▼ ボーダーライン
もうすぐ新しい年が明けようとしている。
クリスマスを過ぎたイギリスの年末は静かなもので、スネイプも例に漏れず、落ち着いた12月31日を過ごしていた。
ホグワーツから帰宅することは寮監の仕事上ままならない。しかし一年の大半を過ごしているのだから、薬学研究室はもはや第二の我が家である。くつろぐことができない訳ではない。
ただしそれは、客がない場合の話であるが。
今がまさにその例外だった。
口が立つ彼にしては珍しいことだが、突然押しかけてきたその“客”の説得に苦戦している。
「いいかね、ここは我輩の私室だ」
「言われなくても分かります」
「生徒が勝手に泊まっていい場所ではない」
「じゃあ、許可がもらえればいいんですね」
「まさか我輩が許可するとでも?」
「大丈夫です。10時以降は出歩きません」
「…待て。それは帰らんということか」
レイは振り向いて親指を立てた。
イエス、アイ・ウィル・ステイ・ディスルーム。
スネイプの脳内を理不尽な感覚が駆け巡った。
それを何と言葉に出すべきか、迷っているうちに少女が二の句を継ぐ。
「ホグワーツって不便ですよね」
お年頃の少女は可愛げも何も意識することなく、ポテトチップスをバリバリかじりつつソファに寝転がっている。
その側には部屋の主が呆然と立ち尽くす。この図は説得当初から同じである。
「こたつもないし、みかんもおそばもないし。日本から取り寄せとけばよかった」
ぼやく合間に1枚チップスが消費される。
「なんつっても、紅白が見られないんですよ。大晦日なめてんのかって感じ?」
なめているのは明らかに少女の方である。
偏った価値観に眩暈を覚えつつ、教師は再び反論を試みた。
「だったら大人しく自分の部屋で寝ていろ」
「だってせっかくの年越しなのに、誰かと喜びを分かち合いたいじゃないですか」
「生憎だが我輩は、年が新しくなることに喜びを見出せる性質ではない」
少し自分の調子を取り戻した気になったスネイプは、いつもの冷たい声で言う。
「こんな時のために、君の所属するグリフィンドール寮があるのではないですかな?馬鹿なお祭り騒ぎが好きな連中が、こんないい機会を見過ごす訳がないように思えるがね」
「いないんです。誰一人として」
「一人もいない?」
「寮が広すぎて全然あったまらないんですよね」
スネイプは、マクゴナガルが最近やたらと旅行計画を話していたのを思い出した。
「ポッターはどうした。家になるべく帰らないようにしているはずだ」
「ああ、その辺りの人たちはウィーズリーさんちにまとめて引き取られました。今年は盛大にクリスマスパーティーやったそうで」
「お前はなぜここにいる」
レイは思いっきり眉を寄せ、3枚一気に口の中に放り込んだ。
「用意が間に合いませんでした。電車の日を一日勘違いして」
「…それは残念ですな。そう、非常に残念だ」
スネイプの台詞には非常に力がこもっていた。
しかしまるで意に介さずにレイは言う。
「だから暇で暇で。しょうがないから毎年と同じように過ごそうと思ったけど、年越しそばも紅白もないし。大晦日の風習なめんなって感じ?」
レイはもう一度同じような台詞を繰り返して、それからぽつりと呟いた。
「せめて誰かと一緒に年を越すことぐらいは、いつもと同じにしたいじゃないですか」
スネイプはふと、気づく。
レイの目が遠い故郷を見ているように見えた。
いつもは家族と過ごす年末なのに、今年はそうではない。だからこそ余計に一人が寂しく思えて、誰かと過ごしたくなるのだろう。
こういうイベントの時期は、誰しもホームシックにかかりやすいものである。
ソバだ紅白だと日本の風習をやたらに持ち出すのは、故郷を懐かしがっている証拠だ。
しかし、だからといって。
「ここに泊まることを許可できる訳がないだろうが!」
スネイプは居眠りを始めた大馬鹿者を一喝した。
レイは全身でビクッと痙攣して、それから寝ぼけた生ぬるい声で、
「えー?なんででっすかー」
若干ポーバトンの生徒っぽく言った。
「お前は我輩の性別を勘違いでもしているのか?それとも我輩の記憶違いで、お前は本当は男かねコーリ?」
「女のつもりですが。一応は」
「一応はな。ならば今の状況を少しでも認識しろ。深夜の・鍵つき個室に・2人だけなのだぞ」
「先生、そういうのは言い出した方が意識しちゃうからやめたほうがいいですよ」
「少しは動揺せんか!」
「あ、そんなこと言ってたらあと1分」
レイは時計を指差す。時刻は11時59分。
結局彼女の粘り勝ちになったことに舌打ちしつつ、スネイプもつられて時計を見つめてしまう。
5
4
3
2
1
「あ・はっぴーにゅーいやー!!」
どこに隠していたのかクラッカーがあちこちから鳴りひびく。
いやこれはうるさすぎる、クラッカーではなく爆竹だと気づいたときには遅かった。
耳を押さえながら、やりすぎだとしかめっ面でレイに知らせる。
うっすらと煙る空気越しにすみませんと謝る顔はまったく反省していなかった。
「ところでなぜ挨拶なのに単数形なんですか」
「余計なことは考えないでいい」
「そうですか、では」
レイは真面目な顔でスネイプの正面に向き直った。
「スネイプ先生」
彼は一瞬、彼女の済んだ瞳に目を奪われる。
「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」
「…今年が君にとって良い年であるように祈ろう」
「え、ほんとですか」
「くれぐれも、電車に乗り遅れるような不運がないように願いたいですからな」
そうもったいぶって発言した直後。
ついにスネイプは、自分がこの状況を楽しみ始めていることに気がついてしまった。
彼は自分に言い聞かせた。
これは深夜という時間帯とイベント特有の雰囲気による錯覚だ。そうに違いない。
いや、むしろ、そうでないと困る。
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