひとつを手がかりにして、見えないところに丸めて押し込んでいた記憶が、元の形にほどかれてゆく。
…ああ、私は、覚えていたんだ。
そう感じた瞬間、ここに来た目的をようやく分かった気がした。
「先生、ひとつ教えてください」
「なんでもどうぞ」
彼は歌うように言った。
一度だけ深呼吸して、聞く。
…私はたぶん、これを確認しに来たんだ。
「今、寂しくない?」
「いいえ」
ロックハートは羽ペンを動かしながら言った。
私はすぐに言葉を投げかけた。
「嘘でしょう?」
「どうして?」
彼はサインの手を止める。
不思議そうな顔をしてこちらを見た。
「嘘は通じませんよ、私には」
いつかと同じ質問。
いつかと同じ答え。
けれど、その後は違っていた。
「さっき言ったでしょう。あなたに嘘なんか言わないって」
彼はにっこり笑った。
その笑顔は、私が今まで見た中で一番、きれいだった。
「あなたが来てくれたのに、寂しく思う必要がありますか?」
頬が濡れた感触ではじめて、涙が出ていることに気付いた。
それを見たロックハートは、急におろおろし始めた。
「どうしたの?どこか痛むんですか、それとも気分でも……」
「違います、違うんです」
格好悪いと思うのだが、なかなか自分で止められない。
後から後から出てくるしずくを指で拭いつづける。
「よしよし、泣かないで」
大きな手が頭を撫で、おずおずと背中に回された。
「大丈夫ですよ、私がついていますからね……」
腕の中でしばらく私は泣き続けた。
悲しいのか。
安堵したのか。
それとも嬉しかったのか。
自分でもよく分からなかった。