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空蝉 - 第一話 -


一輪の、白い百合のような女性だった。
大きな瞳は濡れたように黒く、目を伏せると睫毛が濃い陰を落とす。上質の着物に包まれた華奢な肩は、花を手折るようにすれば掌の中で儚く消えてしまうのではないかと本気で思った。

元春の正室である蕗女が、彼の弟――隆景の正室である紗世と激しい口論になったのはつい先日のことであった。はっきりとした理由は彼にもわからない。
蕗女は気が強く思った事は何でも口に出さないと気が済まない性分だから、彼女曰く、自分とは真逆の終始控えめで慎ましやかな紗世とは何かにつけて気が合わない…その辺りに原因があるのだろう。
これまでは隆景が仲介役を買って出てくれていたのだが、弟が蕗女をあまり好ましく思っていないことは元春も知っている。
昔、自分達の実姉と一悶着起こしたことがあり、その一件が尾を引いているようだ。
今回、紗世は蕗女のことを夫である隆景に訴えたが、彼は妻に蕗女と真面目に言い争うことがいかに不毛かを説き、自分は介入しない旨を伝えただけであった。
そう諭された紗世は、彼女にしては珍しく声を荒げた。
「隆景さまは、紗世がまるで阿呆のように世間に言われたままでも良いと仰るのですか!?」
「紗世、私はそうは言っていない。ただ新庄の御方はああいう気性の女ゆえ、そなたがいくら正論を翳そうと、自分に都合の悪いことは聞き入れぬ。だから言い合うだけ無駄だと言うておるのだ」
「しかしそれでは、紗世の気が収まりませぬ。隆景さまが紗世の気持ちを汲んで下さらないのなら、新庄の御方様にいま一度直に腹の内を申し上げてまいります」
そのようなやり取りがあった後、彼女は怒りに任せて竹原城を飛び出し、元春夫妻が住むこの火野山城へと単身でやって来たのだった。
いくら近所とはいえ、若い女性が一人で歩いて来るのは危険な山道である。供の者は侍女一人すら連れていない紗世を見て、元春のほうが慌てた。元はと言えば、自分の妻が紗世に喧嘩を売ったようなものなのだ。万一にも彼女の身に何かあったら、弟に合わせる顔がない。
結局、城まで直談判に来た紗世であったが、そこで再度、蕗女と激しい口論になり、はっきりとした決着を見ないまま時間だけが過ぎていった。その間、元春は家臣の一人に、早馬を飛ばして隆景のもとへ行かせたのだが、生憎、隆景は元就に招ばれて安芸吉田の郡山城に登城しているとの報告が返ってきた。
元春の側近がそうやって東西奔走している間にも、蕗女の紗世に対する罵倒は痛烈を極めている。といっても、九割九分が蕗女の言いがかりにも似た罵詈雑言で、紗世はぐっと唇を噛み締めて堪えていた。蕗女に比べると背も低く、全体的に小柄な体格の紗世は、母親に怒鳴られている幼子のようにも見える。
普段は口を挟まない元春であったが、途中からは理不尽な言い掛かりの前に、完全に黙して耐えている紗世の姿があまりにもいじらしくて胸を打たれ、
「蕗女よ、それは言い過ぎなのではないか」
ついそんな言葉が口をついて出た。
蕗女には鋭く睨まれ、紗世からは縋るような視線を同時に向けられる。怒りと悲しみの、二人の対照的な表情に、元春は心が大きくぐらつくのを感じた。
紗世を庇わねば…と咄嗟に思ったことが、自分でも意外であった。
「元春どのはこの女を庇い立てするのですか!?」
妻の耳障りな声が、元春の心を逆撫でする。ますます、紗世のほうを守らねばと思った。
「先ほどから聴いておるが、紗世どのには何の落ち度もないではないか。そなたが箸の上げ下げすら気に入らぬと、いちいち難癖をつけているようにしか俺には聞こえん」
それを聞いた蕗女は呆然とした表情で、初めて自分を批判した年下の夫を見つめていた。元春自身、妻の言い分を否定したのは初めてだと、言い終えてから気付いた。改めて、そんな自分の行動に愕然とする。
(これでは、紗世どのに好意を抱いているようではないか…)
蕗女は暫く元春を睨み付けていたが、やがて踵を返すと大きな足音を立てて部屋を出ていった。既に夜の遅い時刻である。彼女を追う侍女の声が人気のない廊下に響いた。
部屋に残された紗世は、蕗女がいなくなって一気に緊張が解けたのか、へたりとその場に座り込んだ。元春は一瞬、気を失ったのかと勘違いして、慌てて近寄った。
「紗世どの、大丈夫か」
「あ、はい…」
思わず手を伸ばしてその小さな背中を支えた。髪や首筋から焚き染めた香の良い香りが立ち上る。
「御方のことは、本当に申し訳ない。此方からも詫びる故、どうか赦してやってくれぬか」
軽く頭を下げると、紗世は慌てて居住まいを正し、「元春さま、どうかお顔を上げて下さいまし」と懇願するように言った。
「紗世も夜分遅くに押しかけ、新庄の御方様だけでなく元春さまにも醜聞をお聞かせしてしまい、申し訳ありませぬ」
原因は相手方にあるにも関わらず、潔く両手をついて平伏する紗世の姿が、元春にはたまらなく愛おしい。
「顔を上げて下され。紗世どのが謝ることは何もない」
優しく言って、そっと紗世の肩に手を乗せた。顔を上げた紗世の、艶やかな黒瞳と視線が合う。何か言おうとしたのか、薄く開いた唇は熟れた果実のように赤く、心臓が出鱈目な鼓動を刻む。これが隆景の嫁でさえなければ、雰囲気に任せて接吻くらいはしただろう。いや、隆景の嫁とはいえ、一度くらいは……と、逸る心を懸命に抑えて、肩に置いていた手をゆっくりと背中に回した。
(これくらいなら罰は当たらないだろう)
自分でもどういう理屈なのかわからず、内心苦笑する。が、とにかくそのまま離してしまうには惜し過ぎた。
「元春さま…!?」
腕の中で、紗世の体が強張る。それから蚊の鳴くような声で「離して…」と哀願するのが聞こえた。
「どうか、少しだけ……」
「おやめ下さい…誰の目に留まるかわかりませぬ」
「いや、もう夜も遅い。皆寝静まっておる」
「だからといって、そんな…」
彼女は必死に抵抗したが、元春に手を放す意志がないことに気付くと、されるがままに身を任せた。その頭上に、言い訳のように、
「今だけ、このままで…」
そっと呟いて、元春は紗世を抱く腕に力を込めた。自分の衣服に紗世の香りが移るのも構わず、貪るように抱き締めた。

