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空蝉 - 第二話 -


縁側に腰掛けて、紗世は昨晩のことを思い出している。
たった数刻前のことなのに、まるで遠い夢の中の出来事のように輪郭がぼやけていた。だが、それは決して夢ではなく現実に起こったことなのだと、微かに着物に残る別の城の匂いが記憶を呼び覚ます。
夢であればどんなに良いだろう。夫以外の男性に体に触れられ、ましてやそれが嫌悪すべきものではなかったなんて。戸惑い、羞恥、混乱、それらと同時に思い起こされる幸福な温もり。背徳がいっそう甘美な毒を引き立てて、身が千切れんばかりの困惑をもたらす。
自分の気持ちがどこにあるのかわからなくて、
(紗世には隆景さまだけいればいい…)
心の中で呪文のように叫び、自分の腕を自身で抱いた。数度かぶりを振って、明け方の出来事を忘れようと努める。
……が、一度自覚してしまった思いは簡単に消えることなく、煉獄の炎に焼かれているかのような苦しみに苛まれて、彼女は暫くその場に蹲っていた。

「紗世」
頭の上に柔らかな声が降ってきて、突然現へと引き戻される。開け放した障子から西陽が差し込む夕餉時、向かいに座る隆景は心配そうな表情で紗世を見ていた。
「どこか加減が悪いのか」
食事が始まって半刻以上経っているのに、殆ど手付かずの膳を見て労わるように訊ねた。紗世はそこで始めて、自分が箸を持ったままぼうっとしていたことに気付く。
「いえ、そんなことは…」
とはいうものの、食欲はない。心配させまいと慌てて椀の惣菜を口に運んだが、何を食べているのかわからなかった。
「紗世どのは昨夜、一人で火野山城へ赴かれたと伺っております。いささかお疲れなのではございませんか」
二人と一緒に食事を摂っていた安国寺恵瓊が、控えめに口を挟む。隆景は「ああ」と合点した様子で、「兄上から話は聞いた」と含みのない口調で言った。
「私が迎えに行けなかったが故に、律儀にも兄上自ら送って下さったそうな」
さらりと言われると、紗世のほうが落ち着かない心地になる。まさか元春も、紗世との抱擁に始まり、夜を徹して語り合ったことについては話していないだろう。
「紗世、そなたが新庄の御方との一件をそこまで思い詰めていたとは知らず、力になってやれなかったこと相済まぬ」
隆景はそんな紗世の心中を知る由もなく、心底申し訳なさそうにそう告げた。紗世は慌てて両手を振る。そして自分もつい頭に来て熱くなりすぎたことを反省し、勝手に城を飛び出して心配をかけたことを謝った。
「否、紗世が怒るのは尤もだというのが兄上の仰せだ。今回の件については、紗世は微塵も悪くない」
隆景は爽やかに微笑ってそう裁定した。
「隆景さまからその御言葉を頂戴し、紗世も漸く心の痞えが取れました」
無断で城を飛び出した自分を咎めているのではないかと心配していたので、これは紗世の本心である。
「とはいうものの、夜の山道を女性が一人で歩くのは危険極まりない。今回はたまたま無事だったから良かったようなものの…今後はそのような事のないように。紗世、私はそなたに何か大事があったらと思うと、耐えられぬ」
「本当に申し訳なく思っております…」
隆景の声音は真摯で、紗世は低頭してそう応えながら、不意に、自分が物凄く罪深い女のように思えた。こんなに大切に想ってくれている夫がいるのに、他の男性に思いを馳せていたなんて、赦されることではないのではないか……と。
(早く、元春さまとの事は忘れなくては……)
しかし焦れば焦るほどに、記憶はより鮮明なものとなって紗世に圧し掛かってくる。
「紗世、やはりどこか具合が…」
悪いのでは…と、黙りこくった妻を見て、隆景が訝しげに尋ねた。
「紗世どのは慣れない一人旅でお疲れなのでしょう。今夜は早めに寝まれては」
恵瓊がそろそろと口を挟む。今の紗世には、そんな差し障りのない提案が有り難かった。
「そうだな。では誰か、侍女を…」
隆景が御簾の外に声をかけると、隣の間に控えていた紗世付きの侍女が数人、部屋に入ってくる。
「紗世はどうも加減が優れぬようで。まだ早い時刻だが、ゆっくり寝ませてやってはくれまいか」
「は、はい…」
紗世はそのやり取りを、どこか他人事のように聞いていた。食事もまともに摂らなかったのを心配してか、部屋を出る際に隆景が菓子をいくつか手に載せてくれた。色とりどりの可愛らしい茶菓子であった。
「殿…」
続けて礼を述べようとしたけれど、咄嗟に言葉が出てこない。隆景が微かに首を傾げる。そこには労りの色以外、何ら窺えなかった。
(私、こんなに優しい人を心配させて……)
そう思うと居た堪れない。下瞼に涙が溢れてくる前の熱を感じ、それを悟られないように紗世は慌てて俯いた。

