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忘れられない夜のこと


薄く雪の積もった道を踏みしめるようにして、足を進めていた。
気を抜けばすぐにでも涙が瞼から零れ落ちそうで、下唇を噛み締める。
せめて家に帰り着くまでは泣くものか。
寒さと緩んだ涙腺の所為で、何度も洟を啜りながら、私は今日一日の間に起きた出来事を反芻してみる。
厄日。そう、今日はまさに厄日としか言い様のない一日だった。
先ず、朝いつものように出勤したら、後輩がとんでもない仕事上のトラブルを起こしていたことを、同僚から知らされた。
大事な取引先の連絡先が入っているデータを、ファイルごと削除してしまったのだ。

『おかげで、イチから調べ直さなきゃならなくなったってわけよ』

同僚は、そう言って空に向かって紫煙を吐いた。
私は煙草は吸わないが、彼女に付き合って外の喫煙所へと来ている。
つられて見上げた冬の空はどんよりと曇っていて、まるで私たちの心の中をそのまま投影したかのようだった。
ガラス窓を隔てた向こうでは、件の後輩の女子社員が課長にこってりと絞られている。
私たちは黙ってその光景を眺めていた。
これからさせられる彼女の尻拭いを考え、暗澹たる気持ちになるのを隠せないままで。


だけどまだ、会社のトラブルの処理は同僚が一緒なだけマシだったのかもしれない。
昼休みも殆どないまま働いて、終業間際にトイレに席を立った時、ふと、ポケットに入れていた携帯電話を取り出した。
学生時代の同級生から、メールが一通入っている。
何気なく開いた私は、次の瞬間、さぁっと血の気が引いていくのを感じた。


――こないだの日曜日、ノアの彼氏が他の女の子と歩いてるのを見たよ。確かめたほうがいいんじゃないかなぁ?

慌てて、彼氏にメールを打った。見間違いだと、否定してくれることを期待して。
けれど、返信は私の希望とは正反対のもので、それどころか、更に追い討ちをかける内容が記されていた。


――ノアごめん。僕は彼女のこと本気なんだ。だから別れてくれ。


ばかにしている。どいつもこいつも。
携帯を折ってしまうのではないかと思うくらい、一瞬にして怒りが湧いた。
頭の中がはきとした感覚を持って熱くなるほどの激しい憎しみ。
それが彼氏に対してなのか、私から彼を奪った見知らぬ女に対してなのか、はたまた面倒なトラブルを持ち込んだ後輩に対してのものなのかはわからない。
だけど私はその時確かに、殺意にも似た怒りを感じたのだ。



それから終業までのことは覚えていない。
とにもかくにも彼氏を問い質さなければと、彼のマンションへと向かうため、自宅とは逆方向の電車に乗った。
けれど辿り着いた先の彼氏のアパートには、新しい彼女と思しき女がいて、まるで初めから自分が恋人で、私が邪魔者であるかのような態度を隠そうともしない。
奥から出てきた彼にしてもまた同様で、その事実は私を強かに打ちのめした。
少しの間とはいえ、この男と気持ちが通じ合っていた時間が確かにある筈なのに。
二人の前では、私は完全に闖入者で、煙たそうな、迷惑そうな視線に耐え切れず、私は結局言いたいことの一つも言えないまま、元来た道を引き返した。



自宅の最寄り駅で降りた頃には、ただでさえ早い冬の夜がすっかり深まっていて、いつの間に振り出したのかわからない粉雪が、地面を白く染めていた。
グラニュー糖のような雪が、コートの肩に落ちては溶けて、小さな水玉模様を作っていく。
足が重い。制服のある職場だから、夜には雪になるという天気予報に従って、通勤はぺたんこのムートンブーツにしていたのはせめてもの救いだ。
それでも、じんじんと痺れたような感覚はある。
たった一日のことなのに、肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。
早く温かいお風呂に入って眠りたい。その一心で、私は足を動かし続ける。
自分の住むアパートまであと五十メートルというところでふと顔を上げると、乳白色の外灯の下、人が立っていることに気が付いた。
長い脚。紫煙をくゆらす横顔に見覚えがあり、私はあっと声にならない驚きを洩らす。

「アカギさん…!」

何ということだろう。厄日としか言い様のない日に、昔の恋人と再会するなんて。
しかも、その昔の恋人が、これまでに見せてくれたことのないような柔らかな表情で私に笑いかけてくれるなんて――。
煙草を地面で踏み潰すように揉み消して、アカギさんはゆっくりと私のほうへと歩み寄った。微かに驚いているような、揶揄っているような笑みを浮かべて。

