小説 | ナノ

空蝉 - 第三話 -


夕べは結局、一睡もしなかった。夜通し、紗世と話していたからだ。
家臣に昼まで寝ると伝えたものの、横臥しても一向に眠気はやってこない。結局、まんじりともせずただ時間だけをやり過ごして、起き上がった時にはもう日が暮れようとしていた。

相変わらず、正室である蕗女は元春と口をきこうとしない。余程、昨夜の紗世との一件を根に持っているらしい。紗世も憎いが、それを庇った夫の元春は更に憎いというところだろうか。一緒に食卓についていたまだ幼い子供たちが、両親の間に流れる不穏な空気を察してか、どこかそわそわと落ち着かない様子を示している。元春は時折笑いかけてやったが、頭の中を占めるのは紗世のことだった。
一晩経ったのにまだ態度の硬い妻への苛立ちもあり、紗世の立ち居振る舞いがよりいっそう可愛らしく引き立つ。
一人で城の入り口までやって来て、上がり框の下から元春夫妻を見上げた切実な表情も印象的だった。自分の意思を伝えたい一心で来たのであろうが、必死に訴えているような、縋るような視線を向けられ、元春は少なからず動揺した。だから、普段は女同士の諍い事などには関わらないのに、昨夜はついその場に長居してしまったのだ。
そして……話の筋が通っている紗世を庇い、蕗女の不興を買うことになった。それだけならまだ良かったのかもしれないが、彼女が退室した後、緊張が解けてその場にへたり込む形となった紗世を衝動的に抱き締めてしまったのが、後々元春を悩ませることになっている。
大柄な我が妻と違って華奢で小柄な紗世は、広い室内にぽつんと佇むと、籠の中の小鳥を思わせた。花を連想させる可憐な容姿と相俟って、その姿は庇護欲を掻き立てるには充分で。もし彼女が人妻でなければ、室にさえ所望したかもしれない。彼にしては珍しく、激しく切実な欲求であった。
しかし紗世は人妻である。しかも、実弟の妻であるという事実が、元春に何重もの苦悩を与えていた。
弟の隆景が紗世を溺愛していることは、元春もよく知っていた。
これまで紗世と顔を合わせたことは数える程しかないが、あの美貌は常に頭の端に刻まれていた。だが、隆景がどうしてあんなに紗世を愛しているのか、元春にはちょっと理解できないというのが正直なところであった。それまで、元春と対面した時の紗世は、無愛想に思える程に無表情であったのだ。冷たいというか、感情表現の乏しい女性なのかと思っていた。
しかし昨夜の一件で、紗世に対する印象が良いほうに一変した。
喜怒哀楽の、どの表情を一つとっても愛らしい。語り合っていた時に紗世が見せた、蕾が花開く瞬間のような笑顔を思い出すと、まるで初恋のような甘酸っぱい気持ちにさせられる。向かいに座る蕗女に気付かれぬように嘆息し、さっさと飯をかき込んで席を立った。

廊下を歩いて台所の前に差し掛かると、女中に「お館様」と呼び止められた。
「どうした?」
「先ほど、大殿が土産だと言って持って来られたものなのですが、雄高山城の小早川隆景さまにもお届けするよう言われまして。誰に頼めばよろしいのでしょう」
そう言って見せられたのは和紙に包まれた餅であった。花を象ったもののようで、一つ一つがその花の色に着色されている。
「父上は、ご自分で隆景の所に行かなんだか」
「はい、この後他の城主さまの所へ行くご予定があり、雄高山城は反対方向とのことで」
「なるほど…」
元春は手渡された菓子の箱を見ながら、ふと、これを口実にすれば紗世の顔が見られるのではないかと思い至った。蕗女の機嫌が悪いので、城内にいてもどうせ気詰まりなだけだ。雄高山城へは、一刻もあれば往復できる。
そう思い立つと、いてもたってもいられず、そそくさと外に出た。供の者を二、三人連れただけの軽装で、弟夫妻の住む城へと馬を走らせた。

