▼ シャンメリー
「……」
「……」
「え、あたし日付間違えました?」
沈黙に耐え切れなかったのはレイの方だった。
「間違えてはいない」
「じゃあいいじゃないですか」
顔の曇りが晴れ、にっこりと笑う。
乾杯、という声とともに、ガラスのぶつかる小気味よい音が鳴った。
スネイプはというと、不満げにただ座っている。グラスに手もつけていない。
したがって、置かれたグラスに彼女が勝手にグラスを合わせた形である。
テーブルに並べられたカトラリーにも使われた様子はなく、まるできれいなままだった。
「どうしたんですか?まさか祝われたの初めてとか」
「確かに多くはないが」
「だと思いました」
ほっとけ。
と思ったが、スネイプは声に出さなかった。
そもそも、祝うだとかの問題ではない。
TPOだとか、祝ってもらう関係にないとか、そういう方面の問題である。
ここはホルマリン漬けが壁面にずらりと居並ぶ薬学研究室だ。
いくらテーブルの体裁を整えようが、
「わざわざこんなところで物を食おうと考えるか?普通」
「ほおー、まさか先生から『普通』なんて言葉を聞くとは思いませんでしたー」
「お前の口から『遠慮』という言葉が出てくるよりは珍しくないと思いますがね」
いくら嫌味を投げかけようが、レイはにこにこと話を続ける。
「最後にお祝いされたのっていつですか?」
「覚えておらん。はるか昔だ」
「じゃあ誰に?」
彼の脳裏をほんの一瞬。
鮮やかな赤がかすめていった。
それを追いやるように、ゆっくりと目を閉じ、開く。
「…友人だ」
眉間が知らずに寄っていた。
レイは真剣な面持ちになった。
力が入った声で、質問する。
「…それは実在する友人ですか」
「そんなところで水増しするか。馬鹿者」
別の意味合いで眉の皺が三割増した。
スネイプの思いをよそに、レイの質問責めはまだ続く。
「じゃあ、その人と一緒にいた時期から、何年前だったか割り出せません?」
「そんなことをして何になる」
「いいから、思い出してくださいよ」
「我輩の機嫌を損ねるためにわざわざ来たのか?」
「違いますって。大事なことですから言ってください。お願いです」
不思議なことに、彼女の声に懇願するような響きが混じってきた。
仕方なくスネイプは思い出の切れ端をかき集めてヒントを探し、割り出した年数を言った。
「なるほど、わかりました」
レイはふむ、とひとりごちた。
「これのどこが大切だと?」
「だって聞かないと分からないでしょう、私がいつまで来なきゃいけないか」
「…我輩にも分かるような言葉で説明していただけるとありがたいのだが」
「イエス、サー。ではご説明いたしましょう」
彼女はもったいぶって言った。
「今日は今の先生をお祝いする日です」
「それで?」
「それで明日は、1年前の先生をお祝いする日です」
「は?」
「明後日は2年前、次の日は3年前、その次は4年前…。
そうやって、今までできなかった分をぜーんぶ埋めていく。
それが終わるまで、今年のお誕生日は終わりません」
「すると何かね、君はこの押しかけ行為を1日では終わらせず、何日も続けると」
「そうです」
「なぜ」
「義務です」
レイは胸を張った。
「最初に気付いたわたしにしかできないことでしょう?」
「確かに、傍迷惑な君にしかできんことだが」
「ありがとうございます」
「褒めてはおらん」
彼は大きくため息をついて、結局グラスを手に持った。
根負けした形だ。
透明な壁の中でゆらめく液体。
生まれては昇る小さな空気たち。
無機質な景色につられて、脳裏にまたよぎるものがあった。
今の自分には嬉しくもないが、
――昔の“僕”なら喜ぶだろうか?
…いや。
祝うのがこうも騒がしい人間では、いくら子供の時分でも喜びはすまい。
彼は結論づけ、瑣末なノスタルジーを追いやった。
そして目の前の騒がしい人間をどれだけ静かにするかに力を注ぐことにした。
いつもの通りにしているつもりで、実はいつもより少しだけ、
穏やかな顔をしていたのだが。
この部屋に鏡はなかったので、彼が気付くことはないだろう。
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