「どうしたの、ノア」

それはこっちの台詞…という言葉は、しかしついに宙に放たれることはなく、私は自分でも驚く程簡単に泣くのを我慢するのをやめていた。
職場の給湯室で、地下鉄の駅で、彼氏のマンションで、電車の中で……家に帰るまでは泣くものかと、あれほど誓ったはずなのに。

「アカギさん…」
「ん?」

倒れこむようにしてしがみ付いた私の背中に、アカギさんの両手が触れる。こんなに優しく抱き締められたことがかつてあっただろうかと思うほど、愛しげに。

「ノア、寒かっただろ。体が冷えてる」

くつくつと喉の奥で低く笑いながら、アカギさんは私を抱くようにして、鍵は?と聞いた。
私は何の疑問も感じずにコートのポケットから鍵を出すと、アカギさんはごく自然に受け取ってドアを開ける。そこには一片の不自然さもない。まるで毎日同じ日常が繰り返されているかのようだ。

「ノア、何かあったのか」

家の中に入ってもまだ泣き止まない私から鞄を取り、マフラーと手袋を外し、コートを脱がせる。私は幼い子供に戻ったみたいに、されるがままになっていた。
泣きじゃくることは想像していた以上に気持ち良く、次から次へと涙が溢れてきて高い嗚咽が洩れる。
部屋の真ん中に突っ立って泣く自分の姿が、非常に滑稽なものであろうことはわかっていたが、それでも座ることすら思い付かずに、そのままの姿勢で号泣し続けた。
号泣。アカギさんと付き合っていた時は、毎晩のように繰り返した行為だというのに。
それが辛くて別れた人の前で、けれど私は他の人が原因で同じように泣いている。

「あのね、アカギさん」
「うん?」
「今日ね…」

アカギさんは勝手知ったる様子で二人分のコーヒーを淹れ、居間へと戻ってきた。
私を膝の上に乗せ、片方の腕だけで私を羽交い絞めするようにしながら、器用に炬燵の中に足を突っ込む。
温かでほろ苦い液体が喉を滑り落ちていくと、やっと人心地ついた。
私は今日一日の顛末を、アカギさんの胸に凭れ掛かったままぽつぽつと語り始める。
後輩がとんでもないミスを犯し、その対応に奔走したこと。彼氏に棄てられたこと。
アカギさんは丁寧に相槌を打ちながら聞き終え、「それは災難だったな」と私の頭をポンポンと撫でた。
災難。確かにこれは災難だ。自分の全く与り知らないところで起きた、防ぎようのなかった事象。

「本当に、災難だったわ」

そう言ってアカギさんに笑いかけた時には、私はすっかり落ち着きを取り戻していた。
感情の昂ぶりは消え、先程とは打って変わって、凪のように穏やかな気持ちが心を満たしている。
アカギさんは返事の代わりに、再度、私の髪を撫でた。うっとりとするような心地良さに、私は瞳を閉じる。

「そういえばアカギさん、今日はどうしてうちに来たの?」

半ばまどろみながら尋ねると、アカギさんは普段と全く変わらない口調で答えた。

「久し振りに、ノアの顔見たくなってさ」

それだけだ、と。
アカギさんがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。言葉通り、顔を見たくなっただけ。
けれど、それでも全然悲しくはなかった。
縒りを戻したいと思わないわけではないが、少なくとも別れた当時のように、険悪な雰囲気が漂っていないだけでも前進している気がする。

「私もアカギさんに会えて嬉しかった」
「そうかい」
「うん」

頬をぺたりとアカギさんの厚い胸板にくっつけた。煙草とコーヒーの入り混じった香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
幸福で懐かしい感覚だった。かつて毎日のように味わった感覚。
そして彼と別れた時、二度と手に入らないのではないかと絶望したほど、それは私に安心をもたらしたものだった。
今日…この夜の出来事がきっかけで、私たちは昔のような関係を取り戻せるのだろうか。否定の言葉が怖くて、今の私はその問い掛けを口に出せないけれど。



その晩、アカギさんは泊まっていくと言った。
厄日だとばかり思っていた一日が、どうしようもなく幸せな一日に変わってゆく。
私はこの冬の日を忘れないだろう。
一つの恋が終わり、願っていた恋が始まった、この冬の夜のことを。

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