丁度その頃、紗世は隆景と縁側に立って月を眺めていた。隆景の羽織に包まれたまま抱かれているのは心地良い。昨夜の元春との抱擁以来、強張っていた感情が段々と解れてくる。
次第に、どこかぎこちなかった二人の間にも普段通りの雰囲気が流れ始め、漸く会話も弾み出した。
月が綺麗だとか、庭の花が見頃だとか、そんな他愛のない話ばかりだが、平穏な日常を隆景と共に過ごせることが、紗世には何よりも嬉しい。
「冷えてきたな。そろそろ中へ…」
「はい」
そう言って、隆景が紗世を促したのと、家臣が廊下を駆けてきたのはほぼ同時であった。
「殿、火野山城より吉川元春様がお見えです」
「兄上が、こんな時間に…?」
訝しげな声を出した隆景の横で、紗世は思わず胸元を抑えた。目の前の景色が瞬転し、心臓を鷲掴みにされたような感覚がに陥る。
「相わかった。すぐに伺うので、それまで鄭重におもてなしするように」
それから隆景は紗世を顧みて、「そなたも兄上と会われぬか?」と柔らかく訊ねた。
一瞬、断ろうと思ったが、一晩世話になった相手に対してその態度はいささか無礼だ。それに、相手は義兄にあたるのだ。理由もないのに、会わないと突っぱねるわけにもいかないだろう。
「隆景さまとご一緒します」
笑顔が微かに引き攣ったことに、隆景が気付いたかはわからない。紗世は寝間着の上から小袖を羽織り、普段着に見えるよう衣装を直してから元春の待つ客間へと赴いた。
既に隆景が座っていて、酒を酌み交わしている。紗世も慌てて隣に座り、三つ指ついて頭を垂れた。
「改めまして、昨夜の無礼な振る舞いにはお詫び申し上げます。にも関わらず、今朝はお城まで送って頂き、本当にありがとうございました」
これに対し元春も形式ばった返礼をしたが、隆景が上手く場をとりなして、その後はいつも通りの酒宴となった。
「そうだ…こんな時刻にも関わらずここに来た理由は、これを紗世どのに渡す為でな」
元春はそう言って、思い出したように脇の小箱を手に取った。
「先ほど、父上が京土産といって火野山城に持って来られたのだ」
「父上がですか」
隆景が紗世に、受け取るよう目配せした。元春の顔を直視できず、やや俯き加減になってしまったが、指先が触れ合った時、二人とも微かに体が強張った。
「女子は、こういうのは好きだろう」
箱の中には可愛らしい和菓子が十個並んでいる。
「これは珍しい」
隆景が傍から覗き込んで声を上げた。
「紗世、良かったな」
「はい」
紗世は元春の視線を気にしつつも、可愛い形をした菓子を見て素直に喜んだ。その様子を見た隆景が、元春に向き直って、
「紗世が嬉しそうな顔を見せてくれて、わたくしも安心致しました。兄上には改めてお礼申し上げます」
と丁寧に礼を述べた。
「改まって…いかがなされたのじゃ」
その隣で紗世は顔を伏せたままである。元春は心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、弟を見据えた。
「実は、つい先刻まで臥せっておりましたもので…」
隆景はそう言って、労しげに紗世を見遣った。その視線には微笑を以て応えている紗世を見て、微かな嫉妬を感じながらも、元春は心中を見透かされないように声を張った。
「そうであったか…。もう快復されたのかな」
「はい」
紗世はこっくりと頷いた。元春には、具合が悪いというのは方便だろうと凡その察しが付いていたが、隆景に疑念を抱かれると厄介なのでそれ以上のことは黙っていた。
酒肴が尽きたのをきっかけに、元春は席を立った。隆景と紗世が馬を停めている所まで見送りに来てくれる。
「新庄の御方様にもくれぐれもよろしくお伝え下さい」
隆景が物腰柔らかく挨拶している傍らで、紗世は慎ましやかに立っていた。元春は不自然にならないよう紗世の姿を注視しながら、「ああ、伝えておく」と隆景に返事をする。
元春の背中が見えなくなるまで見送って、二人は城内に引き返した。居館に入ってすぐ、燭台の灯りに照らし出された紗世の横顔を見るや否や、隆景は驚いた声を上げた。その顔色が、漂白したように白かったからだ。
「紗世、顔色が冴えぬようだが…」
「少し、お酒を飲み過ぎたのかもしれません…」
確かにどことなく苦しそうな様子で、その場にしゃがみ込みそうになるのを、隆景は慌てて抱え上げた。小柄な体は、武芸で鍛えた隆景からしてみれば紙細工のように軽い。
「誰か、侍女と医者を」
近習に指示を出しながら、寝所に連れて行く。
(本当に酒の飲み過ぎであれば良いが…)
慌ただしく介抱している侍女を横目に、隆景はふとそんなことを考える。昨夜からの一連の流れを見ていると、元春が絡んでいるような気がしてならない。

一方、その元春は火野山城へと向かう馬上で少し後悔し始めていた。
(会うべきではなかったかもしれぬ)
隆景の隣に鎮座している紗世は、まるで精緻な人形細工のように美しかった。そして、今でも感触がはっきり残る指先。菓子箱を渡す際に触れた紗世の手が強張ったように感じられたのは、元春の自惚れではないはずだ。終ぞ自分と視線を合わせようとしなかった紗世……互いに意識し合っているのは明白だった。
だが、だからといってどうすることもできない事実が、元春を苛立たせる。力ずくでも抱いてしまえば良かったのか。否、そんな事をすれば、紗世は元春と二度と会わないだろう。それに、隆景が嫌がるようなことを紗世が許容する筈がない。
隆景は紗世に惚れ込んでいるが、先程の様子を見る限り、紗世も隆景のことしか見えていない。だがそれは、少なくとも昨日までの話である。今は――。
「揺れている、というのとも少し違うな」
思わず呟いた独り言に、供をしていた家臣が訝しげな視線を向ける。元春は「此方の話だ」と苦笑して見せ、今一度馬腹を蹴った。酒と慕情で火照った顔に、冷たい夜風が心地良かった。

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