「浅野さん。」

たった一言を紡いだだけの声は恐ろしい程に冷たかった。
くしゃりと乱雑に紙切れを握りつぶす乾いた音が部屋に響き、名前を呼ばれた人物は思わず声にならない声を上げる。その吐息が聞こえていたのか、冷たい声の主は狂おしい程に鋭い瞳をそっと細めた。

「ここに呼ばれた理由はわかっているかな?」
「は…い。」

今まで数え切れない程聞いた目の前の人物の冷たい声は、いつもに増して鋭い刃のように突き刺さる。名前を呼ばれた人物は、恐怖で震えそうになる体を必死に抑えながらやっとのことで目の前にいる鋭い瞳を持った人物に返事を返した。それでも、目の前の人物の鋭い瞳をとても見つめ返すことができず、代わりに冷たい声の主の握り締められた拳へと視線を落とした。拳の中にあるのはつい先程まで自分の手の中にあり、それからあっという間に目の前の人物に取り上げられてしまった、一枚の"紙"。
しかしその曖昧な声が気に触ったのか、冷たい声の主は更に不気味に笑みを深めると、震えを抑えている小さな体へ残酷に言葉を吐き出す。

「君は本当に昔から成長をしないね。正直、君の学習能力の低さにはがっかりしているよ。」
「は、い…すみませ…」
「君の"強者"を恐れる"弱者"の目も、もう数え切れない程に見てきた。」

か細い声を容赦なく遮り、それが当然のことのように鋭い瞳の人物は言葉を続けた。

「"強者"を恐れる者に、"強者"と同じ舞台に立つ資格などない。その意味、わかるね?」

冷たい声の主が声が大きく響くと同時に、消えそうな弱々しい吐息はまるで死んでいくように途切れていく。

「君も明日からE組行きだ。使い物にならないその存在を、せいぜい私の教育のために使ってくれたまえ。」

その口から吐き出された言葉は、今まで紡がれた言葉の中で一番残酷な言葉のように聞こえた。
氷よりも恐ろしく凶悪で冷たい声に、血のように生々しい赤い色をした瞳。 名前を呼ばれた人物はその瞳と同じ色を持っていながらも、きっと目の前の人物と人物では根本的な何かが異なっているのだろうと恐怖に塗りつぶされた頭で考えていた。
名前を呼ばれた人物…浅野なまえは目の前にいる世界で一番恐ろしく残酷な椚ヶ丘学園理事長…浅野學峯を震える睫毛の隙間から覗いた。そこにはやはり"父親"の姿はどこにも存在することはなく、その代わりに幼い頃からひたすら植え付けられてきた"恐怖"だけが残っていた。

***

理事長室から出てもなお、なまえの体の震えは止まっていなかった。父…否。理事長と顔を合わせるのはもう産まれてから15年目になる筈なのに、全く慣れることはない。それ程になまえの外側から内側、細胞の核の隅々にまで、理事長に対する恐怖は強く染み渡っていた。息を一つ吐いてひとまずその場からの一歩を踏み出すと、見計らったように呆れるような声が震える体に向けて投げつけられる。

「全く…本当に無様だね。」
「…学秀く、……浅野君。」

嘲笑うように吐き捨てた人物の名前を口にしそうになったなまえだったが、はっとしてすぐさま他人行儀な呼び方へと訂正した。なまえと同じ色の髪を持った少年は見下したように顎を上げたままなまえに歩み寄ると、ぎろりと冷徹な眼差しでなまえを射抜く。その瞳は理事長に瓜二つで、同じ親から同じ日時に産まれた"双子"という存在にもかかわらず、やはり自分は"弱者"と呼ばれる存在だということを、なまえは改めて噛み締めた。
それを知ってか知らずか、理事長の息子であり、なまえの片割れでもある浅野学秀は再び口を開いた。

「とうとうE組に落とされるなんて、やはり君は昔から変わらず"弱者"のままだ。」

全てを見透かした学秀の言葉は、なまえの胸の中に冷たく、狂おしい程に重い枷のようにのし掛かった。
何の言葉も返すことのできないなまえの横を学秀は満足げに通り過ぎていく。そんな学秀の背中を静かに見つめるなまえの中には、幼い頃から縛り付けられてきた一つの感情が巡っていた。優秀な兄と不出来な妹。幼い頃から比べられ、なまえが兄に勝てたものは何一つ存在しない。兄が絶対的な父を食い潰さんと野望を燃やす影で、なまえはただ恐怖に怯えることしかできなかった。
幼い頃からなまえに蔓延る"コンプレックス"はいつからかなまえの意志さえも奪い取り、なまえは自分でも気がつかないうちに、大切なものを自らの手で手放してしまったのだ。
喪失感に悶える胸の奥を隠すかのように、なまえは震える手のひらをそっと胸に当てた。

***

多数の進学校の中でも群を抜いて優秀だと言われている椚ヶ丘学園、椚ヶ丘学園中学校。全国から選りすぐられたエリートが集まり、優れた教育、優れた設備が整えられたこの学校は、一見誰しもが羨む憧れの学校だ。しかし、この学校には学校に通う生徒以外は知らないとあるクラスがある。
進学校の勉強についていけなかった脱落組が通う、通称『エンドのE組』。毎日山の上の隔離校舎に通い、あらゆる面で差別を受ける。加えてE組は本校舎の生徒とは異なり、春休みをほぼ返上して3月から開始される。
まだ人一人いないぼろぼろの旧校舎の前に、"彼女"…浅野なまえはその場所にいることを噛み締めるように立った。腐りかけの板、所々に開いた穴。手入れのされていない証拠に、校舎の周りはただ雑草が生い茂っていた。

「ここが、旧校舎…」

一応同じ学校の敷地内でありながら、なまえがこの場所に足を踏み入れたのは初めてだった。小さな声で特別でもない感想をもらし、なまえは教室へと向かう。本校舎とは異なるぼろぼろの教室の指定された席に着き、なまえはそのままゆっくりと瞳を閉じた。
足をくすぐる椅子のささくれ。切り傷だらけの机。そんな感触を感じながらなまえの脳裏に巡るのはつい先日、ふとした拍子に見つけ、理事長に取り上げられ、ぐしゃぐしゃにされた"一枚の写真"。

「……あの写真に映っていた場所と…"同じ"。」

なまえは双子の兄である学秀には適わないとはいえ、決して成績が悪いわけではなかった。にもかかわらず、理事長は実の娘であるなまえを容赦なくこの『エンドのE組』へと落とした。その訳は今まで父と兄に反抗をしたことがないなまえの態度にも原因があるのだろう。しかし、それ以外に先日潰されてしまったあの"一枚の写真"が関わっているのではないかとなまえはぼんやりと考えていた…だが、"弱者"である自分にはそんなことを暴いている暇などない。もし先日の件のことを理事長の前で蒸し返しでもしたら、そんなことより勉強をしろと、再びあの鬼の形相で吐き捨てられるだろう。
なまえはふと、風に乗って賑やかな話し声が聞こえてきたことに気がついた。揺れていた気持ちを切り替えるように首を振り、なまえはこれから開かれるであろう木造の扉を静かに見つめる。
この教室に入ってきた生徒達は"あの"理事長の娘である自分がこの教室にいることを知ったら驚くだろうか……いや。そうでもないかもしれない…何故なら。

「…わたしも"弱者"だから。」

鳥籠モラトリアム

BACK
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -