小説 | ナノ


▼ パンドラ

 その箱は、灰色のなめらかな石でできていた。
 表面の彫刻は、何か訳のわからないものが生々しくうねうねと全体に這い回っていて『悪魔の罠』の触手のような根を思い出させる。

 作者は美しさを追求しているとは思えなかった。
 むしろ、醜さを。
 禍々しさを。

 見つめていた私の頭の中に、ある物語が浮かんだ。


――彼女はひとつの箱を授かりました。


 昔読んだ神話だ。
 けれどあまりに有名で、展開もシンプルすぎたので、特に面白いとは思わなかった。


――それは、神々からの贈り物のうちのひとつ。

――けれど決して、それだけは開けてはいけない。


 …何が入っているのだろう。

 中身なんて考えもつかなかったけれど、あの話を思い出した途端、興味が湧いた。
 そもそも最初から、やけに目についていたのだ。
 ガラス瓶の並ぶ中で、ただそれだけが鈍く輝いていて。


――そう、神は彼女に、箱と一緒に好奇心を与えていたのです。


 開けてみようか。

 “彼女”と同じように。

 ここは学校にある薬学準備室で、私はどこにでもいる一生徒だ。
 もし罪を問われるとしても、“彼女”ほどではないに決まっている。


――好奇心に負けた彼女は、


 魔法界では“災い”なんて、箱に詰めて保管しない。
 ここに入っているのは、悪くてせいぜい闇の品物程度。

 だったら大丈夫。
 呪いの解き方も、少しぐらいは分かる。
 伊達に何年も授業を受けてきたわけじゃない。


――約束なんてすっかり忘れ、


 そもそも、手の届きやすいところに置いておくのが悪いと思う。
 生徒が好奇心の塊だなんて、誰でも知っていることだ。
 こんなところにあれば、今まで何人も手を出してきたに違いない。

 そう、私もその中の一人というだけ。
 私ひとりが見たって、別に何も変わりはしない。だから、




――ついにそのふたに手をかけました。















 爪先が触れるか触れないかのところで。

 骨ばった白い手が、勢いよく私の手首を掴んだ。




 * * * 


「触るな」


 スネイプだった。
 眉間に皺が寄っている。

「いつまでも戻ってこないと思えば…トリカブトの粉末ぐらい、1分で取ってきたまえ」

 言われてようやく、もう片方の手で握っていた小瓶を思い出した。
 そうだ、他の先生のお使いでコレを取りに来たんだ。忘れていた。


「先生」
「闇の魔法がかかっている」

 この箱は何ですか、と質問する前に彼は答えた。

「闇の陣営でない者が触ると幻覚を起こす。
 触れたら最後、闇へと誘惑する声が一日中囁きかけるそうだ。実際、過去に洗脳された者もいる」

 だから触ってはいけない、と授業しているときのような滑らかさでスネイプは言った。
 自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。

「ミス・コーリ、我輩が察するに、お前は影響されやすい性格だ」
「…そうかも、しれません」
「かもしれない、ではなく確実にそうであろう。自己主張が弱く、すぐに場に呑まれる」

 否定はできない。
 意志が弱いというわけではないけど、それを表に出すのが私はどうも苦手だ。

「今もそうだ。普段のお前なら、我輩の許可なくこの箱に触ろうと思うか?」
「いいえ…」

 確かにそうだった。
 いつもの私なら、人のものを触るときには必ず許可を得るはずだ。
 どうして触ろうなんて思ったんだろう。さっきの自分がまったく理解できない。

「それが流されやすいということなのだ。知らず知らずのうちにこの箱が放つ闇の魔力に呑まれていたのだろう」

 スネイプはいつも通り皮肉な口調で言う。

「普通なら触れる前から影響を感じ取ることはないはずだが、もしかするとお前はこういうものに対する感受性が人より鋭いのかもしれん。
 しかしそれは理由にはならん。
 敏感だというのならばそれを自覚していることが必要だ。そして呑まれやすいというのなら、最初から近づかずにいる自己配慮も」

 それは紛れもない正論で、私はかなり後悔した。
 彼のおかげで危うく危機を逃れたのだ。

 御礼を言おうとスネイプを見た私は、次の瞬間また息を呑む羽目になった。

「…先生、そっちの手…!」


 彼は私の手を掴むのと逆の手で、今もまだ箱に触っていた。
 
「…ああ、これか」

 スネイプは私の視線をたどり目を向けると、平然と言った。

「大丈夫なんですか!?」
「我輩はいいのだ」

 そのまま、箱を私から遠ざけるように奥へ動かす。
 彼は見事に落ち着き払っていた。

「我輩には別に影響はない。それなりに予備知識も…経験もあるのでね」

 表面の彫刻を指でなぞる。
 強がっているようにはとても見えない。
 ということは、本当に平気なのか。

「それを買われて、この箱もダンブルドアに任されたのだ。お前と一緒にするな、コーリ」

 つと箱から手を離す。
 その左手が一瞬引き攣ったように見えたのは、気のせいだろうか。
 無表情はぴくりとも動かない。

 続いて彼は、私の顔を覗き込む。

「闇の魔術は、他を見事なまでに圧倒する強大なる力だ…それでいて心すら操る、繊細な部分も持ち合わせている。
 お前のような無知で経験不足の者が、手に取ることを許されるものではない」


 気のせいだろうか。
 …闇の魔術を褒めているように、聞こえたのは。


 目を逸らしたいはずなのに、彼が発する何かがそれを許さなかった。

 私を見下ろす目は黒々と深い。

 そこには感情も意思も何も読み取れない。非難の色さえ映してはいなかった。
 夜の闇と同じ色だ。
 映すのではない、何もかもその内に隠してしまう。

 代わりに、その闇はスクリーンのように私の感情を投影していた。
 だから私は間接的に、いま自分がどう思っているか知った。



――怖い。



 心臓がドクドクと警鐘を鳴らしている。
 体が言うことを聞かない。代わりにカッと熱くなる。
 手に汗がにじんでいるのも分かる。

 逃げたい。
 ここに居たくない。
 逃げなければ。

 そう思ってから、まだ手首を掴まれていることに気づいた。
 

「今日はこれで帰りなさい。…いいかね、もう一度言うが」
 
 ようやく手を離す前に、スネイプは手首に少しだけ力を込めた。
 念を押すように。




「むやみに近づかないことだ。少なくとも、分別がつくようになるまでは」




 * * *





 気づいたら準備室のドアを後ろ手に閉めていた。

 まだ心臓は静まらない。
 少し息も上がっている。
 あの黒い目が網膜に焼き付いていた。

 怖かった。

 けれど同時にその目にひどく惹かれた自分がいて。
 その事実のほうがよっぽど私を震撼させた。


 彼に対する疑問が途切れることなく湧いてくる。

 どうして触っても平気だったんだろう?
 闇の人間だから?
 …でもそれなら、私が箱に触るのを止めるだろうか?

 あのとき、いったい彼はどちら側から私を見ていたんだろう。

 闇に踏み込まないよう引き止めた?
 それとも、
 闇に入ってきてほしくなかったのか?

 分からない。
 今の私には分別が…正しいと思える判断基準がなかった。
 きっと答えは出ないのだろう、少なくとも私の分別がつくようになるまでは…



――分別がつくようになるまでは、
――むやみに近づくな。



 そう、彼は言った。

 それはあの箱に?
 それとも闇の魔術に?



 …それとも、あなたにですか、先生。




 心臓の鳴らす警鐘は止まない。
 早く日常に戻りたくて、私は人のいない廊下を走り出した。



End. 

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