夢 | ナノ
世界の為の佐野万次郎



――2030年9月3日 日本 横浜

 今から5年前、日本で最も高いビルの記録は更新された。
 最新技術の粋を集め作り上げられた地上80階地下10階のそのビルは、上から下までただ一つの組織と関連企業が入っている。
 その所在地は、神奈川県横浜。
 畏敬さえ込めて、地元の人々はそのビルをこう呼ぶ――天竺御殿と。

 日本を代表する大企業、天竺。その本社は創設者であり最高責任者を務める黒川イザナ所縁の地、横浜の一等地にそびえ立っている。

「武道さん、18時からの瓦城組との食事会はいかがいたしましょうか」
「あー……会議が何時に終わるか分かんないからなぁ。予定ずらせるか聞いてもらえる?」
「わかりました。先方に確認します」

 地上75階、眼下の道を歩く人々の姿も確認できないほどの高層階。
 自身に当てられた執務室の中、ジャケットに袖を通しながら武道は側近の男と言葉を交わした。
 武道がより良い未来を掴み取るため何度も過去へ遡っていたのはもう12年も昔の事。世界を股にかける大企業、天竺の幹部として分不相応に高い立場に置かれ、それでも周りに支えられながら否が応でも豊富になってしまった人生経験でこの年までなんとかやって来れていた。

「あ、来週の日曜日は上の子の運動会だから、ずらすならその日以外でお願いね」
「わかりました」
「じゃ、行ってきます」
「――武道さん、これ忘れてますよ!」

 その筆頭、現代へ戻って来た12年前のあの日から自らの最側近をずっと勤めている男の手に握られたそれを見て、部屋を出ようとしていた武道はあっと声を出した。

「ごめんごめん、ありがと」

 10年前に第一子が誕生した折、目の前の男から送られたお気に入りの万年筆。夫婦二人の思い出である四つ葉のクローバーがアクセントに煌めくそれを胸ポケットに差し込み、よしと頷き武道は執務室を出た。
 つい15分前、稀咲から通達のあった緊急招集。重要機密との事で電話口では議題も教えてもらえず、側近達の参加も禁止とされた会議。
 その内容を想像しながら、武道はビル内の会議室へと向かった。


 §


「何で、今まで黙っていたんですか!!?」

 指定された会議室。その扉を開いた瞬間耳に飛び込んできた怒号に武道はパチパチと瞬いた。

「こんな重要なことを何故――っ」
「直人、落ち着け。……来たか武道。早く扉を閉めろ、廊下に響く」

 直人を宥め、こちらに視線を送る稀咲の指示に従い武道は室内に入り後ろ手に扉を閉めた。ふぅふぅと息を荒げる直人と彼に睨まれる稀咲を交互に見ながら、会議室のソファに腰を落ち着ける。
 二人の他には天竺のCEOである黒川イザナの姿しか無く、過去に例を見ない小規模な――しかも直人は部外者――会合に、武道は戸惑い視線をさ迷わせた。
 いつも冷静な直人がここまで取り乱している。そして、イザナの最側近である鶴蝶の姿も稀咲と常に共にいる半間の影もない。もしかしてこの会議の議題は……いや、まさか。
 直人の息が整った頃合いに、イザナが静かに武道の名前を呼ぶ。

「8年前。終末期の患者が本人と周囲の意志、定められた手続きを踏めば安楽死を選択出来るようになった。……覚えているか?」
「え? う、うん。すごいニュースになってたし」
「11年前から、発展途上国で夫婦間における子供の数を制限する法が敷かれることが多くなった。それも、覚えているな?」

 唐突な問いかけに疑問符を浮かべつつも、頷く。
 2022年。諸外国に遅れる事数年、日本で安楽死が合法化された。
 今現在、ヨーロッパでは対象を要介護5相当の患者にまで拡大しており、この国もいずれそうなるのではないかと言われている。
 2019年。アフリカ大陸のある国が隣国で敷かれていた法令をベースに夫婦間の子供を原則一人とする法を敷いた。自国の学力向上、それに伴う国力の質の向上を目的とした施策。それをきっかけとして、発展途上国の間で出生数を制限する法が敷かれる事が多くなった。
 実際、世界の平均学力は施行以前に比べ大幅に底上げされつつあるとの調査結果が出たとニュースで報道されている。

「武道、お前はどう思う?」
「それは……国が決めた事だし、元々あった事が世界中に広まっただけだし、」

 安楽死も、出生制限も。一部の国では最初の世界線でも行われていた事で。国が、政治家が決めた事なら本来の未来でもそうであったはずで――…
 そう続ける武道の言葉の途中で直人が壁を思い切り殴りつける。
 口を閉じてそちらを見ると、直人は唇を噛みしめ忌々しげに稀咲を睨みつけていた。

