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行き着く先は


今日も家臣が揉めている。
沼田小早川家の当主である繁平は盲目の為、政務は全て重臣達に任せざるを得なかった。ゆえに、彼らが口論をしていても、止められるだけの材料を持ち合わせていない。
繁平の妹で、まだ十三歳の紗世には、合議の度に聞こえてくる男達の大声は怖かった。
(この先我が家はどうなるのだろう――)
襖を数枚隔てていても聞こえてくる怒声に身を縮めながら、胸の内に湧き上がってくる不安を抑えずにはいられない。
「今日も疲れた…」
長時間に渡る合議の後、弱々しい嘆息とともに部屋に戻ってきた兄は、紗世に向き直るなりそう言った。永遠に開く事のない瞼の端に、隠し様のない疲労が滲んでいる。
「お疲れさまで御座います」
侍女に持って来させた茶を勧め、彼は一口それを啜ると、先ほど紗世が思っていたのと同じ不安を兄も口にした。
「この先、我が家は一体どうなるのか…」
何も答えられずに黙っていると、一つ溜息をついて続ける。
「先日、毛利元就どのの御三男、隆景どのが竹原小早川家の当主になられたことは、紗世も知っておろう」
「はい」
隆景がまだ徳寿丸と呼ばれていた頃に竹原小早川家の養子となり、先日、先代の興景が亡くなったのを機に跡目を継いだことは、沼田小早川家の誰もが知っていた。
「とても聡明なお方で、家臣の信頼も厚いそうな。それに比べ、我が沼田小早川は…」
紗世には兄の言わんとすることがわかっていた。
重臣達の対立により家臣団は分裂し始め、もはや当主繁平の手に負えるような状況ではない。できれば竹原小早川家と同様に、沼田小早川家も隆景に治めて貰えないだろうか……。
何度も、兄に聞かされてきた提案である。
しかし家臣達はその要望を決して聞き入れないだろう…ということで二人の意見は一致し、同時に溜息をつくのだった。
……と、いつもなら二人が顔を見合わせて苦笑し、そこで話は終わるのだが、今回は違う。近習の一人が控えめに繁平を呼んだ。
「殿、竹原の隆景様がおみえです」
噂をすれば何とやら…で、ちょうど隆景本人が訪ねてきたらしい。
紗世は二、三度見かけた隆景の端正な容貌を思い出して、微かに心臓の鼓動が跳ねるのを感じた。と同時に、小袖は着古している所為でどこかみすぼらしく見え、こんな格好で対面するのかと思うと、居た堪れない気持ちになる。
しかし目の見えない兄の傍から離れるわけにはいかず、二人は揃って隆景の待つ客間へと向かった。


「隆景どの、お待たせして申し訳ありません」
「いやいや、前以て来訪を告げずに参ったのは私のほうですから」
隆景はそう言って、柔らかな微笑を紗世にも向けた。
「紗世姫をお見かけするのは久方ぶりですが、健やかであらせられましたか」
「は、はい…っ!」
勢いよく返事をしたが、耳朶まで赤くなっているのがわかる。何度か遠目に見かけたことはあるが、面と向かって話したのは初めてかもしれなかった。落ち着いた声と物柔らかな雰囲気が端麗な容姿と相俟って、紗世の心の琴線を揺らす。
紗世の父は幼い頃に亡くなっており、兄以外の男性といえば家臣達しか知らずに育った。勿論、好感の持てる人物もその中にはいたが、隆景に抱いた感情はまた別のものである。幼いながらも、それを何と呼べば良いのかは知っていたが、叶わぬものだとわかっていながら認めるのは怖い。
「繁平どの、些かお疲れのようにお見受け致しますが、いかがなされたのです」
紗世はその言葉ではっと我に返った。確かに、兄は傍目に見てもわかるくらいに憔悴していた。城内の深刻な不和が、彼を悩ませているのだろう。
普段なら、身内の恥と曖昧に誤魔化す繁平だったが、そろそろ限界だと感じたのか、城内の状況を包み隠さず隆景に報告した。
「お恥ずかしながら…私の力が足りないが故に、家臣団の間の亀裂が目立ち始めてきています。沼田小早川家では、遅かれ早かれ内紛が起こるかと…」
隆景は冷静な表情で聞いている。二人の間に緊迫した空気が流れ、紗世は高揚していた気持ちが一気に冷めていくのを感じた。事態はそこまで深刻になっているのだ。
「かくなるうえは隆景どのに、この沼田小早川家も相続して頂きたい。さすれば自分は出家し、近くの寺でひっそりと暮らしていくつもりです……」
「そんな、滅多なことを仰せられるな…」
繁平が本気で言っているのだとわかると、流石に隆景も困惑した声を出した。
「いや、悩み抜いた末の結論でござる。隆景どの、ご一考願えぬか」
額に脂汗を滲ませ懇願する兄を見ていると、紗世も胸が痛くなる。ただでさえ目が見えず、不自由な生活を送っているだけに、彼には早く楽になって貰いたかった。
だが同時に、兄が当主の座を退くということは、紗世自身の身の置き場にも困るのだということに気付き、戦慄に小さな体を震わせた。


