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地下牢の隣、魔法薬学の研究室。
放課後そこに行けば、セブルス・スネイプに会えるのはまず間違いない。
「いつもありがとうございます、先生」
「なぁに、熱心な生徒に知識を授けるのが教師の務めだよ、スネイプ君」
部屋の主は鷹揚に言った。
優秀な生徒が自分を慕っているという事実を彼は気に入っていた。
…もっとも、セブルスが本当に彼を尊敬しているかという話は別問題だ。
もう質問をはじめて1時間になる。
今日のところはこれで切り上げようと別れを告げたセブルスは、ドアを開けた。
…出られなかった。
知らない誰かが、自分の行く手を遮っている。
小さい頭の下から伸びているカナリア・イエローのネクタイは、地下の湿っぽい空気にやけに馴染んでいなかった。
彼女は可哀想なぐらい緊張していたが、そんなことはセブルスには関係がない。
彼にとっての問題は、少女がセブルスの存在を知らないかのように、頑として動いてくれないことだ。
「なにか用か」
どいてくれ。
言外にそう含ませて、ぶっきらぼうに呟く。
少女は肩をびくっと震わせ(たった今セブルスに気付いたのだ)、蚊が鳴くような声で、
「…先生に質問が」
そう言って、彼女は恐る恐る部屋を覗きこんだ。
探していた人物が目に止まると、またもや肩が大きく震える。
それっきり、まるで石化の呪文でもかけられたかのように固まってしまった。
「…先生」
仕方なく代わりにセブルスが呼ぶ。
振り返った教師は、ようやく少女の姿に気付いた。
「ほう、君はたしかハッフルパフの…」
手元にあった名簿をチラリと見て、
「そうそう、レイ・コーリだ。すまないな、最近物忘れが激しくて。それで?」
「あ、あの、質問が」
「ん?何だね?」
レイの声が小さすぎて聞こえなかったのだろう、教師はなんの用か尋ねた。
彼女はもごもご口ごもった挙句、手に持った羊皮紙を突き出し、レポートの採点理由が分からないところがある、と言葉足らずに説明した。
「ふうむ」
アクシオ、と呼び寄せ呪文を唱え、教師は手に入れたレポートを覗き込んだ。
「前回のレポートか。確か溶媒について…なるほど、おそらくこの3問目だろう。違うかね?」
「はい」
部屋から出ずに様子を伺っていたセブルスは、内心鼻で笑った。
まるで幼稚なレベルの質問だ。
先程自分がしたものとは比べものにならない。
「…分かった、説明しよう。こちらに来たまえ」
教師も彼と同じ考えらしい。
羊皮紙を見ながらいささか気怠そうに言った。
レイが教師に渡した羊皮紙、握り締めていた部分が皺になっていた。よほど緊張していたのだろう。
もっともその緊張が解けるようすは全くないようで、レイは少しずつ、恐る恐る歩み寄っていく。
そこまで見たところで興味が尽きたセブルスは、ドアを閉めて研究室を後にした。
くだらないことに時間を割いている暇などない。
歩き始めて1分もすれば、彼の思考はこれから向かう図書室で借りる予定の本のことでいっぱいになった。
その後も彼は度々、レイを見かけた。
たいていそれは研究室のドアの前で、どちらかが出て行くときにどちらかが入る。入れ違いである。
彼女は相変わらずで、回数を重ねても緊張がほぐれる様子を見せなかった。
一度など、出てきたドアを後ろ手に閉めるなり大きなため息をついていたことがある。セブルスがいることに気づくと、真っ赤になって慌てて駆けていった。
そんなに大変なら来なければいいのに。
自分で調べれば済むだろう。
それともあいつは、それすらできないほどの馬鹿か?
