▼ Tea 2 (Ravencrow)
男は決して鈍い方ではなかった。
むしろ神経質なほうで、やろうと思えば普通の女性よりよほど細やかな気配りができた。
もっとも彼が気配りする価値があると思う者はごく僅かなので、実際にその場面を見られることはほとんどないと言っていいのだが。
そんな訳で、彼にとって“レイブンクローの一生徒”というだけの存在である彼女の変化に気づくのも、当然であった。
ローブから、ふわり、と、たちのぼる香り。
それはバラであったりレモンであったりイチゴだったりしたが、授業で数日おきに会うたび異なっていた。
もちろん鋭い彼には、最近になって始まったことの理由も察しがついている。
自身のためではない、誰かのためだ。
彼女の様子を見る限り、それは正しいようだった。
外見に気を使うようになっていたし、以前よりずっとよく笑う。
そういうこともあるだろう。彼は思った。
ここに来て7年、子供は嫌でも成長する。その間にはそういう時期も通過する。
教育に支障が出るなら規制せねばならないが、そのような様子は見えない。
何もないなら特に教師が出しゃばることでもないだろう。
ましてや自分の寮の生徒でもないのだ。
寮監のフリットウィックを差し置いて口を出すのは逆に問題の種になる。
彼女と直接会話するのは授業での受け答えぐらいだが、真面目で品行方正な印象だった。
なにより節度というものを知っている。行き過ぎることを心配しなくても良いはずだ。
ある日、男の研究室にノックの音が響いた。
寮生全員分のポートを提出しに、少女が訪ねてきたのだった。
彼女が当番になったのは学年が変わって以来初めてだったが、幾度か思案の対象にのぼっていたせいで、そうは感じなかった。
彼女はやや茶味がかった黒髪を伸ばし、背中に下ろしていた。青いネクタイが良く映える。
まっすぐ彼を見据えて、用件を告げたとき、男は異変に気づいた。
――以前の彼女ではない。
ただ自分の発言に相槌を打つだけでも、教卓越しに判断していたとき以上の変化が少女に起きていることが彼には分かった。
何がどうなったのかは具体的に言葉にはならない。
しかし今や彼女には“少女”というより“女性”という表現の方がふさわしかった。
そのことに彼は内心、動揺した。
――先日、知人がドラゴンの血液のサンプルを送ってきた。
――サンプル?
――貴重な種だけを集めて、四種類ほどな。どれも特殊な効果はないが、上手く使い分ければ薬の効果が上がる。
――それも先生がお調べになったんですか?なんでもできるんですね。
とりとめもなく男は喋った。
目の前の彼女がその静かな声で相槌を打ち、
ほっそりした首を傾げて説明を促し、
理解の印にニッコリ微笑む。
それだけで、彼の口から言葉がいくらでもあふれ出てきた。
どうしてなのか自分でもわからない。
それどころか、どうすればこの馬鹿げた雑談を止められるのかすら彼には分からなかった。
口は絶えず動いているが、考えようとしても、どうにも頭が働いてくれない。
信じられないことだが、自分が思考することを拒んでいるのではないかとすら思えてくる。
訳が分からないままに彼は自分の声を他人事のように聞き、それに反応する彼女の一挙一動足を、ただひたすらに目で追った。
製薬に一番適した大鍋はどの金属で作るべきかを彼が話し終えると、女はなめらかに切り出した。
――それじゃ私は、そろそろ…
男は瞬時に反応できなかった。
思考停止していた彼の頭には、あまりに予想外の台詞だった。
それでもなんとか不自然でない程度には返事できたのは、彼にとって幸いだった。
―――ああ、そうだったな。
その台詞を言った瞬間、体の感覚が男に戻った。
まるでちぎれてしまっていた神経がようやく繋がったような気分だった。
彼は手足を取り戻し、再び自分のものとして動かせるようになった。
手始めに、それまで彼女しか見ていなかった目で、時計を見る。
針はノックの音がしてから15分も経過していた。
ち、と彼は内心で舌打ちする。
特に利益も得られそうにない相手とくだらない話を、15分も?正気ではない。
退室を許可された雰囲気を読み取り、彼女は一礼した。
西洋にそんな習慣はないというのに、律儀にも故郷の“年長者には敬意を示す”という礼儀を守っているのだろう。彼女らしい。
そしてドアのほうを向く。
腰まで届く長い髪が、地下室のわずかな光を映しこんでいる。
静かに歩き出す。
一歩、
踏み出すたび、髪が、ローブが、なめらかに揺れる。
二歩、
ローブから伸びた手も、前後に動いている。
三歩。
その手は白く、細く、
――またしても、彼の体の自由は奪われた。
いや、思考さえも奪われていたのかもしれない。
その瞬間、彼は、目の前の手を掴むことだけを考え、そして、実行した。
今回はさっきより、自らを取り戻すまでが早かった。
おかげで男は、自分を正当化する言い訳を考えなくてはならない羽目になった。
驚いた目でこちらを見ている彼女と――自分に対して。
そして神経の細かい彼は、思いついたのである。
「…ところで」
見かけ上はまったく落ち着き払っている。
本当に今更ながら、彼は自分が閉心術を使えることを思い出したのだ。
「この間、人にパウンドケーキを貰ったのだが…我輩は甘いものが嫌いでね」
彼女はさらに驚いて目を丸くしたが、数秒して意図を理解した。
「――頂いていいのですか?」
「そういうことだ」
もったいぶって頷くと、彼女は嬉しそうな笑顔になった。
女性ならばと予想したとおり、甘いものは好きらしい。彼は内心安堵した。
「ものはついでだ、紅茶も――」
杖を出そうと手を動かそうとして、彼はようやく現状に気づき、戦慄した。
まだ、手を握っている。
――まったく、どうしようもないな。
ついに彼は観念した。
ここまで制御が利かないと、言い訳なんかの小さい理性ではもはや太刀打ちできない。
原動力になった感情を、認めないわけにはいかなかった。
とりあえずはこの機会に、その香水が誰のためなのか、それとなく探らなければならない。
男は彼女を椅子へとエスコートした。
彼女が動くたび、清楚な香りが辺りへ漂う。
今日の香水はユリのようだ。彼女によく似合っている。
彼は歩きながら早速、この香りを自分だけのものにする策を考え始めた。
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