夜、紗世は布団の中でぼんやりと、今後のことを考えていた。
隆景がこの沼田小早川家も継いでくれれば一番安心なのだが、それなのに素直に喜べないのは何故だろう。
(もし隆景さまが沼田小早川家を継いだら、紗世は一体どうなるのかしら…)
兄は出家して寺に入るというが、自分も彼に付き従うしかないのだろうか。尼になって年齢以上の長さの余生を送る。それは紗世にとって、あまりにも寂しい少女時代の終焉であった。
まだ恋だってしていない…と思い至った時、同時に昼間の、隆景の涼やかな所作が脳裏に呼び起こされる。
隆景は紗世より五つ年長だと聞くから、婚約している相手がいるか、或いは既に結婚しているのかもしれない。確認したわけでもないのに、勝手に想像しては軽く、失恋にも似た気分を味わっていた。
(あんなに素敵な殿方だもの。きっと毛利本家に連なる綺麗なお姫様がお城で待っているのだわ…)
重たい吐息をついて、寝返りを一つ。
もし隆景が沼田小早川家を相続したら、竹原小早川家と併せて、領内の人事も大幅に改められるだろう。居城には奥方様が一緒に入るだろうから、紗世はその城の女中にでもして貰えないか頼んでみよう…と本気で考えていると、いつの間にか眠りに落ちていた。


繁平の嘆願が利いたのか、隆景の沼田小早川家相続は現実のものとなりつつあった。
反対する家臣は意外と少なく、この調子だと早々に決着がつきそうだ。
相続の手続きもあってか、隆景は前にも増して足繁く、沼田の城へ足を運んだ。彼に度々会えることは、紗世にとっては勿論喜ばしいことなのだが、その分だけ別れの時が近づいているような気がして複雑な心境であった。
隆景はそんな紗世の心中など露知らず、最近では兄の繁平がおらずとも、二人きりで物語りなどをしている。
「珍しい菓子が手に入ったので、紗世姫に」
と、可愛らしい和菓子を貰った時は、ふと、
(奥方様にはあげなくていいのかしら?)
と大人びた詮索をした紗世であった。
その一方で、兄は着々と出家の準備を整えている。
「お兄様がお寺に入られたら、紗世も付いてゆかねばなりませぬか」
一度そう訊ねたら、兄は寂しそうに笑って、
「そなたがどこか行く宛てがあるというなら、無理強いはせぬ」
とだけ答えた。


