▼ 症例オセロ
セブルス・スネイプは、地下牢の入り口の扉の前で逡巡していた。
彼が自分の担当教室に入ろうとしないのには、もちろん理由がある。
今日はいつも合同授業であるグリフィンドールとスリザリンの授業を、1時間ごとに分割して行う予定だった。
調合に1時間もかからない簡単な薬だったので、調合の苦手な者が多いグリフィンドール生を先に。
スリザリン生には、呼びに行くまでは寮で待機、その間にどうせ溜まっているであろう宿題を片付けるようにと言っておく。
そして1時間弱が経ち、少し早いが自寮の生徒を呼びに行こうと、彼は一度地下牢を出た。
その矢先だった。
ハーマイオニー・グレンジャーが、彼を追いかけて教室から飛び出してきたのは。
「気化しました!」
その一言で彼が理解するには充分だった。
今日の授業を始める際、説明したのは自分自身だ。
「今日は『戯言薬』を取り扱う。
飲んだ者はまるで脈絡も意味もない、訳の分からないことを言い出す。
一部の『活発な』生徒には、聞き覚えのあるものも居よう
(と言って彼はフィネガン、ウィーズリー、ポッターを順番に見た)。
人にふざけて飲ませる悪戯ぐらいにしか使いようのないこの薬はしかし、他の薬にも応用できる基本的な調合だ。よって必ず習得しなければならない。
他の薬とは、例えば『真実薬』。こちらは有名なので実物を見せるまでもないだろう。
それからこの、『裏腹薬』もそうだ
(と、彼は薄緑色の小瓶を生徒に見せた)。
これを飲んだ者は自分の持つ感情と裏腹の行動を取らざるを得なくなる。
好きなものを嫌い、嫌いなものに対して好ましい態度をとる。
真実薬ほどの危険性はないが、扱いには充分注意したまえ。
少量で効果が出る。おまけに、気化しやすい」
彼女はさすが学年一番なだけあって、『裏腹薬』の瓶が割れたのを見るやいなや教室を出てきたらしい。
スネイプは、ハーマイオニーをそのままマダム・ポンフリーの元まで知らせにやらせた。
あれだけの人数を医務室にやるより、来てもらった方が早い。
マダムが来る前に、状況を把握する必要がある。
スネイプはポケットからハンカチを取り出し、しっかりと高い鉤鼻と口を覆った。
そして覚悟を決めて、扉のノブをひねった。
* * *
地下牢教室の扉を開けると、待ち構えていたかのような大きな歓声が彼を出迎えた。
薄暗く漂う薄緑色の霧の中、目をこらすと、グリフィンドール生がこちらを見つめているのがわかる。
自分の机の上には案の定『裏腹薬』の小瓶は無く、真下に落ちて粉々になっていた。
即座に杖を振ると、教室に漂う薄緑の霧が消えた。
これで自分が薬の影響を受ける心配はなくなったわけだが、
「スネイプ先生だ!」
「きゃー!スネイプ先生よー!」
「お待ちしてました先生っ!」
キラキラと目を輝かせた生徒たちが駆け寄ってきた。
覚悟が足りなかった。
スネイプは思った。
元の感情が強いほど、裏腹の感情も強く表れる薬である。
自分がグリフィンドール生に嫌われていることは重々承知していたが、まさかここまでだとは…。
嫌われていたことがショックなのではない。
普段とのギャップがむちゃくちゃ気持ち悪いだけである。
「もっと早く入ってきてくださればよかったのに!」
「大好きですスネイプ先生!」
「先生ー!こっち見てー!」
「お前たち、静かにしろ!聞こえんのか!」
聞こえていないようだった。
黄色い声。嬉しい悲鳴。
とにかく声という声がわんわんと地下牢に響きまくっていて、止みそうにない。
しばらく考えたスネイプは、一言ぼそりと呟いた。
「静かにした者から、一対一の個人面談を行うことにする」
効果てきめんだった。
『個人面談』というワードはあまりに絶大で、教室は一気に静けさを取り戻した。
生徒たちのらんらんと輝く目に、スネイプは一瞬気が遠くなった。
いっそのことそのまま気絶してしまえば楽だったのだが。
彼はなにしろ教師なので、この事態の後処理をしないわけにはいかない。
マダム・ポンフリーが到着するまで、今しばらくある。
その間に個人面談という名目を利用し、それぞれの生徒に薬がどの程度影響しているかを診ていくことにした。
「僕、もっと先生に教わりたいです。ぜひ個人授業を」
「今までの復習をするのが先だ。ロングボトム」
「これからはもっと真面目に授業受けます!」
「つまり今までは真面目ではなかったと。ウィーズリー」
一応いつものように返事をしてやる彼は、律儀といえなくもない。
薬の影響は解毒さえすれば支障のないものばかりだったが、中には例外もいた。
「…こんなに素敵な人が近くにいただなんて…」
「口を閉じろポッター。寒気がする」
「先生、もっと近づいてもいいですか」
「却下する。腕を取るな。指を絡ませるな」
眼鏡の彼は普段の憎しみが強いために、好意も情熱的で強烈だった。
ちなみにこの薬、元に戻った時にも記憶はそのまま残る。
ハリーほど普段と違いすぎると、ショックのあまり日常生活に戻れないのではないだろうか。
彼はマダムに、治療に忘却術を加えるよう提案することを真剣に検討しはじめた。
むしろ自分にもかけてもらいたいぐらいである。