「もう夜も遅い。今宵は泊まって行かれよ」
名残惜しげに紗世の体を離して、元春はそう告げた。
「いえ、帰ります」
着物の襟を正して、紗世はか細いがはっきりとした口調で答える。
蝋燭に照らし出された頬は蒼白く、濃い心労の翳がありありと診てとれる。
ただでさえ険しい山道を一人で歩くには神経を使うだろうに、そこで城主の妻と口論になり、挙句の果てに城主にいきなり抱きしめられたとあっては、その心中は察するに余りあった。
「しかし一人で夜道を歩くのは危険でござる。隆景は父上の傍にあり、兄上と談合の最中故、紗世どのを迎えに来るのは早くとも明日の昼頃になるという。せめてもう少し、この城内で過ごされよ。夜が明けたらこの元春がお送り申そう」
「そんな…元春さま自ら送って頂くなど恐れ多すぎまする。どうか紗世のことは捨て置いて」
「いや、それはできぬ。それに今回の一件では此方に非がある。大切な奥方の身を一晩無断でお預かりしたのだ。隆景にも一言詫びねば」
そう言われると、紗世には反駁のしようがない。
押し問答の末、空が白み始める頃、元春が城まで送っていくことにした。
供の者は二、三名しかおらず、しかも二人と離れて歩いているので、傍から観れば元春と紗世の二人きりに見えないこともない。
元春よりも頭一つ二つ分小さな紗世の横顔は人形のように美しく、彼は何度も我を忘れて見惚れた。
「申し訳ありません、元春さま。女同士の諍いに巻き込んでしまって」
朝靄にけぶる畦道を並んで歩きながら、至極申し訳なさそうに面を伏せて彼女が言う。
元春は「お気になさるな」と短く答えただけで、後は言葉が続かない。体じゅうに紗世を抱きしめた時の感触がまだ色濃く残っていて、頭の芯が熱を持ったように痺れていた。
蕗女と結婚して十数年、他の女性にこんな感情を抱いたのは初めてであった。

城門の前まで来ると、心配しきった様子の侍女衆が飛び出してきた。きっと寝ずに待っていたのだろう。誰も皆眠たげで、腫れぼったい瞼をしている。そんな彼女たちに二、三言葉をかけながら、紗世は傍らの元春を振り仰いで、
「どうか隆景さまが帰って来られるまで中でお寛ぎ下さい」
と言った。侍女衆も頷いているが、元春は鄭重に断った。
表向きは、城に戻ってやるべき仕事があるという理由だが、本心を言えば、これ以上紗世と一緒に居て、自分の感情を抑えておくのはあまりにも辛い。紗世が残念そうな顔をしてくれたのがせめてもの救いだと、自分に言い聞かせるようにして、供の者が後ろから曳いてきた愛馬に飛び乗った。
「隆景にくれぐれも宜しくお伝え下され」
「はい」
紗世はしっかりと頷く。それ以上顔を見ていると一緒に引き返したくなるので、慌てて馬腹を蹴った。
夏の朝の生温い風が体に纏わり付き、時折ふわっと紗世の着物から香った残り香が鼻先を掠める。
その度に胸の奥に鈍い痛みが走るのを感じて、人はこんな情動を恋だと呼ぶのだろうと、敗北感にも似た気持ちで思った。

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