夢 | ナノ
空洞侵愛



 青紫色に染まった彼女の唇に、紅をさす。
 指先が伝える彼女の体温は氷のように冷え切っていて、ただでさえ止まらなかった涙が堰を切ったように溢れだした。頬を流れる雫を彼女が困った様な顔を浮かべ、柔らかな指で拭ってくれる事は、もう永遠にない。

「……手を止めるな」

 背後から聞こえてきた父の声にはい、と返事をして彼女の顔に落ちた俺の涙を拭う。彼女の死に化粧を任せてもらいたいと父に申し出たのは俺で。ならば。一度言い出したからには、どんなに辛くとも悲しくともプロとして、最後まで成し遂げなければならない。
 俺の涙で剥がれてしまった白粉を再び叩き、頬紅を青白い肌に乗せる。瞼に紅を乗せ、髪を整えれば、まるで息を吹き返したかのような姿で彼女は棺桶の中横たわっていた。

「わしは仕事がある。お前は一晩、此処で過ごせ」
「はい」

 化粧を施された彼女の顔を覗きこみ、満足げに頷いた後続けられた言葉に従順に頷く。

 いつの頃からか、彼女の存在は父にとって俺よりも、仕事よりも低いものとなっていた。
 いや、最初からそんなものだったのかもしれない。仕事は父にとって存在意義に等しく、跡取りである俺はそれを産んだ女よりも大切な存在。
 男ほど力も無く、月に一度股から血を流し、子を孕めば十月十日働けない。そんな女という生き物の立場が男と対等になるのはこれから遠い遠い未来の話で、彼女の扱いはこの時代で言えばいたって正当なものなのだろう。
 むしろそれに耐えきれず心を壊した彼女の方が、この時代では異常だったのだ。

 背後で閉じた襖の音、二人きりになった寺の一室は静寂に満ちていて、俺は嫌でも眼の前に横たわる彼女の事について思考を巡らせてしまう。
 ごめんなさいタカ丸、と。彼女は間際に呟き逝った。彼女が死んだ原因が俺だと言う事に罪悪感を覚え、あの時ああしていれば、と後悔し。
 そして――彼女が死ぬ瞬間まで俺の事を考えていたという事実に歓喜する。

「ユーフェミア……」

 彼女の冷たい頬に手を滑らせる。そっと呟いた彼女の名は、自分でも怖気が走るほどの狂気に濡れていた。
 嬉しい。けれど悲しい。ぐるぐると胸の内に渦巻く感情は今までにないほど大きく、複雑だ。

「好きだよ、愛してる。……何故、俺を置いて逝った? 一体この感情は誰に向ければ良い?悲しい。哀しいよ、ユーフェミア。――…嗚呼、なんて憎らしい」

 頬から顎に、顎から首に手を滑らせ、そっと彼女が自刃した傷を押さえる。彼女は自分の手で自らの心臓を刺し、自害した。
 死ぬ時は彼女と共に同じ人物に殺される事を願い続けた。そうすればきっと、死後も彼女と共にいれると、そう信じていた。
 だと言うのに、彼女は俺を置いて逝ってしまった。
 ……どうして、俺を刺してはくれなかったのだろう。あの時、この胸に刃物を突き立ててくれれば。俺も喜んで彼女を殺してあげたのに。

 そっと彼女の左耳に嵌る翡翠のピアスを外す。母の生家、アンブローズ家に代々受け継がれてきた物だと誇らしげに言っていたのは、何年前の事だったか。タカ丸が成人したら穴を開けてあげる、と。そんな約束をしたのはいつの頃だったろう。

 彼女の死後硬直で堅くなった手に無理やり目打ちを握らせて、その手ごと目打ちを耳元へ持ってくる。
 そして躊躇い無く手を動かせば、耳に鋭い痛みが走った。

「――…っ」

 彼女の手を離し、熱を持つ左耳を押さえながらそっとその穴にピアスを通す。傷口から滴る俺の血を拭い、彼女の唇に紅の上から塗り重ね。
 薄青い瞼を閉じたままの彼女の頬に指を滑らせ、身を乗り出す。顎に親指を当ててそっと彼女の口を押し開き、冷たいそこへ静かに唇を重ねた。

「は、」

 柔らかな感触のする彼女の唇をそっと舐めとれば、鉄錆びた血と紅の何とも言えない味が口内に広がる。
 本来ならば不味いと思う筈なのに、今の俺には甘露としか思えない。きっと、最初で最後の彼女との口付だからだろう。

「待ってて、ユーフェミア。……ずっと」

 にこりと、彼女が好きだといっていた笑顔を浮かべて横たわる彼女の死体に語りかける。
 当然ながら返事はなくて、こんなことをしている自分に笑いがこみ上げる。ひとしきり笑った後、落ちてしまった彼女の紅を丁寧に塗り直す。
 片方ずつのピアスは、再び対に戻れるように、死後もまた彼女と会えるように。口を重ねたのは、彼女の事を一生忘れない様に。

 彼女の頭に手を這わせ、右耳に嵌ったピアスを触って確かめる。
 大丈夫。きっと俺は、冷たくて柔らかな彼女の唇を生涯忘れない。


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