愛するひとと共に



「行ってきまーす」


玄関の閉まる音が聞こえ、ハッとした。
もう朝なのかと、慌てて窓辺に駆け寄れば、見慣れた後ろ姿が走っていくのが見えた。
だが、いるはずの存在がいない。
主君である赤ん坊の姿が。


「どうした、ヒルダ」

「え……?」


振り返ると、美しい緑色の髪が目に飛び込んできた。


「だ……大魔王様……?」


いや、違う。
一瞬見間違えたが、大魔王ではない。
禍々しいオーラを纏った目の前の存在は、ずっとヒルダが思い描いていた姿。


「ぼ、っちゃま……?」

「何だ、私を忘れたか。ヒルデガルダ」

「い、いえ!申し訳ございません!少々混乱していたようです……」


何を言っているのか。
今まで忠誠を誓ってきた主君は、立派に成長したではないか。
もう親代わりである男鹿辰巳のそばにいる必要がないほどに。
ヒルダはちらりと主君を見上げた。
他の兄弟と比べ何の遜色もない。
むしろ魔王としての風格は誰よりもある。
それはヒルダにとって、誇らしいこと。
そのはずなのに。


「ヒルダ」

「はい」

「そろそろ人間を滅ぼそうかと考えている」

「え……」

「父上も痺れを切らしているだろう」


そのために人間界に来たのだから、当然のことのはず。
なぜ、こんなにも胸がつまるのか。
なぜ、こんなにも違和感だらけなのか。


「だがまずは……男鹿辰巳……あの男だ」

「お、が……?ですか……?」

「あぁ。ヒルダ、お前があの男を殺せ」

「は……」


まるで撲られたかのような衝撃に襲われた。
男鹿を殺す?私がか……?
なぜ。


「あの、坊っちゃま……」

「一番邪魔になるだろう相手だ。だがヒルダが相手となればあの男も容易には手が出まい」


何を言っているのか。
いや、正しいはずだ。
ずっとこの人間界を滅ぼすのだと、話していたではないか。
ヒルダは胸の前で拳を握った。


「善は急げという。今すぐ実行しろ」


ぐにゃり、空間が歪む。
今までに感じたことのないプレッシャーと恐怖。
昔のようには、笑ってくれないのですね。
あるべき姿の主君を前に、ヒルダは悲痛に顔を歪めた。


****


「今、何て言った?」


目の前の男は警戒しながら繰り返す。
何と言ったのかと。
しかし、ヒルダは口にしなかった。
喉で詰まって出てこない。


「……はぁ。オレを殺せ、か。あのガキ、言うようになったものだ」

「な、なぜ冷静でいられる!?」

「あいつから感じるのは尊敬でも愛情でもない。いずれはオレを殺しにくるのはわかってた」


まるで受け入れているかのように。
男鹿はふと身体全体の力を抜き空を見上げた。
諦めている。そう感じた。
ヒルダは抜いた覚えのない自身の武器を高くかざした。


「貴様、どういうつもりだ!!」

「別に。オレはもうベル坊の魔力は使えない。どう足掻いたって勝ち目なんかねーよ。だから、その剣さっさと降りおろせ」

「それでも男鹿辰巳か!私の知っている男鹿辰巳という男はどんな無茶でも突っ込んでいくバカなやつだった!!」


剣を握る手が震えた。
男鹿はフッと切なげに笑う。


「ヒルダがオレを殺すなら仕方ないだろ。殺らなきゃお前がベル坊に殺されるぜ」

「な……そんなわけ……!」


ない?
違う、男鹿の言う通りだ。
あの方は容赦なく私を殺す。
男鹿を始末しなければ人間も滅ぼせない。
絶対的であるあの方が命令するのならば。
ここに来たのはそのためだろう。
何度心に言い聞かせたか。
それでも、剣を降りおろせない。
ヒルダは唇を噛みしめた。


「くっ……!」


ゆっくりと剣をおろす。
無理に決まっている。
ヒルダはきつく目を閉じ、拳を握った。
わなわなと小刻みに震える。
昔の私なら殺せたはずだ。
ヒルダは剣を下に落とした。
カン、と金属音が響く。


「どこか遠くへ逃げろ」

「何言ってんだ、お前。悪魔から逃げられるわけねーだろ」

「それでもだ!もしかしたら、生き延びることができるかもしれないだろう!」


私に男鹿は殺せない。
ヒルダは全身に込めていた力を、ふと抜いた。
見上げた空は、もう当たり前になっていた青空。
だが、主君の見ている空は淀んだ魔界の空だろう。
澄んだこの空を三人で見上げることはもうない。
ひどく悲しいことなのだと思った。


「ヒルダ。いいから、さっさとオレを始末しろ」

「男鹿……!なぜそこまで……!」

「言ったろ。お前がベル坊に殺されるって。オレは……それだけは絶対に嫌だしな」


まさか私のためだと言うのか。
どくり、心臓の鼓動が速くなる。
不安と恐怖がぐるぐると胸の内を渦巻き、息がうまく吸えない。
男鹿は逃げるつもりなどない。
だが、戦う意思もない。
ヒルダに殺されることを願い、そこにいる。
なぜ、こんなことになってしまったのか。


「ヒルダ」

「や、めろ……」

「お前のすべきことは何だ?」

「やめろ!貴様が言うことではない!」

「ヒルダ」

「やめ……頼む、私は……」

「ヒルダ」


や――!!


