小説 | ナノ

キャラメルマキアートで曇り空を割って


(ツイてないなぁ…)

取引先から職場へと戻る途中、私は今にも雨が降り出しそうな空を見上げ、盛大な溜息をついた。
最近、何をやっても上手く行かない。
仕事はトラブルが頻発するし、プライベートでは自転車を盗られたり、クレジットカードを紛失したり。
こんな時、優しい彼氏でもいれば少しは慰められるのかもしれないが、付き合っている男は全く頼りにならない。
仕事で問題が起きたと言えば、私の能力がないのではないかと責められ、自転車を盗られたと言えば注意が足りないと苦言を呈される。
そんな言葉が欲しくて話しているんじゃない、と言い返せば、そこから不毛な喧嘩が始まるのだった。

(神様、一体私が何をしたというのでしょうか…)

灰色の空をぼんやりと眺めているうちに、視界が微かに滲んでくる。
辛かった。
全て放り出して自宅に引き籠るか、どこか誰も私を知らない場所へと逃亡したい気分。
が、現実にそんなことが許される筈もなければ、私にそんな大胆な行動を起こす勇気もなく、仕方なく会社への道をトボトボと歩いていくのだった。

「お、ノアじゃねーか」

コンビニの前を通りかかった時、ふと名前を呼ぶ声が聞こえて顔を上げた。
声の主はドーソンの青い制服を着た背の高い若い男。

「カイジ…」

彼と私は高校時代の同級生で、同じように、卒業と同時に上京した。
彼はそのまま就職し、私は大学へと進学したが、何故か今も飲み友達のような付き合いが続いている。

「仕事帰りなのか?」

私がスーツ姿であることに気付いたらしく、屈託のない笑顔で「お疲れ」と言葉を続ける。

「ううん、今からもう一回職場に戻るとこ」

力なく首を振ると、カイジもつられて表情を暗くする。

「そうなのか…」
「うん、早く家に帰りたいんだけどね…。一応、報告書を書かなきゃいけないから」
「大変なんだな、OLって…」

そう独り言のように呟いた後、「あ、そうだ…」と何か思いついたように、カイジは一度店の中へと引き返した。
ものの一分も経たない内に戻ってきて、

「これ、やるよ」

とカップに入ったコーヒー飲料を差し出す。

「え、くれるの?」
「ああ。新製品らしくて、バイトの俺らも貰ったんだけど、どうもこういうのは苦手でさ…」

渡されたカップには『キャラメルマキアート』と、見るからに甘そうな名前が記されている。

「あぁー…、こういうのって甘いものね。私は好きだから嬉しいけど」

そう答えると、カイジの表情がぱっと明るくなった。

「ノアが好きなら良かった。疲れてる時は甘いモノがいいって言うし、良かったら飲めよ」
「ありがとう」

カイジは相変わらず、にこにこと笑っている。

(あぁ…)

私はじんわりと眦に浮かんだ涙を悟られないように、ふっと視線を逸らした。
何に対しての涙なのかは、自分でも上手く説明が付かない。
嬉し涙なのか、今日一日の疲れがどっと押し寄せてきて辛いのか…。

「ノア?」

急に黙り込んだ私に、カイジが怪訝そうな声を投げた。
頬を、一筋の雫が伝う。

「おいおい…どうしたんだよ……」

手にしていた業務用モップを放るように手放し、あたふたしているカイジの姿が可笑しい。
自由になった手のやり場に困っている様子も、隙あらば体に障ろうとしてくる自分の彼氏に比べると何だか新鮮だ。
目の前で泣いている女の子をここぞとばかりに抱き締めることもしない、そんなカイジが不器用なのは相変わらずなのだなぁ…と感じられて、愛しかった。

「ごめん、ちょっと疲れてたみたいで……」

頬に零れた涙を指先で拭いながら答えると、彼は心配そうに眉根を寄せて、

「あんま無理すんなよ」

とぶっきらぼうに告げた。

「うん…」

私はコクリと頷いてから、もう一つの涙の理由も口にした。

「あとね…」
「ん?」
「嬉しかったの…その、このコーヒー…」

言わんとすることがピンと来ないのか、カイジは私の言葉に小さく首を傾げる。

「何ていうのかな…救われたの」
「救われた…?そんな、コーヒー一本で、大袈裟な…」
「ううん、本当に」

例えば、辛いことばかり重なって、もうどうすれば良いのかわからなくなった寒い日に、ふと誰かが温かなお茶と優しい言葉をかけてくれた時のような、そんな心境。
ずぶ濡れになって行き倒れそうに疲れている時に、誰かが差し掛けてくれる傘。
些細なことだけど、瞬時に心を温めてくれるもの。
この甘いコーヒーが、私にとってのそんなささやかな癒しだった。

「救われたのよ、本当に……」

周りから見たら滑稽だろうけど、私はそのカップに入ったコーヒーをそっと両手で胸に抱いた。
これを飲んで、もう少しだけ頑張ってみよう。

気付けば雲の隙間から茜色の光がアスファルトに差していた。
厚ぼったい空が次第に晴れていくように、私の心も少しだけ軽くなって。

「ありがとね、カイジ」
「まぁ、ノアが元気になったって言うんなら、良かったぜ」

困ったような、照れ隠しのような笑顔を浮かべるカイジに、「今度また飲もうね」と言い残して背を向けた。
仕事は辞めるわけにはいかないけれど、あの彼氏とはもう別れよう…。
そんなことまで考えながら、私は背筋を伸ばして、オフィスへと向かう足を速めた。
鞄の中ではお守りのように、コーヒーのカップが揺れている。

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