今はまだ、気に止める必要のない話


パタンと自室のドアを後ろ手で閉めた男鹿は、珍しくどんよりと沈んでいた。
ベッドに腰かけベル坊とテレビを観ていたヒルダが訝しげに眉を寄せる。


「どうした」

「あぁ……うん……」

「何だ」


男鹿は顔を上げ、じっとヒルダを見つめる。
その表情は無に近かった。


「あのよ……」

「む?」

「ちょっと協力してほしい事があんだけど」

「協力……?」


ヒルダが小首を傾げると、男鹿は深いため息をついた。
そのまま床に腰をおろし、テレビに夢中なベル坊を膝にのせる。
男鹿のどんよりした空気に気づいたのか、ベル坊が目を丸くさせて見上げた。


「お前に嫁を演じてもらいてーんだ」

「嫁? 誰の嫁だ?」

「オレに決まってんだろ」

「………………む?」


ヒルダが反応するのに、妙な間があいた。
だがそれも仕方ないだろう。
男鹿とヒルダは周りからは夫婦と思われているが、実際そんな関係ではないし、今まで一緒に過ごしてきたが甘い雰囲気にすらなった事はない。
お互いにそんな感情は抱いていないのだから当然だ。


「今日、ばーちゃんが来るんだ」

「ばーちゃん? 貴様のか?」

「いや……」


男鹿は首を横にふった。
はぁ、と再び深いため息をつく。


「近所に住んでたばーちゃん。昔からよく世話になっててな。お前とベル坊が来る前に息子夫婦の家で暮らすことになって引っ越したんだ。そのばーちゃんが久々にこっちに来るんだと」

「ほう。それで、何故私が貴様の嫁を演じねばならん」

「……親父が電話でオレに嫁と子どもができたって言ったらしい……」


沈黙。
重苦しい空気に、ベル坊も窮屈そうな表情をみせた。
男鹿がその小さい頭を撫でる。
ヒルダはそんな男鹿の様子を見据えた。
男鹿らしくない態度が気になる。


「別にいつも通りでいいだろう」

「それじゃ駄目なんだよ」

「なぜだ?」

「ばーちゃん、すげぇ喜んでたらしくてさ。体弱いからあまりショック与えられねーんだ」

「ほう……。貴様にそんな優しさがあるとはな」

「うっせぇな。そうしなきゃオレが姉貴に殺されんだよ。それに、よくコロッケ作ってもらってたからな」


男鹿は三度目の深いため息をついた。
ベル坊が元気出せと男鹿の腕をポンと叩く。
ヒルダはじっと男鹿を見つめた。


「いいだろう」

「え?」

「言っておくが、貴様はどうでもいい。だが、ここの家族に迷惑はかけられん。精一杯の努力はしよう」

「……お前、嫁ってどんなのか分かってんのか?」

「案ずるな。ドラマで覚えた」

「不安要素満載じゃねーか!」


男鹿のツッコミと同時に、インターホンが鳴った。
そしてすぐに賑やかな声が響いてくる。
来たぞ、と男鹿は目で合図した。
ヒルダは頷き、ベル坊を抱える。



「まぁまぁ、美咲ちゃん美人さんになって〜」

「ありがとう、おばあちゃん。おばあちゃんも元気そうで良かったわ」

「ふふ。元気の源は孫なのよ〜」


リビングの扉を開けると、すでに和やかなムードになっており、男鹿は一瞬動きを止めた。
この空気に耐えられるかという不安からだろう。


「あら……辰巳くん?」

「……久しぶりだな、ばーちゃん……」

「大きくなって……! 辰巳くんの好きなコロッケ、いっぱい作ってきたのよ〜」


おばあちゃんは嬉しそうに風呂敷を広げた。
たっぷり詰められたコロッケを見せられ、男鹿はぎこちなく笑う。
ちらり、後ろに視線を向けた。


「……もしかして……辰巳くんのお嫁さん……?」

「初めまして、おばあ様。辰巳さんの妻のヒルデガルダと申します。ヒルダとお呼びください。そしてこの子はカイゼル……」

「ベル坊ってんだ、ばーちゃん」


ベル坊の紹介を邪魔され、ヒルダは男鹿を睨んだ。
そんな長ったらしい名前言われても困るだろ、と男鹿も睨み返す。
小声でケンカを始める二人だが、おばあちゃんは涙を浮かべて頷いた。
ベル坊が不思議そうに首を傾げる。


「ベルちゃんね。辰巳くんに似て可愛いのね」

「ダブ……」


抱き上げられたベル坊が恥ずかしそうに頬を染める。
うんうんと、おばあちゃんは何度も頷いた。


「辰巳くんはやんちゃだったから……心配してたのよ。こんな綺麗な奥さんもらって、可愛い子どももできて……幸せでしょう?」

「幸せっつーか……むしろオレの人生狂わされ……」


ギロリ、美咲に鋭く睨まれる。
その形相は男鹿と、そして父をも震わすものだった。
母だけが平然とお茶を啜っている。

「と、トテモ幸セデス」


何とか絞り出すように言うと、美咲はいい笑顔で親指を立てた。
男鹿は苦々しい顔で舌打ちをする。


「ヒルダさんは」

「はい」

「失礼ですけど、辰巳くんのどんなとこに惹かれたのかしら?」

「どんなとこ……ですか……」


ヒルダは考え込むように手を口元に当てた。
おばあちゃんがワクワクと頬を上気させている。
それだけならまだしも、美咲たち家族までドキドキしているのは何なのか。
男鹿の頬を冷や汗が伝った。
ふむ、とヒルダが口を開く。


「そうですね。やはり強いところでしょうか」

「まあ、強い男が好きなのね」

「はい。魔王の親ですから、強さは絶対的です。男鹿……いえ、辰巳さんはその辺申し分ないかと」

「他は!? ねぇ、他はどうかしらヒルダちゃん!」


美咲が身を乗り出す。
何で姉貴がくいつくんだよ、と男鹿が呟くと、湯飲みが飛んできて顔面に当たった。


「他……最近では父親らしくなったところでしょうか。坊っちゃまの世話に手慣れてきましたし」

「うんうん、父性あふれるとこね!」

「坊っちゃまも満足そうにしておられますし……。坊っちゃまのことを考えるというのが漸く……」

「ってベル坊ばっかじゃねーか!」


男鹿がヒルダに詰め寄った。
何か問題あるのかとヒルダが小声で聞く。
問題があるわけではない。寧ろ父親らしいのは良い事だろう。
ただ、子はかすがいで成り立った関係だと思われるのはまずい。


「できちゃった婚は世間体が悪いだろ……!」

「まったく、面倒な男だな貴様は」


ヒルダは呆れたように息を吐き出す。
男鹿自身、なぜこんな必死になっているのかよく分からないようだった。


「わかった。努力しよう」

「ん?」

「おばあ様。辰巳さんの強いところはもちろんですが、本当はとても優しい方だと私はちゃんと分かっているのです」

「まあ……! ヒルダさん……!」

「不器用な方ですから、とても分かりづらいのですけれど。表には出しませんが、私が寝込んだ時は様子を見に来てくださいますし、何度も彼に助けられました。きちんと叱ってくれた時は……変な話ですがとても嬉しく思ったものです」


ヒルダは微笑を浮かべた。
これは演技、なのだろうか。
男鹿は息を呑む。


「……辰巳くん、素敵な子に巡り会えたのね……」


おばあちゃんは涙をいっぱいに溜めてヒルダの手を握った。
良かったと何度も頷きながら。


「あ……そうか……」

「む?」


男鹿は溢すように言葉を発した。
美咲とベル坊に宥められているおばあちゃんの背を見つめながら、髪をくしゃりとかきあげる。
ヒルダも男鹿の横に立ち、その光景を眺めた。


「ケンカばっかしてたオレによく言ってたんだよ。ケンカしてもいいけど、女の子には優しくしろってさ。オレに嫁ができんの楽しみだっていつも聞かされてた」

「……そうか」


心のどこかで、喜ばせてあげなければいけないと思っていたのかもしれない。


「だが、騙している事になるのだろう。いいのか?」

「ん……? あぁ、そうだな……。まあ、オレはベル坊の父親だし、お前は母親なわけだから、全部が間違いってわけじゃねーだろ」

「そうか」

「それに……いつか本当にすればいい話だしな」

「……そうだな」


そこに意図があるのかないのか。
男鹿もヒルダも、今は気に止める必要のない話だった。
男鹿が何を思って本当にすればと言ったのかも、ヒルダが肯定するように頷いたのも。


「コロッケ食うか。ばーちゃんのコロッケうまいぞ、お前も見習え」

「一言余計だ」



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あぁぁぁ……これはお蔵入りレベル……!
そろそろ男鹿の祖父母がでてきてもいいんじゃないかと思ってね。孫の顔を見たいとか言って登場してもおかしくないし!
とか考えて書いてみた話。
でも書きたいのとはだいぶ違うものになってしまった……!
自分で納得できないものを上げるのはどうかとも思いますが……せっかく最後まで書いたんで……。
別にお互い意識してなくても、未来を想像したら一緒にいるのが容易に想像できてしまった的な話にしたかったはずなんだ……!
何から何まで駄目にしてしまった不完全な話ですみません。ありがとうございました!

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