高華王国の緋龍城。かつて緋龍王が建国したとされる高華国要の城では現在、世継ぎの皇太子も世継ぎを産む皇后もなく、齢十五の可憐な皇女と、病を患ってもう長くないと言われている儚い皇女…二人の姉妹が、大切に大切に育てられていた。

***

夕闇迫る黄昏時
どうかわたしの想いを共に燃やしてほしい
そうしたらこの瞬間だけは
あなたを忘れることができるから


燃えるような夕焼けを呑み込むように広がる薄暗い空。その下では、まばたきをしたら一瞬にして消えてしまう刹那の時間を包みこむように、儚い歌声が響いていた。
歌声を響かせる人物の深い色の髪は、黄昏時の闇に溶けながら風に絡め取られてしなやかに揺れている。しかし長い睫毛に縁取られた瞳だけは、遠くに霞んで見えるかつて自らが過ごした場所…緋龍城を真っ直ぐに見つめていた。
やがて空全体が夜の闇に包まれ、僅かに残っていた赤い色が消えた時。かつて"皇女"と呼ばれていた女は歌声を止めて静かに立ち上がると、そっと懐に手を伸ばした。
彼女が大切そうに懐から出したのは、蓮の花を模して作られた美しい簪。泥の中でもけして汚れず美しい花を咲かせる蓮の花は、遠い昔に彼女自身が"彼"に一番好きな花だと伝えた花だった。
何かを思い返すように暫くの間簪を見つめていた彼女だったが、やがて何かを決意するかのように真っ直ぐに前を向くと、大切そうに握り締めていた簪を立っていた崖の下へと放り投げた。きらきらと輝きながら崖の下に消えていく簪。その様子から目を反らすように崖に背を向けた彼女は、そのままゆっくりと歩き出した。
闇の隙間を通り過ぎていくやわらかい風が彼女の長い髪を揺らす。髪によって隠されていた白い頬には、隠しきれない一筋の涙が伝っていた。

***

透き通るような白い肌。長い睫毛に縁取られた瞳。そして、黄昏時を思わせる深い色の髪。高華王国の第一皇女…なまえの髪を結っていた侍女は、目の前の姫に見とれるように、はあ、と感嘆の溜め息をついた。そしてそのまま、うっとりとした声で呟く。

「なまえ姫様って、本当にお人形さんみたいでお綺麗ですよね…」
「なあに、それ。そんなお世辞を言っても、何も出て来ませんよ。」

侍女の声に答えたのはつい先程、侍女に"人形のよう"と言われていたなまえ。しかし、振り返ったその顔はどこにでもいるような女性らしい笑みを浮かべていた。一見、見ているだけでうっとりと見惚れてしまいそうなこの皇女は、ひとたび口を開き、その顔に笑みを浮かべると、たちまちどこにでもいるような無邪気な表情を浮かべる。この変化を幾度となく傍らで見てきた侍女は、そんな皇女の変化が好きだった。

「ふふっ、本当のことだから言ってるんですよ。私がお仕えしているなまえ姫様はとっても素敵な方だって。こんなお姉様、私も欲しかったなあーヨナ姫様が羨ましいです。」
「もう…」

侍女の声に溜め息をつくなまえだが、その頬は照れたように桃色に染まっている。それを見てこっそり頬を緩めた侍女は結っていた髪の仕上げにかかった。綺麗な深い色の髪を櫛で解かして、絹の白い紐で結んだら。

「はい、できました。」
「ありがとう。じゃあ早速、私は…」
「スウォン様の所ですか?一週間後のヨナ姫様の誕生日の為に、城へいらっしゃるのですよね?」

からかうように口にした侍女だったが、その言葉を聞いたなまえはそっと口元を緩めると、そのまま侍女に背を向けて、呟いた。

「ふふっ……そうね。スウォンに会うの、久しぶり。前にスウォンが来た時はわたし、体調を崩してしまって会えなかったから。」

笑いながら言ったように見えたなまえだったが、侍女の目にはなまえが背中を向けた時の一瞬の表情が焼き付いていた……伏せられた瞳に灯る、悲しげな色。話をする時は必ず人の目を真っ直ぐに見つめるなまえがこうして背を向けて話す時は、決まって何かを隠している時だ。
誰もが振り返るような容姿に、口を開くと広がる無邪気な表情。誰かの為…大切な妹の為ならば簡単に自分の気持ちを殺してしまう優しい姉。
そんな姫が、病に蝕まれているなんて。

「……この世に神様がいるというのなら、神様は残酷すぎるわ。あんな儚い姫様の命を奪おうだなんて。」

***

「わたしは……"素敵な姉"なんかじゃない。」

部屋を出たなまえが静かに見つめるのは、可憐に着飾った妹のヨナとスウォンが微笑み合いながら話す姿。姉のなまえのことを齢十五になっても変わらず慕うヨナは、幼なじみのいとこであるスウォンのことが好きだ。
しかし、今から数年前、なまえに発症した病魔はなまえの体を蝕み、どんな医者や薬でも治すことが出来なかった。この病のために、なまえは齢十八にも関わらず誰とも婚約を交わしていないのだ。高華王国に皇太子はいない。そのため、婚約をして次の高華王国の次の王を決める役割は妹であるヨナへと引き継がれた。そして恐らく姉妹の父…現王のイルはスウォンを次の王には決して選ばない。
つまりヨナは、大切な想い人と結ばれることがなくなってしまう。

