打算と優しさの狭間


雨粒が激しく窓辺を叩いていた。
遠くで雷も聞こえる。
まだ降り続きそうだ。
男鹿がリビングのドアを開けると同時に、玄関のドアが閉まる音。
反射的に顔を向けると、男鹿はぎょっとした。
ずぶ濡れのヒルダが、顔にへばりついた髪の毛を払っているところだった。


「お前、何だそのかっこうは!」

「見たらわかるだろう。雨に濡れた」

「そうじゃ……ああ、いい。今タオル持ってきてやるから待ってろ」


バタバタと、男鹿は慌ててタオルを取りにいく。
すでに玄関にはちょっとした水溜まりができていた。
男鹿はバスタオルを手に取ると、それを広げながら、結っていた髪をほどいているヒルダに向かって放った。
ふわり、ヒルダの姿が隠される。


「ったく、何やってんだよお前は……。ちゃんと着替えろよ」

「……うむ」

「って!ここで脱ぐな!」


男鹿は服に手をかけたヒルダを制止すると、舌打ちをした。
のんびりとタオルを動かすヒルダに痺れを切らし、男鹿はそれを奪い取る。


「何をする、きさ━━」


言い終える前に、再びヒルダの頭にタオルを覆い被せガシガシと水分を拭う。
まだ髪の毛を拭いているだけだが、バスタオルはだいぶ湿っていた。
一枚では足りなかったと、男鹿はブツブツと呟く。
ヒルダは何も言わず、男鹿にされるがままだ。


「ヒルダ……お前、出かけていく時傘持ってたよな」

「ああ」


ヒルダが出かけた時は晴れていた。
雨の予報も曖昧で、降るかもしれないし、降らないかもしれないと言っていた。
傘を持たずに家を出た者も多いだろう。
だが、雨は降った。
それも大粒のだ。
しかし、ヒルダは晴れていてもいつも傘を持っている。
日傘であり、武器も仕込んでいるからだ。
ヒルダが愛用している日傘は、確か雨でも使えたはず。
男鹿は訝るように眉を寄せた。


「……橋の下」


ポツリ、ヒルダが静かに口を開いた。


「あ?」

「橋の下に子猫がいた」

「猫?……まさかお前、その猫に傘やったとか言うんじゃねーよな……」

「そうだが」

「まじかよ……」


それは驚きであるような、そうでないような。
ヒルダは一見ベル坊以外の者には冷酷のように見えるが、必ずしも他を蔑ろにしているわけではない。
だからといって、気遣いや優しさといったものがヒルダにあるのかも、よくわからなかった。
そう思うと、ヒルダの近くにいながら全然理解していないのだと今更のように男鹿は気づく。
果たして、ヒルダの行動は善意なのか。
ほんの少し興味があった男鹿は会話を続けた。


「何でまた子猫に傘を?」

「……猫の世界には社会が存在する」

「は?」

「今あの子猫に恩を売っておけば、いずれこの地の猫たちを手中に収める手助けになるかもしれんだろう」

「……ベル坊がか?」

「無論だ。フフッ……」

「…………」


男鹿は黙った。
冗談のような話だが、ヒルダは本気だろう。
ベル坊の話で冗談を言う彼女ではない。
猫のボスになって何の得があるというのか。
男鹿の呆れた心の声は、口から出ていたらしい。
ヒルダの眉がピクリとつり上がった。


「貴様、猫を侮るなよ。奴らはあれで賢い生き物だ。あちこちで媚びを売って歩く様を見ろ。バカな人間共はすぐに騙される」

「あーそうですね」

「猫たちの悩殺ポーズで戦意も喪失させられる。あの東条ですら骨抜きだ」

「うんうん、スゴイスゴイ」


男鹿は適当に流すが、ヒルダの熱弁は止まらない。
真面目な顔でアホみたいな話をするヒルダは、きっと本気でこれを実行するだろう。
生きるか死ぬかの場面で、いきなり猫の大群が押し寄せ悩殺ポーズなどされたら、確かに戦いどころではない。
何とも平和的で、ベル坊が喜びそうな話だ。