さっきから鳥肌がおさまらない。
そんなことを考えている間にも、生徒たちのファン攻撃は続く。
「これプレゼントです!」
「先生に似合うと思って!」
「付け届けなど我輩に効くと思うのかね。ブラウン、パチル」
「先生、今度一緒にお庭を散歩しませんか」
「フィネガン、そんなものに何の意味も…我輩のハンカチを持っていくなポッター!何に使う気だ!」
ツッコミにツッコミを重ね、スネイプは疲労困憊だった。
逃げ回るハリーからようやくハンカチを取り返した彼は、そこではじめて気がついた。
ほとんどの生徒たちが自分を取り囲んでいる輪に加わっていたのだが。
たったひとりだけそうでない生徒がいる。
レイ・コーリである。
彼女は教卓から一番遠い隅の席にちょこんと座っていた。
黄色い声の飛び交う教室で、ただひとり黙々と作業に取り組んでいる。
調合しているのはもちろん、今日の課題の戯言薬。
どうやら8割方出来ているようだ。
(グレンジャーの他にも、難を逃れた生徒がいたのか)
まるでいつもと同じ授業風景を見て、スネイプは正直なところ心から安堵した。
そして安堵のため、いつになく気軽に声をかけた。
「まだ薬は完全に消したわけではない。我輩が処理し終えるまで、一応教室の外に避難しておきなさい」
スネイプの声に、乳鉢で何かをすりつぶしていたレイは顔を上げた。
それから無表情で一息吸うと、
「作業中に声かけるとか、ふざけてんの?」
トゲなどという言葉では生ぬるい、刃物のように鋭い声で言った。
彼女はこれ以上ないくらいに不機嫌だった。
「声かけられたせいで作業に失敗したらどうするのよ。責任とってくれるわけ?」
本当に、ものすごく、心から嫌そうである。
自分に対し、ここまで敵対心をむき出しにする生徒はそうはいない。
あっけにとられたスネイプはしかし、売られた喧嘩を見逃してやるほど温厚ではないので、気を取り直して言った。
「我輩の聞き違いでなければ、敬語をお忘れのようだが、コーリ」
「あんたなんかに敬語使う必要ないわ」
「我輩は教師なのだぞ」
「教師?ふーん…もっとふさわしく振るまってくれるなら呼んでやってもいいけど…ねえ…」
語尾をあえて濁し、彼女は鼻で笑った。
バカにされ、スネイプの眉間の皺が深くなる。
「つうか、用があるならさっさと言いなさいよ、まどろっこしい」
「お前が何事もなければ、特に用事はないのだがね」
「なら声かけないで。さっきも言った通り、作業の邪魔だから」
「ほう。我輩が声をかけたぐらいで途切れるほどの低い集中力ということですな」
「あんたの声耳障りなのよね。ねちねち言うし」
「我輩は客観的にアドバイスしてやっているだけだが?」
「どこが客観的よ、あーもーうざったいわねモゴモゴと!」
レイはついに机をバンと叩き、立ち上がった。
「ストレートに気に入らないって言えばいいでしょう!ハリーの居る寮だからって個人的感情持ち出して!」
「これは授業だ。個人の感情は関係ない」
「え、なにそれどの口が言うの?全然説得力ないんだけど。それをいうならあたしだって我慢してあんたの授業受けてやってるんだから、問題行動を起こさないことに感謝してほしいぐらいよ!」
「黙っておればいい気になりおって!グリフィンドール20点げんt」
「あーらー!減点!個人的感情で!職権乱用もいいとこねー!」
「この…!」
スネイプの堪忍袋の緒はもはや限界近くに達していた。
普段大人しく見せていたくせに、ここにきて態度をひるがえすとはいい度胸である。
まるで別人のようだ。
…『別人』。
暴言の数々に我を忘れていたが、ここに来てスネイプはようやく思い至った。
普段の彼女は、温厚で、おとなしく、平和主義なのだということを。
「コーリ、ずっとここに居たのか?」
「自分は教師だって言いながら、教えた作業の進み具合を見て分からないわけ?」
こめかみがピクリと動いたが、ぐっと我慢してスネイプは質問を続ける。
「グレンジャーが飛び出していった後も、ずっとか」
「だからそう言ってるじゃん。話聞けないの?馬鹿なの?しぬの?」
ということは。
「薬の影響か。紛らわしい…」
「なに、ひとりごと?キモっ」
大きなため息と共に、スネイプの頭にのぼっていた血はようやく下がった。
薬が原因だというのならば仕方ないことだ。
これは彼の心が広い訳ではない。
彼女から減点できなくとも、犯人からまとめて減点すれば済むからである。
いや、しかしだ。
レイの睨みつける視線を受け止めながら、彼はある可能性を思いついた。
毛嫌いする態度こそが裏腹ということは。
裏返せば彼女は自分を、
…いや。
彼は考えを強制終了させた。
今は何も考えるまい。
この事態を終わらせることが何よりの優先事項なのだから。
「コーリ、お前には本当に個人面談が必要かもしれんな」
「僕を差し置いて?ひどい!」
「喋るな、ウィーズリー」
ロンにピシャリと言い放ち、ベタベタひっついてくるハリーを腰から引き剥がしながら。
彼はただただ、マダムポンフリーが早く来ることだけを祈った。
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