▼ よるの夢はまこと
同僚の病気は勘弁してもらいたい、と常々彼は思っていた。
まして、自分に関わりあいのある同僚なら尚更である。
心配だからではない。
とばっちりがくるからだ。
自分の考えは正しい、と今日彼は再確認した。
大広間で出会ったマダム・ポンフリーは何気なく言った。
「そうそうスネイプ先生、スプラウト先生は今日一日お休みになられますからね」
「…休み?」
「風邪ひき草の世話をしているうちに、自分にもひどい風邪をうつしてしまったらしくて」
「今日は、薬草をいただく約束をしていたのだが」
「無理です」
即答だった。
「安静第一。授業すら休講なのですから、自分でお採りになってはいかが?」
そうして彼女は、薬草の世話を山ほど頼まなければ、ああ忙しい、とハッフルパフ生たちが集う机に走っていった。
今日の予定は、授業が午前にぎっしりと、放課後に依頼されていた調剤、さらに宿題の添削。
明日の授業の準備はいつもより時間がかかったはずだ。
うんざりする。
できないからいつも頼んでいるのに、これに加えて自分で採りにいけだと?
『くそ…なんで風邪をひいたのだスプラウトめ…風邪ひき草なんぞ育てるな…用途はごく限られているだろうが…』
彼は大人なので、こういう愚痴を口にはしない。
その代わり別の方法で発散させる。
朝食後廊下で出会ったグリフィンドール生すべてを、いつもに増して強引な方法で減点した。
* * *
それでもまじめな彼は、午後に行うはずだった課題の添削を休み時間中に終わらせ、無理やり午後を空けて採集にあてることにしたのだった。
授業が終わると添削、すぐに授業、そして添削。またたく間に午前中が終わる。
最後の一枚を書き終えて時計を見ると昼食の時間はとっくに過ぎていた。
さらにイライラした。
昼食抜きで薬草採りの肉体労働とは、なんと光栄な仕事だろうな!!
暗い地下室から外に出ると、誰もいない。
授業中だから当然だが、減点で発散させられないのは多少惜しかった。
細いけもの道を怒りに任せて歩いていく。
ついた先には、乾燥させたニワヤナギの束が、摘んであるドクダミ入りのカゴのすぐ側に置いてあった。
スプラウトが病身ながら気を利かせてくれたらしい。
これを見てスネイプはようやく少しだけ溜飲を下げた。
ふわふわ浮かぶニワヤナギとドクダミを引き連れて引き返す。
途中、道から少しはなれた木の下に何かを見つけた。
さっきは怒りで目に入らなかったようだが、黒い物体があった。
人ほどの大きさもあるだろうか。
近づいてみて、それが本当に人だと分かったとき、彼の口元に笑みが浮かんだ。
生徒ならば減点するのに絶好の機会だ。
彼はさらに近づいた。
芝生を踏みしめるたび、かさ、と草の擦れる音がした。
* * *
丸まって眠っていたのは、グリフィンドール生のレイ・コーリだった。
魔法薬学の成績は良い方だが、忌々しいポッターと同学年だということのほうが彼の比重としては大きい。
たたき起こすのがいいだろうか?
いや…じわじわと攻めた方が楽しい。
彼はいかにもスリザリンらしい選択をした。
「コーリ」
返事はない。もう一度呼ぶ。
「コーリ」
「…なに…?」
返ってきたのはもやもやした寝声だ。
これも予測していたことだった。
おそらくコーリはまだ話しかけているのは誰か、分かっていないだろう。
彼女の目は閉じたままだった。
無理に起きないよう、猫なで声でささやく。
「どうしてここに?授業中ではないのか」
「ん…薬そぉ学は…きゅーこー…」
「…そうか」
スプラウトめここでもお前か、と彼は思った。
では授業抜け出し以外でどういう理由で減点するべきか。
彼は少し考えている隙にレイは言った。
「…せんせいは…?」
「材料を取りに来た」
普通に返答してからそこで初めてスネイプは気づいた。
こいつ、自分が誰と話しているか分かっているような口ぶりだ。
分かっていて教師にタメ口か?え?