ずっとそう思っていたのだが、セブルスは勘違いしていた。
彼女が石になっていたのは、教師が怖かったからではなかったのだ。
* * *
そのときレイは、研究室の扉の前にうずくまって部屋の主を待っていた。
「…来ないぞ」
その声で顔を上げる。
泣きそうに見えたので一瞬どきりとしたが、セブルスの勘違いだったようだ。
「先生は魔法省に出張されている。今日中には戻ってこられない」
「…そうなの」
かすれた声が、長時間待ち続けていたことを示していた。
「残念…、せっかく来たのに」
「どうせいつもの質問だろ」
セブルスは初日の羊皮紙を思い出し、薄く笑った。
「教科書はちゃんとページを飛ばさず読んだか?板書の写し間違いは?それよりお前、ない頭を絞ってちゃんと考えることを忘れてないだろうな?」
レイは一瞬目を丸くした。
「どういうこと?」
「先生はお忙しいから、いちいちお前に付き合ってる暇はないってことさ」
「そんな…」
「価値のない質問をするぐらいなら、元からしないほうがマシだ。時間の無駄遣いもしないで済む」
「…た、たしかに、あなたにとっては価値のない問題かもしれないけど」
セブルスは自分の“忠告”をただ縮こまって聞いているだけだろうと思っていたが、意外にも彼女は反論した。
「わたしだって努力してるわ」
「へえ。無駄な努力を?」
「無駄にはなってない!……たぶん」
レイは勢いよく羊皮紙を突き出したが、語尾はしぼんでしまった。
セブルスはそれを覗き込む。
文章題が何問か並んでいて、7割方正解。
間違えた問題もほとんど解きなおしてあった。
唯一“?”マークが書かれている問いは複雑で、明らかに教科書レベル以上だ。これを質問に来たのだろう。
「自分なりに勉強したの」
レイは呟く。相変わらず小さい声だ。
「いつまでも、先生を呆れさせたくないから…でもやっぱり駄目ね。いくら頑張っても私の頭じゃ、あなたみたいにはなれないみたい」
うつむくレイに、セブルスはかねてからの質問を口にした。
「なぜ魔法薬学にこだわるんだ?今まで特に好きって訳じゃなかっただろ」
「…だって」
辛うじて聞き取れるぐらいの声でレイは呟いた。
「先生と二人でお話できる機会って、それぐらいしか思いつかなかったんだもの」
あまりにも予想外の解答でセブルスの頭は一瞬停止した。
しかしすぐに、苛立ちが湧いてきた。
ふざけるな。
こっちがどれほど必死で勉強してると思ってるんだ。
「不純な動機で勉強したって、ちゃんと身につくとは思えないけど」
「…ごめんなさい」
はっと気付いた時にはもう遅かった。
レイの肩が震えている。緊張でなく。
「真面目に勉強してるセブルスに失礼だもん…怒られても当然だよね…」
今度は勘違いじゃない、もうすぐこいつは絶対に泣く。
セブルスはそう確信した。
が、経験の少ない彼の頭では、すぐに対策が思いつくはずもない。
「わかった、わかったから落ち着け」
これを何度も口にして時間稼ぎをし、普段使わない部分を何分も必死に働かせて、彼はようやくこの場をとりなす方法を思いついた。
「今日のところは僕が教えてやる」
「…セブルスが?」
「その問題は既にやってるからな。それから教科書程度の分からない部分なら、これからはまず僕のところに来い」
「どうして」
「呆れられたくないんだろう」
「…うん」
「お前はまず学力の底上げをした方がいい。先生に聞くのはそれからだ」
「…わかった」
泣く準備に取り掛かっていたレイは、ぴたりとやめた。
それを見たセブルスはひと息ついたが、自分にサービス精神が意外にあったことに対するため息も半分混じっていた。
これ以上は絶対に協力してやらないぞ。
キューピッド役なんか御免だからな。
レイの知識量はみるみる増えていった。
そのスピードは恐ろしく速かったのだが、セブルスに言わせると“今までがサボり過ぎていた”らしい。
…彼はこのときからスパルタだった。
「失礼します…あ、し、失礼しました」
「別に構わんよ。セブルスも、相手がコーリなら気にならないだろう?」
「…ええ、まあ」
「さて、そろそろ休憩しようと思っていたところだ。3人でお茶にすることにしよう」
教師は機嫌よくそう言って、杖をひと振り、ティーセットを取り出した。
それはつまり、先生のお気に入りの一人に加わることと同じだ。
――お前の狙い通りか。
どんな顔だろうとレイを見やったセブルスは、彼女の笑顔をはじめて見た。
嬉しさが、緊張に勝ったらしい。
3ヶ月目にして、ようやく。
「ダージリンとアッサム、どちらが好きかね?」
「どちらも好きです、お任せします」
――調子に乗るなよ、今までと打って変わったみたいにニコニコして。
――誰のおかげだと思ってるんだ。
セブルスは出そうになった毒を喉の奥に無理やり押し込んだ。
まだまだ知りたいことは残っている。言われたことには従っておくのが得策に違いない。
ましてや、つまらないことで機嫌を損ねるなんてもっての他なのだ。
その代わり、『尊敬』する教師に、
「今日の天気に合うのは、ダージリンではないでしょうか」
と、声をかけた。
* * *
セブルスが次に彼女と会ったのは、1週間後だった。
見違えるほど、笑顔がさまになっていた。
「本当にありがとう。おかげで最近はためらいなく先生とお話できるの」
レイの目は宝石のように光り輝いていて、セブルスはまともに見られなかった。
次に会ったときには、彼女は軽やかな足取りで歩いているところだった。
今にもスキップを踏みそうだ。
「実験の助手をさせてもらうの。先生の方から誘ってくださったのよ!」
あまりに嬉しそうだったので、セブルスは
「僕だって頼まれたことぐらいあるさ。しかも何回もね」
と、言いそびれた。
そしてその次が、彼女と接触した最後の日になった。