「おい、ヒルダ!」


いつの間にか、男鹿は瞳が覗けるほどすぐ近くにいた。
先ほどのような落ち着いた雰囲気ではなく、汗を浮かべて必死な顔でこちらを見ている。
荒く呼吸を繰り返すヒルダは、目を大きく開いた。


「男鹿……私、は……私だって嫌だ……だから、早く逃げ……」

「何言ってんだよ?うなされてたから起こしてやったんだぞオレは……」

「な…………」


勢いよく身体を起こした。
自分が寝ていたことも、ここが男鹿の部屋であることもこの時気づいた。


「まさか……今のは夢………?」


隣で眠る赤ん坊の寝顔は、ヒルダを安心させるいつもの無垢なもの。
呆然と、ヒルダは転がり落ちるようにベッドからおりた。
びっしょりかいた汗のせいで、髪の毛が首筋にまとわりついて気持ちが悪い。


「おい……大丈夫かお前……」


男鹿の手が肩に置かれ、ヒルダは思わずその手を払った。


「あ……」

「……何だよ。どうした?」

「いや、何でも……」

「ないわけねぇだろ」


低い声で言われ、ヒルダはぎゅっと唇を噛んだ。
男鹿の目は真剣で、怒っているようにも見えるが、心配しているような色も窺える。
すべてを諦めてしまった男鹿ではなく、ヒルダのよく知る強い人間。


「男鹿……!」

「ヒルダ?」


普段なら絶対にしない。
こんなバカでどうしようもない男に抱きつくなんて。
だが、この感触も温もりも夢ではない。
こちらが現実。
こんなふうに安心してしまうなんて、人間界に来て、この男に出会って変わってしまった。
幸せなことだろうか。それとも、愚かなことだろうか。


「ヒルダ……?どうしたんだよ……」


ヒルダらしくない行動に戸惑ったように、男鹿はぎこちなくその頭を撫でる。


「夢を……みた。立派になった坊っちゃまの夢だ」

「へぇ」

「坊っちゃまは人間界を滅ぼすと言った。そのために、男鹿……貴様を殺せと命じられたのだ」

「そりゃまた、あのガキ言うようになったもんだ」

「夢の中の貴様も同じことを言っていた」


ハハ、と男鹿は笑う。
ヒルダはさらにきつく男鹿を抱きしめ、胸板に顔を押しつけた。


「貴様は私に殺されることを望んだ」

「……だろうな。じゃなきゃ、ヒルダが殺されるだろうし」

「……夢の中の貴様も、同じことを言った……」


あまりに夢と被る。
これは本当に現実なのか。
このまま、殺せと言われないだろうかと、不安感が再び襲ってきた。
そんなヒルダの心情が伝わったのかはわからないが、男鹿は包み込むようにヒルダを抱きしめた。


「ったく……川の字で寝てんのに、そういう夢みるか普通」

「……みたのだから、しかたあるまい」


ばかやろう。
男鹿が耳元で小さく囁いた。
どこか物憂げにも聞こえる、らしくない囁き。


「お前は今まで、ベル坊の何を見てきたんだよ。あいつが、そんなこと言うはずねーだろ」

「今はまだ赤子だから無垢なのだ。いずれ大きくなられたら……」

「オレがそうはさせない。そう言っただろ」

「だが……!」


絶対などない。
何せ魔王だ。
いつかは人間界にいる意味を考えるだろう。
その時、人間を滅ぼす道を選ばないとは限らない。


「ヒルダ」


力強く、痛いほどに。
抱きしめられ、涙が出そうになった。


「オレを信じろ。お前らが人間界滅ぼしに来たのが目的だとしても、ここで過ごす日々が正しい選択にしてみせる」


オレを信じろ。
ヒルダの頬を、一筋の涙が伝わった。
この男はどうして。


「男鹿……」

「正直、ちょっとだけ嬉しいけどな」

「何……?」

「ヒルダがそんなふうに悩み想ってくれたのが」

「バカ……もの……」


男鹿となら。
そう思えてくるのが不思議で、心地よく、嬉しかった。
凍てついた心が温かみに触れたように。
ヒルダは男鹿の顔を見つめ、柔らかく微笑んだ。


「ニョ……?」

「坊っちゃま……」


ふたつの温もりがないことに気づいたのか、ベル坊が目を擦りながらキョロキョロしている。
トン、と男鹿に肩を押され、ヒルダはゆっくりとベル坊を抱き上げた。
すると、安心したのか再び穏やかな寝息をたてはじめた。
小さな手がぎゅっと服を掴む。


「ベル坊なら大丈夫だよ。お前が見ているベル坊を信じてやれ」

「……あぁ、そうだな……」


そっと男鹿に寄りかかると、優しく肩を抱かれた。
こんな気持ちになるなんて、思いもしなかったあの頃。
昔の私が知ったら、きっと愚かだと言うだろう。
だが、これが正しかったのだと、幸せなのだと信じたい。


「男鹿……明日の天気は見たか?」

「は?天気?確か晴れだったか……」

「うむ。明日、三人で出かけたい。あの青空の下を歩きたいのだ」

「……そうだな。そうするか」


共に歩いて。
きっと幸せな未来も見えるだろう。



ーーーーー
ウニクロ様リクエストのちょっとダークっぽい男鹿ヒルでした。
素敵なリクエストを細かくいただきましたが、私の思うように書いていいということで……。
イメージと違ったらすみません!
私の想いを込めまくった結果、このようになりました。
いかがでしょうか……!
素敵なリクエストありがとうございました!!

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