減点の理由が決定したな。
いよいよ起こそうとしたそのとき、レイは寝返りをうった。
腕が隠して見えなかった顔が表れる。
日に照らされた寝顔は、とても幸せそうだった。
スネイプはため息をついた。
起こす気がすっかり失せてしまった。
いい気なものだ…起きるまでは幸せにしているがいい。
目覚めたら地獄がお待ちかねだ。
「…そぉ…」
遅い相槌は、寝息に溶けていった。
起きるのを待つため、彼はレイの隣に座り込んだ。側にあった本を手にとる。
おそらくレイのものだが、アガサ・クリスティなど聞いたことがない。マグルの作家だろうか。
本を開くと“死体”や“トリック”などの単語が目に飛び込んだ。
おそらく「ミステリー」という娯楽小説のジャンルだろうと彼は類推した。
こんなものを読んでいるから勉学が疎かになるのだ、と彼はレイの顔を見る。
相変わらず幸せそうだ。
時々動く様子が、猫が眠っているところに似ている。
いつまでも見てしまっていることに気づき、彼は己の視線を無理やり本に戻した。
本は短編集だった。
最初の噂好きの老婆が殺人の謎を解き明かす話を読み終え顔を上げると、レイがこちらを見ているのに気づいた。
「…何か?」
スネイプは本を置き、彼女の顔を覗き込んだ。
どういう訳か、いつもより近い距離であることに気がつかなかった。
彼女はたどたどしい口調で言った。
「…すね―ぷせん…せ…」
「そうだが」
まだ起きていないな、と彼は思った。
そうでなければ自分に微笑むはずがない。
彼女はまだ自分を見つめている。
いつもと違って自分を恐れていない。
「お前が読んでいる本は感心しないな」
本に目を戻して彼はつぶやいた。間を持たせるためだった。
「マグルのフィクションは程度が低い…全く為にならん。ゼラニウムが青いから何だというのだ」
その言葉を聞いて、レイは笑った。
寝ぼけているにも程がある。
「何がおかしい」
「…そういうとこ…すきだ…とおもって」
「程度が低いところがか?」
呆れて、そろそろたたき起こそうか、と思い始めていた。
しかし彼はまた不意打ちを食らった。
「じゃなくて…」
「せんせいが」
…その言葉は、どこにかかるんだ?
まさか、直前のお前の台詞じゃないだろうな?
彼は驚いたが、すぐ気を取り直したように言った。
「…お前は寝ぼけているのだ」
彼は自分にも言い聞かせていた。
彼女は寝ぼけている。だからいちいち言葉に反応して、心拍数をむやみに上げても仕方ないのだと。
「ちがうよ」
レイはくすくす笑った。
寝ぼけた人間に限ってそういうことを言うのだ。
ところがレイはまっすぐ彼の目を見つめて言った。
「それにね。寝ぼけたひとほど本音をいうんだよ」
スネイプは数秒考えて、少し溜め息をついた。
「…そういうことにしておこう」
もうしばらくだけ、この純粋な微笑を独り占めしても構わないだろう。
幻のような時間だけれど。
気がつくと、ごく自然に、彼女の髪を撫でていた。
ーー落ち着け。
嬉しそうなレイを前に、彼は合理化する。
ーー要するに、彼女は猫のようなものと思えばいい。今の瞬間だけ。
猫にするなら別に不自然な仕草ではない。
彼女自身は寝ぼけているのだから、後々ごまかせるだろう。
そして、自分の動揺を隠すために、再び本を開いた。
片手はレイのやわらかな髪の上のまま。
いつの間にかレイの寝息が聞こえていた。
静かに本のページだけを進める。
眠っているとはいえ、本当に猫といるようだった。
ーー人と居るのは苦痛だが…猫ならば。
と彼はレイを見ながら目を細めた。
ーー嫌いではない。
ごく自然に、時が流れた。
「あの…ね…」
ぽつり、とつぶやくレイの目は、また半分だけ開いてこちらを見ていた。
「何だ?」
「今は…ゆめだけど…ね…」
なるほど。
彼の違和感はすべて腑に落ちた。
夢だと思っていたのだ。だからこんなにいつもと違っている。
「…いつか…おきてるときに…おなじよぅ…に…」
そういいながら、レイは再び意識意識を手放した。
「…そうだな…」
スネイプは言った。
半分は本音で、半分は嘘だった。
これは夢だ。
現実だけれど、これは夢なのだ。
彼女が起きれば、すべて元に戻る。
ああ、そちらの方がいいだろう。
理不尽極まりない行動をとっている自分など、さっさと忘れてもらったほうがいい…
猫を撫でる指はしばらく離れようとしなかった。