綿のたっぷり詰まった布団に身を横たえながら、紗世は昨晩泊まった火野山城、元春夫妻の居館を思い出す。自分に宛がわれた客間の、薄い布団を通じて背中に感じた畳の感触。
とはいうものの、実際に横になったのは二刻ほどで、あとはその傍らで、元春が訥々と話す声に耳を傾けていた。今、上方で流行っているものの話などは、女の紗世にはどれも珍しく、聞いていて飽きなかった。
長く抱擁した後の二人だ。語り合いながらも、どこか甘く温い雰囲気が漂っていた。
元春にいきなり抱きしめられたのは、驚きはしたけれども嫌ではなかった。最愛の隆景の兄だからだろうかと一瞬考えたが、そうではないような気がする。
また、紗世にはもう一つ不思議なことがある。それは、何故あの時元春は新庄局を追わなかったのかということだ。いくら紗世の側に分があるとはいえ、正妻を放ってまで余所者の自分を庇ったりはしないだろう。そもそも、元春はどうして自分の味方をするのか。
公正明大な人間で間違ったことは許せないのだと言われればそれまでだが、隆景からよく、元春がどれだけ新庄局を大事にしているかというのを聞いているので、どこか腑に落ちない。
紗世は寝所で何度も寝返りを打ちつつ、昨夜の元春の一連の行動を反芻した。すればするほど、何か気付いてはいけないことに気付いてしまったような気がして苦しくなる。
忘れたいのに忘れられない。否、自分自身が一番、忘れることを拒否している。
もう一度元春に会って、あの抱擁にどんな意味があったのか確かめたい衝動に駆られた。が、それはあまりにも非現実的で、もっと言えば自意識過剰なだけかもしれなくて、到底実現できない。それに紗世は、隆景を一番愛していた。聡い人だから、多分、火野山城で元春との間に何かあったと、薄々勘付いているに違いない。にも関わらず、常日頃と全く変わらぬ態度で接してくれる。
枕元には、先刻貰った可愛らしい京菓子が置かれている。きっと、侍女の誰かが気を利かせて盆に盛ってくれたのだろう。それを眺めているうちに、涙が溢れた。自分がどうしようもなく不貞な女に思え、声を殺して泣いた。

どれくらい時間が経ったのだろう。鈍く痛む頭を抑えながら首をもたげると、御簾を透かして群青色の空が目に飛び込んできた。と同時に、廊下を静かに歩く音がして、
「紗世」
と聞き覚えのある声が降ってくる。
「隆景さま…?」
控えていた侍女に御簾を上げるよう指示した。隆景は紗世に微笑みかけると、瞬転、庭の外に視線を向けて「今宵は満月だそうな」と夜空を振り仰いだ。
紗世はまだ半分覚醒していない意識の中、眼を擦りながら這うようにして寝所を出た。ごく自然と、隆景がその体を支えて立ち上がらせてくれる。
「月が綺麗…」
紗世は独り言のように呟いたが、傍らを吹きぬけた夜風は思いの外冷たくて、思わず隆景に身を寄せた。
「これは…風邪など召したら大変だ」
彼は笑いながらそう言って、自分の羽織をふわりと紗世に着せかけてくれる。襟元を合わせると、人の温もりが残っていることもあって心地良い。
「紗世姫におかれては、何か悲しいことでもあったのかな」
「え……」
隆景の悪戯っぽい口調に、弾かれたように自分よりも遥かに背の高い夫を仰ぎ見た。
「目が腫れておるから、つい…」
泣いていたのか気になって、と庭のほうを向いたまま小さく付け加える。
「……」
「無理に話さなくとも良い」
大きな掌が頭に載せられて、紗世はそっと俯いた。口が裂けても、元春のことで懊悩していたとは言えない。それに、紗世にはやはり隆景以外の男性と一緒になることは考えられないのだ。
(では何故、元春さまのことが忘れられないのか…)
嫌な女の罵倒から庇ってくれたからだろうか、それとも抱き締められた時に何とも形容し難い、強いて言えば自分に対する誠実さを感じたからだろうか。そんなのは紗世の自惚れだろうと否定する反面、自惚れではないと肯定する自分がいる。
だが、どんな慕情を紗世に抱こうと、元春とてどうしようもないだろう。もしかしたら今頃は、紗世と同じような思いに苦しんでいるかもしれない。そう考えると、少し救われるような気がした。
「隆景さま…」
「ん?」
隆景の振り向きざまに紗世は双腕を伸ばし、その背中に回した。少し驚いた様子が体ごしに伝わる。
紗世のほうから甘えるのは至極珍しいことであったが、隆景はその理由を詮索しようとはしなかった。ただ黙って、その華奢な体を抱きながら、それまで浮かんでいたある一つの疑問を払拭しても良いのか否か迷っていた。

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