「フフッ……あの鋭い爪もなかなか使えそうだしな……」


かと思えば、やはり悪魔。
黒い笑みもよく似合う。
しかし、魔力だなんだやり合ってる中、猫の爪が如何様に役立つのかは疑問だが。
男鹿はひとつ息を吐くと、動かしていた手を止めタオルを取った。
ガシガシと乱暴に拭いたせいか、いつもサラサラ流れる髪はボサボサだった。
しかし、ヒルダは気にもとめない。
猫の話に夢中のようだ。


「聞いているのか、男鹿」

「きーてるよ」

「坊っちゃまもきっと喜んでくださる」

「あーすげぇ喜ぶんじゃねーの」


気遣いや優しさ。
そういう類のものは感じ取れなかった。
打算である方が悪魔らしくはあるが。
男鹿は何ともいえない気持ちになった。


「何でもいいけど、早く着替えろよ。風邪ひ━━」


男鹿は言葉を止めた。
ふと、気になったこと。


「何で家に連れてこなかったんだ?」

「む?」

「子猫。恩売りたきゃ、連れてきてミルクでもやった方がいいだろ」

「それは……」


前に一度、猫が懐いてやってきたことがある。
男鹿家の人は細かいことを気にしない質だ。
猫が一匹二匹増えても、すんなり受け入れるだろう。
ヒルダもそれをわかっているはずだ。


「……ミルクは置いてあった」

「あ?」

「ダンボールの簡易な家と毛布、ミルクは置いてあった。きっと誰かがあの子猫を気にかけているのだろう。」


男鹿は目を瞬かせた。


「雨が横殴りだったからな。私は傘を結びつけ濡れないようにしたが、もしかしたら今頃、その誰かが子猫を心配して様子を見に行ってるかもしれん。川の水位も上昇するだろうしな。その時、子猫がいなければ心配するだろう」

「へえ……」


ヒルダは無表情だった。
相変わらず、ヒルダの考えはさっぱりわからない。
そもそも、男鹿自身に気遣いだの優しさだのといったものは備わってはいない。
人間としての感覚は持ち合わせているだけで。
赤子であるベル坊はともかく、悪魔としてヒルダは生きてきた。
彼女は立派な悪魔。人の感覚とは違って当然だ。
しかし、男鹿とヒルダの差はそれほど離れているわけではない。
それが少し嬉しいと思った。


****


空は澄んでいた。
あの激しい雨が嘘のような天気だ。
水位が僅かに上がった川を眺めながら、男鹿は背伸びする。


「ダー!」

「気持ちいいか?ベル坊」

「アイ!」

「気温もいい感じだしな。ヒルダ、どうだ?」


しゃがみ込んでいるヒルダの背に問いかける。
ヒルダは立ち上がると、くるりと振り返った。
手にはいつものピンクの日傘。
そして、ビニールにくるまれたメモらしきもの。


「何だ、それ?」


男鹿はヒルダの手元を覗く。
そこには『ありがとう』と、子どもの字で書かれていた。
子猫はそこにはいなかった。


「良かったじゃん」

「何がだ?」


フン、と鼻を鳴らすヒルダの口元は僅かにゆるんでいた。


「ダブ?」

「ん?あぁ、ベル坊はわかんねーよな。あとで話してやるよ」

「ダ!」


男鹿はポンとベル坊の頭を撫でた。



ーーーー
人間と悪魔って種族の違いの距離を描きたいな、と思ったんですけど……。
男鹿がもともと悪魔よりだから、そもそもが成り立たないのよね。
この二人には一切恋愛感情がない前提で書いてます。
なのに、男鹿がヒルダの髪を躊躇いなく拭いちゃうのがポイントです。
家族ですから!
お粗末様でした!

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