▼
意識が現実に戻ってきた。
月明かりの中。
わたしは今、彼女の膝を枕にして寝そべっている。
「具合はいかがですか」
真上から、夢で聞いたのと同じ声が降ってきた。
その方向に顔を向けたいが、悪いのは寝起きなのか体調なのか、残念ながら動かない。
「…寮に戻っていないのか、レイ。もうこんな時間なのに」
「そういうお説教はね、ちゃんと動ける人だけが言えるんですよ」
マダム・ポンフリーに看病の許可は得てます、とレイは恐ろしいことを言った。
次に会ったとき、マダムに何を言われるか…。
そうはいっても、己の体が意志に従ってくれそうな気配はまだない。
仕方なく、夢で振りかえっていた過去の光景に思いを馳せる。
初めて二人だけで会話したのが、あの時だったはずだ。
内容は何でもないことだったけれど、レイと話すことは心地よかった。
だからなんとなく一緒に過ごす時間が増えてゆき、
…結果、ここまで近づきすぎてしまった。
彼女には、わたしの秘密はもう話してあった。
しかし脱狼薬を飲んでいるからといって、安心しきっていい訳はない。
少しでも具合が悪くなりそうなら決して会わず、体質の片鱗さえ見せずにいた。
しかし、今回は完全に油断した。
満月を過ぎたので狼になることはもうないが、脱狼薬の効果はまだ続いていた。
結果、体力が戻りきっていない状態で会い、目の前で倒れるという醜態をさらしてしまった。
二度と、こんなことは起こしてはならない。
彼女のために。
――やっぱり早く帰さなくては。
ようやく説得する気になって、少し力を入れて体の向きを変える。
まだ起き上がれないのが情けない。
下の角度から見る彼女は初めてだった。
月の光で、顔の輪郭がうっすらと光っている。
「君は、怖くないのかい?」
「怖かったですよ」
レイはこともなげに言った。
「いきなり目の前で倒れられたんですから」
「そういうことじゃなくて…」
彼女は今日はじめて、わたしの現状に直面したようなものだろう。
それなのに動揺した様子が見えないのは、なぜだ。
「襲われるんじゃないかとか、変身しないかとか」
「だって、もう大丈夫なんでしょう」
「まあそうなんだが、しかし」
「私これでも人狼のこと結構調べたんですよ。満月が終われば危険はないってどの本にも書いてありました」
なんて真面目なんだろう。
それでこそ彼女だが、説得する側にとっては大変厄介だ。
「…でも、寝ている間に帰れと言ったはずだよ」
「先生、あれ、夜だったんです」
「え?」
「覚えてますか。私たちがはじめて二人で話したときのこと」
いきなりレイが持ち出してきた思い出は、わたしがついさっき夢で見たのと同じものだった。
「忘れもしないよ。満点のレポートの抗議に来たのなんて、後にも先にも君ひとりだ」
「私なぜか、お昼休みの出来事だとずうっと思っていて。でもよく考えてみたら、帰り道に月を見てました」
わたしも夜の出来事として記憶していた。夕食の後だったから間違いないだろう。
「なぜそんな勘違いをしていたんだろうね」
「感覚で覚えてたんです。明るくて暖かいっていったら、日が出ている時間だと思うじゃないですか。
それで気付いたんですけど。私、先生と話してると日向ぼっこしてるみたいな気分になるみたい」
彼女は照れるでもなく、ごく自然なことのようにさらりと口にした。
「今は、雲からお日様が顔を覗かせるのを待っていたい気分、ってだけです。
だから先生は別に気にする必要ないです」
「……気にするよ…」
それを言うのが精一杯だった。
わたしにはレイと居る資格などないのだ。
不幸に巻き込んでしまうかもしれないのだから。
ああ、でも。
意に反して、胸を突き上げるものがあった。
何年ぶりになるだろう。
こんな時間に、心許せる人が一緒にいてくれるのは。
「…なんてことだ」
実感したと同時に喉からこぼれ出た言葉はかすれていた。
「どうかしました?」
覗きこむ瞳の美しさに、さらに口が滑る。
「わたしは今、幸せだと思ってしまっている…」
彼女はただ、微笑んだ。
月の光の下なのに、こんなにも眩しい。
わたしが太陽だって?
とんでもない。
君のほうだろう。
「次は元気なときに、一緒にお昼寝でもしましょうか」
「いや。これが最初で最後だ。こんなこと…」
「先生って頑固ですね。でも残念ながら私も頑固なんです」
レイはわたしの言葉だけの抵抗を、いとも簡単に蹴散らしていく。
「では、おやすみなさい」
再びまどろみに落ちてゆくとき。
わたしは確かに、陽の光の中にいた。
prev / next