「行く宛て…」
以来ここ数日、紗世は口の中でその単語を反芻している。
行く宛て…はないが、できれば隆景の近くにいたかった。
二人で過ごす時間が増えれば増えるほど、慕情は募るばかりである。兄の体面を気遣ってか、年下の紗世に接する態度さえ折り目正しいが、時折一線を越えた愛情を感じることがあった。
例えば、それまで「紗世姫」と呼んで当たり障りのない話をしていたのに、不意に「紗世」と呼び捨てにして髪を撫でられたりする。
京土産だといって可愛らしい髪飾りを貰ったり、自分が沼田小早川家を継いだ後の政略についても、紗世に説明したりする。
勿論、細かい話はしないが、出ていく人間に話す内容にしてはいささか重要過ぎる気がしないでもない。
そんな変化に戸惑いつつも、日に日に隆景の沼田小早川家相続が近付いてきていて、紗世も身の振り方を考えねばならなかった。
ある日、紗世は隆景と並んで縁側の下を歩きながら、思い切って口を開いた。
「あの、隆景様…」
「何だ」
この頃になると、二人の間の雰囲気はすっかり砕けたものになっている。紗世は気まずくなったら、冗談にして紛らわせるつもりだった。
「もし沼田小早川家を相続されたら、紗世はどこに行けば良いのでしょう」
隆景にしてみれば、そんな質問は全く予期していなかったのだろう。一瞬、その場の空気が強張ったのがわかった。紗世は言葉を続ける。
「兄上は、紗世に行く宛てがあるなら、お寺に付いてゆかなくとも良いと仰いました。ですが、紗世には行く宛てはありませぬ。もし隆景様のお側で使って頂けるなら、それが本望です。どうかお願い致します」
侍女だなんて大それたことは言いません、台所仕事でも何でもやりますから…と、一気に捲し立てたが、言い終わった瞬間、自分の発言があまりにも恥ずかしくなり、隆景の顔をまともに見られなかった。
(私、何てことを…)
二人の間に沈黙が落ちた。どれくらい経ったろう。やがて軽い咳払いが聞こえて、紗世はおずおずと顔を上げる。隆景は必死に笑いを堪えようとしている様子であったが、どうやらそれも限界のようで、満面の笑顔に変わった。
「何を言い出すかと思ったら……」
「た、隆景様、私本気で…!」
紗世はまさか笑われるとは思っておらず、真っ赤になりながら必死に反駁する。
「隆景様や奥方様付きの侍女だなんて言いませんから、同じお城の中にいられるなら何でも…」
あまりにも紗世の様子が一生懸命でいじらしくて、隆景は思わず声を上げて笑った。
「紗世、私にはまだ室はおらぬ」
「えっ…」
今度は紗世が驚く番であった。兄の繁平にも早世した妻がいたから、当主には皆、正室がいるものだとばかり思っていたのだ。
「紗世姫」
一頻り笑った後、隆景は微笑んで五つ年下の少女を見つめた。
「この隆景と夫婦になるのは否か」
静かに、優しくそう問われて、紗世は一瞬、夢を見ているのかと思ったほどである。
「紗世が、隆景様の、お嫁さん…?」
「そうだ。実は、毛利の父上やそなたの兄、繁平どのにはもう話してある」
今回の沼田小早川家相続に関して、隆景…というか毛利家に小早川家を乗っ取られるのではないかと、この相続を快く思わない家臣もいた。
それならば、繁平の実妹にあたる紗世を自分が娶り、沼田小早川家の血脈を絶やさないようにすれば…と隆景が提案し、話が纏まったのだ。
「だが決して、そんな政略上の理由だけで、紗世姫を我が室に迎えるのではない」
愛しているからだよ、と隆景は噛んで含めるようにして幼い紗世に言い聞かせた。
ふわりと抱き締められ、欲しかった言葉の数々が柔らかな雨のように体へと降りかかる。耳元で囁かれる声の、何と甘美で心地良いことか。
彼女は嬉し涙に濡れた顔を隆景の胸に埋め、一言一句聞き逃さず胸に刻んだ。
「じゃあ紗世は、ずっと隆景様のお傍に居られるのですね」
声には隠しようのない喜びの色が滲んでいて。
隆景が笑顔で頷いてやると、紗世の顔に幸福そうな笑みが花開くように広がった。

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