「…わたしは大切な妹から幸せを奪う……最低な姉なの。」

***

群青色の空に瞬く幾千もの白い星。イルがなまえの誕生日に造った蓮の花が咲き誇る離宮は、広い広い緋龍城の中で一番空が近く、美しく見える場所にある。なまえは皆が寝静まった後に、一人でこの場所に訪れて空を見ることが好きだった。もちろん大切な妹のヨナや優しい父イル、幼なじみのハクやスウォンなどと賑やかに見ることも楽しいが、部屋を抜け出して一人で見る空は格別だった。"夜中に一人で部屋を抜け出す"という所に魅力を感じているのは、なまえが十八になっても少しばかり子供っぽい部分が残っているからかもしれない。なまえはそんな自分に呆れるように苦笑を浮かべたが、わくわくする気持ちは押さえきれず、高まる気持ちのままに歌を口ずさみ始めた。

群青色の夜に幾千もの白い炎が灯る
何度でも手を伸ばすから
私も幻像のほとりへ連れて行って


誰もいない離宮に響く、なまえの儚い声。この場所に一人でいると自分を蝕む病のことも、その病のせいでヨナに大変な役目を押し付けてしまうということも……通じるはずのない"想い"のことも。全てのことを忘れてしまうことができた。だからこそ、この場所に一人で来ることが好きなのかもしれない。
すっかり一人が気を緩めていたなまえは、背後から近づく人影に気がつくことができなかった。

「こんな夜更けに、なまえ姫様はお一人で一体何をやりやがってるんですかー?」

普通の者ならば聴き入って声を出すことさえ躊躇してしまう歌声にも一切構うことなく、なまえの一人きりの時間をぶち壊したのは、なまえも嫌という程よく知っている人物の声だった。突然かけられた声に歌声を止めてゆっくりと振り返ったなまえは、にっこりと微笑みながらその人物の名前を呼ぶ。

「あら…ハク将軍。緋龍城の要である将軍はこんな夜遅くまで大変ね。まだお休みしないの…?」
「アンタのせいで休めないんですよこの腹黒姫。」

仮にもこの国の第一皇女に向かってこんな言葉を吐くのは、緋龍城の要である五将軍の一人…ソン・ハクがなまえの幼なじみだからだ。なまえの方も普段ならばなかなか口にしない冗談を言ってくすくすと笑っている。このように、城の見回りをしていたハクに見つかっても少しも反省していない様子のなまえを見たハクは、もう慣れたものだと苦笑を浮かべながらなまえの隣に腰を下ろした。

「ふふっ…こんな夜遅くなのに、私を部屋に戻さなくていいの?」
「どーせ言ったって簡単には戻らないことくらいいいかげん知ってんですよ。それに、相変わらず侍女達は気がついてないしな。」

言葉を吐き出しながら呆れたような視線を向けるハクに、なまえは再びくすくすと笑いをこぼす。

「服と書物で寝台を膨らませておくだけで抜け出せてしまうんだもの、ね…?」
「笑いごとじゃねーですからね?もしイル陛下にあんたがいないって知れたら、夜中でも大騒ぎだ。」
「お父様は心配性なの。それに…もしいなくなったとしても、私が行ける場所なんて、この緋龍城以外どこにもないのにね。」

まるで何の希望もないかのように、全てを諦めたような声で言葉を吐くなまえ。目を奪われる美しい容姿とは不釣り合いに無邪気で、妹のヨナをイル陛下と同じか、それ以上に大切にしているなまえ。そんな姫が瞳に悲しげな色を灯すようになったのは、いつからだっただろうか。
ハクが初めてなまえに会ったのは、部族長で育て親であるムンドクに連れられて緋龍城を訪れた時。幼い頃のなまえは今の無邪気な様子からは信じられないが、泣き虫で引っ込み思案な姫だった。顔を合わせた時はちょうどいとこのスウォンも一緒で、なまえはスウォンの後ろにべったりと引っつきながら涙目で挨拶をしたのだ。そんな姫は妹のヨナが生まれてからはいつの間にか消え、気がついた時には誰もが振り返る容姿を持った、正に理想的な姫へと変わっていた…しかし、幼なじみのハクはその姿がなまえの本来の姿ではないことなど、とっくの昔に気がついている。

「…なまえ姫は幼い頃から相も変わらずくよくようじうじ後ろ向きですねぇ。」
「もう……確かにそうだけど、何か別の言い方なかったの…?」

思っていることをそのまま口にしたハクに、なまえは自傷気味に笑いながら問いかける。散々なことを言われても変わらず笑っているなまえに何故だかハクの方が苛立ちを覚え、なまえにもっとも効果的な問いを口にした。

「スウォン様とは会ったんですか?」

"スウォン"…その名を聞いたなまえは弾けるように目を見開くと、そのまま悲しげな色が灯る瞳を伏せる。

「…その質問は意地が悪すぎると思うのだけど。」
「で、会ったんですか?」

明らかに答えたくなさそうな反応を返したなまえに構うことなく言葉を繰り返したハクに、とうとうなまえも堪忍したように答えを口にした。

「……会ってない。」

静かな声で答えたなまえに、ハクはやっぱりか、と呆れ果てた溜め息をつく。ハクの脳裏に浮かんだのはスウォンに会うために朝から着飾っていたヨナで、恐らくなまえは着飾ったヨナとスウォンが話しているのを見て会いに行くのを止めたのだろうと察した。

「ほんっと…どれだけ外見は変わっても、あんたは昔っから変わんねえよな。勿論悪い意味で。」
「……本当に、そうね。」

ハクの嫌味な言葉も、笑みを浮かべながらあっさり受け入れてしまったなまえ。そんななまえを見て、ハクは今日この姫と顔を合わせてから何度目かもわからない溜め息をついたのだった。

重荷を抱いたままのさなぎ

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