「……彼の国で行われていた出生制限は、本来2014年に終わっていたはずなんです。それに気付きすぐ報告を入れた僕を宥めたのは稀咲さん、貴方でしたね」
「え……?」
「対象と地域が拡大した安楽死――自殺ほう助による死者は年間10万人を超え、年々増え続けている。出生制限により加速した少子化と合わせれば、犠牲者がどれだけに上るか。
 ――何故その裏に国連の、佐野万次郎の影があると知っていながら黙っていたんですか」
「……」
「こんな未来、間違ってる。この世界の佐野万次郎は今までのどの世界線より多くの命を奪う殺戮者だ」

 そう直人に糾弾されて尚、稀咲は口を噤み続ける。……その態度が、雄弁に物語っていた。

「そんな、」

 それきり言葉が出ない武道に直人が近付き無言で手を差し出す。
 12年前、幾度も握った直人の手。
 あの頃から皺も傷も増えたその手を見上げ、自身の左手薬指で輝く指輪に目を移し、胸ポケットに差し込んだ万年筆を撫でて。

「義兄さん」

 義弟が促すように自分を呼ぶ。覚悟を決めて立ち上がり、武道は直人と――…
 ……握手するため差し出した手を、途中で止められる。

「そこをどいて下さい、稀咲さん」
「武道。この未来は本当に間違っているのか? 今まで見て来た世界線を思い返せ」
「……裏切りを認めるんですか」

 唸るような直人の言葉を無視して、武道の手首を強く握りしめて。稀咲は武道の目を見つめ、懇願するように言い募った。いつも冷静な彼らしくなく、息さえ荒げて。

「いい未来だ。そうだろう、武道。国々は手を取り合って、世界に争いはない。格差も貧困も無くなりつつある。あれだけ騒がれていた地球の温暖化だって、佐野万次郎の指揮の元で打開策が見つかった」

 一つ息を吐き、稀咲は掴んだ武道の手元を――その左手の薬指に嵌る指輪を見下ろす。

「橘も――日向も、生きてる。事件にもテロにも、戦争へだって巻き込まれる事無く。……子どもたちに囲まれて、幸せそうに」

 そう声を震わせる稀咲に武道はハッと息を呑む。
 稀咲が日向に思いを寄せていると、最初に気付いたのはいつだったろう。結婚式の日か、産まれた子どもに会わせた日か、子どもの入学式に出席すると仕事を休んだ日か。
 自身の思いを武道に感づかれたと悟った稀咲は、ただ思う事だけは許してほしいとだけ言って苦く笑っていた。あれから数年。ずっとずっと、彼は一途に日向を――妻を思い続けてくれていた。

「……ありがとう、鉄太」

 そっと自分の手首を握る稀咲の外し、武道は揺れるその目を見つめ返した。

「それでも俺は行く。……ううん、行かなきゃいけない。子どもたちの、未来の為に」
「武道、」

 稀咲が続けようとした言葉は、蹴破られた扉の音にかき消された。
 事態を静観していたイザナが武道の背後にあるドアから入って来た人物を見て目を見開き、ガタリと立ち上がる。何事かと、振り返ろうとして。

「――…ざぁんねん、タケミっち」

 室内に、鈍い音が響いた。







――同時刻 アメリカ ニューヨーク

 プライベート用の端末に届いた連絡を確認し、三途春千夜は眉をひそめた。
 アメリカ合衆国ニューヨーク州、マンハッタンはタートル・ベイ。そこにそびえ立つ、国際連合事務局ビル。
 世界の中心とさえ言い切れてしまうその最上階、執務室で一人夜景を眺める背に声をかける。

「マイキー。今、花垣武道の側近に就けてるヤツから連絡があった。黒川イザナ、橘直人、稀咲鉄太の三名との緊急会議に呼び出されたらしい」
「……そう」

 表情を崩すことなく振り返る王は、いつだって美しい。自分は年を重ねるごとに醜く老いさらばえていくのに、時が止まったようにずっと若々しいまま変わらない。

「会議内容は?」
「箝口令が敷かれて不明。ただ、稀咲鉄太と橘直人の口論を直前に複数人が目撃している」

 春千夜の言葉を受けた万次郎は窓から離れると、壁際にある本棚まで静かに歩き出す。

「……信じた部下に裏切られるのは、とても辛い。辛くて、悲しくて――…憎くて、憎くて、」

 言いながら、彼は棚に飾った写真立ての一つを手に取り、そっと撫でる。格式ばったこの部屋に似つかわしくない悪趣味で派手な写真立てに入るのは、春千夜が離れていた間に行われた誕生日会での集合写真。
 色褪せた写真の中で穏やかな笑みを浮かべる今は亡き実兄、佐野真一郎の顔をじっと見つめ万次郎は目を伏せた。長いまつ毛が皺もしみも一つとして無いその頬に影を落とす。

