小説 | ナノ

アクアリウムの恋


私を初めて見た人は必ず、一様に困ったような顔をする。
私のことを、何と呼べば良いのかわからないのだ。
尤も私自身でさえ、自分の立場を表す的確な表現が見つからない。
愛人、情人、恋人、或いは人間の姿をしているだけの愛玩動物…即ちペット。
それならば、銀二さんはさしずめ飼い主といったところだろうか。
与えられた豪奢な部屋の中、すべきことを何も持たない私は、そんな事を考えている。





銀二さんと初めて会ったのは、弁護士だった父が亡くなった時だ。
家族には仕事の話をしない人だったので、それまで父が所謂裏の仕事を請け負っていたことは知らなかった。
母は父より早く他界しており、私は葬式に弔問客として訪れた銀二さんからその話を聞いた。

『高瀬先生には、生前、お世話になりましてね…』

分厚い香典袋を受け取りながら、私はそんな事よりも、この先自分がどうやって生きていけば良いのかわからず途方に暮れていたのを覚えている。
父が危篤との報せを聞きつけるや否や押し掛けてきた親族達が、遺された莫大な資産を巡って、葬式の席で早々と言い争いを始めていた。
小娘の私には当然太刀打ちできる類のものではなく、下手をすると実の娘なのに一円も貰えない…なんていう事態も起こりかねなかったのだ。
一人っ子で頼れる兄弟姉妹も居なかった私は、気が動転していたのか、事もあろうにそれを銀二さんに相談した。
彼が土地や株を転がすのを生業にしていると知ったのは、全ての遺産を手に入れた後だった。

『ありがとうございます、平井さん。父が遺してくれた株や不動産のおかげで、慎ましく暮らしていけそうです』

夏の盛りのある昼下がり、相続の手続きなど面倒を見てくれたお礼にといって、銀二さんを老舗の割烹に招待した。
この食事が終われば、もう二度と会うこともないだろうと考えていた私は、何て愚かだったのだろう。
料理が済み、食後にささやかな甘味が出たところで、銀二さんが口を開いた。

『ノアさん、貴女が相続した土地などの不動産や有価証券を私に預けてくれませんかね』
『この資産を平井さんに預ける?どういうことですか…?』

怪訝そうに聞き返した私に、つまりこういうことですよ…と、銀二さんは説明した。
曰く、私が受け継いだ資産はこの先まだまだ値段が高騰する見込みのあるもので、自分としてはずっと欲していた権利である。だから、それらを全て自分に託し、運用させて頂きたい……。

『でも、これがないと私は生活していけません』
『その点はご心配なく。ノアさんの生活には何の不自由も生じないように、責任を持って取り計らいますよ』

私が住む所も、生活していく為に必要な費用も、全て負担すると銀二さんは言った。
無論、これまでと同等、もしくはそれ以上の生活水準を維持していけるだけの費用を出すという。担保だと考えてもらえればいい。後の収益を考えれば、これでも安いくらいだ……と。
私には拒否するという選択肢はなかった。
親戚一同との遺産争いの中で、銀二さんの辣腕ぶりをまざまざと見せ付けられておきながら、どうして断ることなどできるだろうか。





そこから奇妙な生活が始まった。
とはいうものの、住む場所が変わっただけで、日々の暮らしぶりはそれまでと何ら変わりはない。唯一違いがあるとすれば、銀二さんが私の日常の中にいることくらいだ。
あの夏から季節が何度か変わって、互いの呼び方がより親しい方向へと変わった。
確かに二人の間の雰囲気は親密さを増したのだが、それでも私たちの関係は恋人同士と呼べるものではないだろう。
銀二さんは週に二、三回、この部屋を訪れる。一緒に食事をし、お酒を飲んで、暫くすると帰っていく。泊まっていこうとはしない。アルコールが多分に入っても一糸乱れぬ態度で接されると、流石にこちらが寂しくなってくることがある。
そして自分は、愛人というのともちょっと違うのだろうなと考えるのだった。
だって小説やドラマに出てくる愛人の女というのは、そうやって週に数回やってくる男に抱かれるというのがお約束だからだ。
銀二さんは滅多なことがない限り、私に指一本触れようとはしない。
だけど行動や言動に全く愛情が感じられないわけではない。
観賞用の熱帯魚のようなもの…というのが、私の立場を表すのに一番しっくりくる表現なのかもしれなかった。





そんなことをつらつらと考えていたある日、いつものように銀二さんがやって来た。
手土産を携えているのも毎度のことだ。

「尼さんみたいな生活をしているノアに」

と、菓子や高いワインを持ってきてくれる。

「そんな生活させてるの、銀二さんじゃないですか」
「ハハ、それもそうか」

口調は明るいものの、声音にはいつになく疲労の色が滲んでいた。
そういえば、会うのは一週間ぶりであることを思い出す。
これまで出張などない限り、どんなに間が開いても三日だったのに、こんなに会わなかったのは初めてかもしれない。
どんなに歪な関係でも、一年以上親密に付き合っているとそれなりに情が沸くものだ。
始めの頃は、そういった感情を抱いても良いのか戸惑い、必要以上に余所余所しくなったりもしたが、今では適当な距離感を保つことができている。

「そういえば、お会いするの久し振りですよね。どこかへ行ってらしたんですか?」

今日の土産は珍しい酒だった。ウイスキーのような琥珀色をしている。
氷を浮かべたグラスに注いで、ソファにどさりと腰を下ろした銀二さんの前に差し出しながら、私も同じものを作って向かい側に腰掛けた。

「いや、東京にいたよ。今抱えているヤマがちょっと厄介な事になって、それで走り回ってた」
「そうだったんですか」

こんな時、私は何と応じれば良いのかわからない。
大変ですね、というのも空々しく聞こえるような気がする。だが、だからといって深く詮索するわけにもいかない。
不意に、私がもし銀二さんの恋人なら…という仮定が浮かぶ。
それは自分でも驚くほど唐突に、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような感覚を伴ってやってきた。
私がもし彼の恋人だったら、もっと優しく言葉の一つや二つをかけられるかもしれないのに……。
いや、言葉だけではない。温かい食事と風呂と寝床を用意して待っていることもできるのではないか。あまり無茶をしないで下さいね…と、その手に労わりを込めて触れることができるのではないか、と。
けれど今の私には、そんな権利はないように思われる。今夜はそれが無性に悲しい。

「ノア、この一週間何してた」
「特に何も…。ずっとお家の中にいましたから」
「どこかに出掛けたりしないのか」
「今度、知り合いの交響楽団の演奏会に行こうかとは考えてます」

銀二さんは、「そうか」と一つ頷いただけで、誰と一緒に行くのか、その楽団とはどういう繋がりなのかなんて尋ねたりしない。
思えば知り合ってからこれまで、私の交友関係―特に異性関係がどうなっているのかについて、彼は一度たりとも質問してこなかった。
私に彼氏がいないことなど、とうに知り抜いているかのようにだ。
しかし同じように、私も銀二さんの女性関係を聞き出そうとしたことはない。恋愛についての話題は、二人の間でいつのまにか暗黙の了解のうちにタブーとなっている。
私はふと、その均衡が早く破られればいいのにと強く願った。いっそ、ここで自分から問うてみても良い。

「私は銀二さんにとってどんな存在なのですか?」

その一言を、舌の上で何度も何度も転がしてみる。
だけど確固とした答えを聞くのが怖くて、結局口に出せず仕舞いだった。
苦い気持ちでグラスの中の温くなった液体を喉に流し込みながら、その時私は初めて、自分が銀二さんのことを好きで好きで仕方がないことに気付いたのである。

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