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「…ごめんなさい」
いつかのような呼びかけを耳にして、ようやくスネイプは我に返る。
成長した少女が、申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「私、セブルスに迷惑ばっかりかけてきたでしょう」
「…数えきれないほどにな」
元は少年だった男は、いつもの調子を取り戻そうとフンと鼻で笑う。
「しかもそれが今にまで続くとは思わなかった」
「私だってホグワーツにセブルスがいるなんて思ってなかったよ」
「さぞや腐れ縁を残念がったことだろう」
「おかげで緊張しないで済んだ」
「…緊張?」
「私、見た目ほどには中身変わってないのよ」
レイは微笑み、手元の羽根ペンに目線を戻す。
まだ手遊びをしていた。かたん、かたんという音の隙間をぬって、声がひびく。
「人見知りが治りきってなくて」
かたん。
「知り合いがいるってだけでずいぶん楽になったわ」
かたん。
「むしろ、毎日楽しかった」
かたん。
「本当に感謝してる。ありがとう」
「ならばなぜ出て行く」
音は止まった。
「…知ってたの?」
「寮監の耳に入らぬはずがない」
「なんだ、ギリギリまで隠しておいてってダンブルドアに言ってあったのに」
「はぐらかしているつもりか?」
そう釘をさし、スネイプはもう一度同じ問いを口にした。
「楽しいというのなら、なぜホグワーツを出て行くのだ」
「だって……楽しいから」
「は?」
「楽しいから行くの。楽しいうちに」
そう言って、レイは大きく息をついた。ため息というより、覚悟を決めるためといった感じだった。
教卓のある一段高いところから、スネイプの居る生徒の机の辺りにゆっくりと降りてくる。
「セブルスは私と居て、昔のこと思い出さないでいられる?」
「いきなり何だ」
「無理でしょう?私だって思い出すわ。時々だけど。思い出したらどうなると思う?」
レイはまっすぐ彼を見つめた。
「悲しくなるの、あなたを見ると。――理由は分かるでしょう?」
分からない、とスネイプは言えなかった。
「…最近ね、その“時々”がすごく増えてきた。きっとこの先もっと増えていくと思う。
そうなったら私、あなたに悲しい顔しかできなくなるわ」
レイは少し目を伏せた。
「そうなる前にお別れしたいの。自分から」
「…認めんぞ。我輩は」
無理やりひねり出すようにスネイプは言った。
「どうして」
「そんなくだらん理由で職を捨てるなど、愚かだ」
「くだらなくないわよ」
「しかも我輩のせいだと?お前が辞めるのは勝手だが、我輩のせいにされることは認める訳にはいかん」
「違うわ、わたしのせいよ」
「そうは聞こえなかったが」
いつの間にか、彼の口調には生徒にするような皮肉さが混じっていた。
「我輩が気に入らんのなら、正直にそう言えばいいだろう」
「違うわ」
「どこが違う?邪魔なのだろう」
「邪魔じゃない」
「ああそうだ、お前は優秀な防衛術の教師でしたな。ダンブルドアに進言すれば我輩をどこかへ左遷することも可能だろう」
「あなたねえ、聞きなさいよ人の話を!」
ついにレイはキレた。
「さっきから言葉尻を取っちゃゴチャゴチャと文句ばっかり!どこのクレーム好きな主婦よ!」
「…どこが昔と変わっていないって?」
「うるさい!私はね、セブルスの邪魔をしたくないの!悲しい顔を見せて、不機嫌になってほしくないの!セブルスの前ではいつも笑顔でいたかったの!」
「…ちょっと待て、頭に血が上りすぎている」
「勢いづいてるだけよ!いい?せっかくだからぶっちゃけるわよ?」
怒りの声は、いつの間にか泣き声に変わっていた。
「セブルスにだけは嫌われたくない。セブルスだけは嫌いになりたくない!」
「…さよなら」
それを言うなり、レイはドアに向かって駆けだした。
「おい」
「達者で暮らせば?ひねくれ者さん」
「おい!待たんか!」
スネイプは慌てて杖を取り出し一振りした。
ドアがレイの目の前で閉まる。
ノブをがちゃがちゃガタつかせ、なんとか出ようとしたのだが、魔法錠を使っているらしくビクともしない。
「もう用は済んだんだから帰してよ!」
「こっちが済んでいない!」
「何よ、あんた別に言うことないでしょ」
「“クレーム好きの主婦”に反論をしなければならん」
「…間違ってないじゃない。監禁してまでクレームつけたい訳?」
「やかましい!あんなことを言い逃げされて、帰すわけにはいかんだろう!」
驚いてレイは振り返り、声の主を見た。
彼女の知る限り、スネイプの声は今までで一番感情的だった。
「…せっかくの機会だ」
叫びすぎたのか、少し息を切らしながら男は言う。
「我輩もひとつ話をしよう。お前の知らない昔話をだ」