▼ ジェントル
――遠い。
それしか思わない。
羊皮紙を持った腕がだるくなってきた。
重くはないのだが、なにせクラス全員分を預かっているのでかさばる。
落ちないようにと気を使う。
それより何より、目の前を歩く男の足が早い。早すぎる。
ついていくのが精一杯だ。
くそ、リーチの長さをここぞとばかりに自慢しやがって。
悔しくないぞ。悔しくない。 ただ、ついていけないだけだ。
開きかけた距離を小走りで追いついて、はあ、と息を吐く。
ついでにぽろっと本音が出た。
「先生、まだですか」
「まだだ」
「…疲れました」
「早い」
見事な一蹴。
この角度からは髪に隠れて見えないが、スネイプが軽く睨んだような気がする。
グリフィンドールの私がこの人を相手にしているのだ、そりゃさっきまでガチガチだったが、今は緊張どころではない。
知らない道を通っている今、置いてけぼりにされると確実に迷う。
「これぐらいで疲れるとは、体がなまっているのではないかね。情けない」
「…文化系なもんで」
「それにしては勉強が秀でているわけではないようだが、ミス・コーリ」
「う」
会話したつもりだったが即詰まった。
このスピードを保ちながら皮肉言えるなんて、口下手な私には想像もできない。
別に悔しくないよ!悔しくなんかないもんね!
「ホグワーツの端から端まで歩くだけだ。自分の住んでいる城ではないか」
「そうですけど…」
明らかに遠いですよ。
塔を上って階段降りて、隠し扉もたくさん抜けた。
元々方向音痴の気がある私だ、置いてけぼりにされたら迷うこと請け合い。
それが必死についていく理由でもある。
ああ、こんなことなら研究室で待ち伏せしときゃよかった。
わざわざ真逆の裏庭まで探しにいくから、遠路はるばる届けさせられる羽目になるんじゃないか。
「ふん、ニホンの住居はウサギ小屋並だという。それに比べれば確かに広かろう」
「…あれは多少言いすぎだと思いますが」
…そんなどうでもいい知識、どこで仕入れたんだ、この人。
やっぱり読書家っぽいから本だろうか。
それでもって最新のなんて読んでなさそうだから、
『ミステリアス・ジャパン〜フジヤマからハラキリまで〜』
みたいな名前からしていかがわしい入門書を参考にしたりするのか。
それを読んで先生が想像するのは、
ウサギ小屋にすし詰めにされる、
サムライ・ゲイシャ・スモウレスラー…
うわ笑える。
ついでに天井にはニンジャとかな。
妄想が広がり始めた。こうなったら際限ない。
おかげでまた距離が開いたので、慌てて小走りで詰めた。
できるだけ大またで、勢いよく歩く。
少しでも開いたと思えば軽く走って間を詰める。それを何回か繰り返した。
今も見失わないよう、黒いローブだけをじっと見つめて歩いている。
何度も言うが、必死だ。
ホグワーツで遭難なんて冗談じゃない。
それがどれぐらい続いただろうか。
歩く速度は緩めないままだったが、ある時、前を歩く男に動きがあった。
しゅ、と杖を取り出す。
そんな音が聞こえそうなほど、なめらかで勢いのある動作だった。
減点対象でも見つけたかと思ったが、スネイプは手首を返して、杖先をほんの少し動かしただけ。
「え」
手元がいきなり軽くなった。
見ると羊皮紙の束が、半分ほどの厚みに減っている。
「…あれ?」
「ここだ」
彼の杖と反対側でカサリと音がする。
羊皮紙の束は確かにそこにあった。
スネイプはちら、と振り返った。
ほんの一瞬だけ目が合った。
「バラ撒かれてはかなわないのでね」
すぐに前を向く。
「せいぜいしっかり抱えていたまえ」
「…あ、ありがとうございます」
しばらくあっけにとられていた私は、我に返ってようやく礼を言った。
言いながら小走りで詰める。
また距離が開いてしまった。
そういえばここは、紳士の国だったんだっけ。
いつも通りの皮肉な口調だったのに、何故かふと思い出した。
…だったら速度も落としてもらえないものでしょうか、ジェントルマン。
ついでに私は黒い背中に念じてみた。
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