「……わかるよ、タケミっち」

 元の場所に写真立てを戻し、彼は静かに春千夜の名を呼んだ。

「指示に変更はない。手を握り合うような素振りを見せたら殺せ」

 顔を上げた王と目が合う。光の差さない黒々とした瞳にじっと見つめられ、思わず喉が鳴る。

「……その場にいる、全員」
「了解」

 頷き、彼の号令を今か今かと待ち望む連中に伝えるため部屋を出る。

「タケミっち、どうか俺を――…」

 王が落とす言葉が耳に届く前に、扉を閉じた。









 目の前で義弟が崩れ落ちる。
 武道は状況が理解できないままその体のそばに膝を付いて、力なく投げ出された手を掴んだ。
 ……いくら力を込めても、その手が握り返す事は無い。12年前のあの日々のような、文字通り世界が一変するような感覚に襲われる事も。

「な、直人……?」
「頭を一発、即死に決まってんじゃん」

 その声の主を仰ぎ見て、胸中に浮かんだのは純粋な疑問だった。

「……なんで、」

 そこに立ち銃を片手に持つのは、12年間苦楽を共にしてきた武道の最側近を務める男。

「東京卍會陸番隊……くそ、そう言う事か」
「そーゆー事。おっそ、今更気付いたのかよ道化師」

 常の真面目な姿とは180度違う軽薄な笑みを浮かべ、男が銃を構えためらう事無く引き金を引く。
 鈍い音が――銃声が響いて、直人に重なり合うようにして稀咲が崩れ落ちる。
 室内に充満する硝煙と血の匂い。嘔吐く武道を尻目に男がもう一度銃を撃つ。後方から聞こえるイザナのうめき声。

「冥途の土産に我らがマイキーからのお言葉を伝えてやるよ」

 イザナの方を振り返ろうとした武道の額に照準を合わせ、信頼に値する側近だったはずの男が楽しそうに告げる。

「“この世界を泡沫へ帰すわけにはいかないんだ、タケミっち”」

 その指が引き金にかかり、武道は諦めと絶望に瞳を閉じた。

「“――…どうか俺を、許さないで”」

 項垂れるその頭に向けて引き金が引かれる。
 二度、銃声が響いて。
 ……いつまでたっても感じない痛みに、武道は恐る恐る目を開けた。
 目の前で銀糸が揺れる。カラリと鳴るピアスはいつも自分たちの前を行く王の耳元で揺れる物で。

「まだ動けるなんて、さっすがマイキーの兄弟」
「……イザナ?」

 ごぷりと血を吐き出し片膝を付きながら、イザナは銃を構える男を気丈に睨みつける。青褪めた顔で、口端さえ釣り上げて。

「あんな愚弟、兄弟でも何でもねぇ」
「愚弟……?」
「バカばっか仕出かす、碌でもねぇあの弟の事だ」

 男の浮かべていた笑みが崩れる。不快感もあらわに自分を睨みつける男に銃口を押し当てられて尚、イザナの態度は変わらない。

「テメェらは元々気に入らなかった。マイキーを一度拒絶したくせに家族面するお前も、何も持たないくせ目をかけられるソイツも。……守られてる事も知らず平和を享受する東卍の連中も」
「はっ、そっちが悟らせねぇようにしてたのによく言う。……全部、マイキーの指示だな?」
「だから? もうテメェらには関係ないだろ」

 二人の間で交わされる言葉の応酬を、武道は未だに信じられない思いで聞いていた。
 一体いつから。……最初から? この現代に帰って初めに会った時、重要な会合の時、結婚式に招待した時、子どもが産まれた時。いつだって男は武道の味方だった。味方だと思っていた。穏やかな声も親し気な笑顔も全て、演技だったのか。ずっとずっと、裏切っていたのか。

「……どうして、」

 武道は力なく視線を落とし、その先で視界に入った光景にハッと息を呑む。
 イザナが後ろ手に、こちらに向け手を差し伸べていた。
 逆らうような態度も男を挑発し煽り立てるような言動も全て、武道の動きを悟らせないため。彼はこの状況に置いても、諦めていない。タイムリープの最中、いつかの世界線で稀咲が口にした言葉が脳裏をよぎる。
 そうだ。天竺最大にして最後の切り札は――自分だ。
 覚悟を決め、ぐっと奥歯を噛みしめる。男の目を盗み、少しずつ。
 たった10数センチの距離が、酷く遠い。
 じりじりと静かに、手を伸ばす。

 血を失い冷え切った褐色の指がそっと武道の手に触れた。
 イザナと激しく口論していた男がそれに気づき、慌てて武道に銃を向ける。
 武道の額に向かって銃口から弾が出るより先に。
 祈るような心地でその手を取り、痛いほどに握りしめあう。

「……頼む、武道」

 イザナの言葉と共に、心臓がドクリと跳ね上がり視界が白く染まる。
 ……12年前、佐野万次郎の凶行を阻止するために直人と手を取り合ったあの日々と同じように。






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