小説 | ナノ

喧嘩両成敗


――またか。
庭に打ち捨てられた黒焦げの冊子を見つけ、片倉小十郎影綱は隠すことなく盛大な溜息をついた。
誰の仕業かは既にわかっている。
問題はその“誰か”が、老臣である自分よりも格上の、文句をぶつけられない人物であることなのだった。


「誰かおらぬか」
侍女が控えの間として使っている部屋の前に立ち、襖の向こうに声をかけた。
「はい、何でございましょう」
若い女が顔を覗かせる。声の主が小十郎と知って、彼女の顔にさっと緊張の色が走った。
と同時に、その表情からは「またか…」と、先ほどの自分と全く同じ心情を抱いているのが伝わってきて、小十郎は思わず苦笑を洩らす。
釣られて、女も微かに唇の端を曲げた。
「また…ですか」
「そうだ。今日は、昨日せっかく書き写した戦記が燃やされておった」
趣味で書写していたものなので、別に失くしたからといっても、さほど問題になるような書類ではない。
だが、寝食を惜しんで書き上げたものを一瞬にして灰にされると、流石に怒りが沸く。
そんな小十郎の心中を推し図ってか、並んで廊下を歩いている侍女が睫毛を伏せた。
「……幸紀姫さまにも、困ったものです」
彼女が誰にともなく、ぽつりと呟いた。小十郎は肯定もしないが、決して否定もしない。
「先日は、注意した女中の着物の中に蛙が入れられていましたし…」
侍女のぼやきは止まらない。小十郎はただ黙って耳を傾けているだけである。
彼とて本当は、一緒になって愚痴を言い合いたいのだ。
だが、言えない。言ったらこの家に自分の居場所はなくなるかもしれないから。
「幸紀姫さまにも、困ったものです」
先程と同じ台詞を、侍女がもう一度繰り返した。全くその通りだと、小十郎は心の中で大きく頷く。
幸紀姫さまと呼ばれる幼女が伊達の家に嫁いだところから、彼らの受難が始まったのだ。


幸紀姫さま――こと幸紀は、つい先日、小十郎の主である伊達政宗の正室となった、まだ齢十四の少女である。
しかし体が小さく、まだ一桁の年齢といっても通りそうだし、政宗や小十郎といると親子にしか見えない。だから誰もが、奥方様とは呼ばず姫様と呼ぶ。
彼女は公家の出身で、朝廷から直々に差し出された贈り物のような存在となっていた。
嫁入りの話が出た時には、是が非でも我が家にと、諸大名がこぞって名乗りを挙げたらしいのだが、選ばれたのは何故かここ――伊達家であった。
その理由となっている噂は様々であるが、いずれにせよ、この姫君の存在が、朝廷側にとってはあまり歓迎されるものではないことは確かなようだ。
できるだけ遠い地に…ということで、奥州の我が家が選ばれたと考えるのが妥当という空気が、城内に広まり始めていた。
時折使いの者がやって来ては、主の政宗と密やかに会談をして、すぐに帰ってゆく。
後で何を話していたのか聞きたい衝動に駆られるが、人払いがしてあるのであまり聞いてはいけないことなのだろうと思い、政宗のほうから言い出さない限りは、小十郎も尋ねないようにしている。
幸紀姫自身、やはり辛い過去があるのかもしれない。彼が見る限りでは、笑顔のない子供である。
この城に来て三月以上経つが、彼は一度も、この少女が笑っているところを見ていない。
普段は日がな一日縁側にぽつりと座り、ぼんやりと庭を眺めて過ごしている。
何を考えているのか、その表情から汲み取ることはできない。
そういえば、声を聞いたことも殆どないような気がする。
隣を歩く侍女にそれとなく尋ねると、
「私も幸紀姫様がまだ朝廷におわした頃より長く仕えておりますが、笑顔は見たことがありません」
とのことだった。
そんな経緯もあり、家の者は皆、腫れ物に触るように彼女に接している。
小十郎にとっては主で、幸紀姫にとっては夫でもある政宗が、この曰くありげな少女に関してどう考えているのかは、老臣の彼にもわからない。
ただ、決して煙たがっているわけではなく、寧ろ積極的に可愛がっているのは誰の目にも明らかだった。
「幸紀姫、幸紀姫」と事ある毎に呼んでは、無表情な子供に物語など聞かせてやっている。
多分、書物が燃やされたと告げ口しても、政宗は幸紀姫に何も言わないだろう。
以前、小十郎が大事にしている茶器に落書きされた時も、政宗はこの幼妻を叱らなかった。
「他愛ない子供の悪戯よ。許せ」
そう言われてしまうと、もう文句は言えない。
確かに、拭けば落ちる程度の落書きだったから、ぐっと堪えたのであるが。
しかし今回は燃やされたのだ。大したことない書き物だったから良かったようなものの、大事な密書などであったらどうするつもりなのか。はたまた、火など扱って、火事でも起こしたらどうするのか。
やはり今日こそは殿にきつく言って貰わねば…と、小十郎は鼻息荒く主の居室へと向かう。
侍女も早足で彼に続いた。


「――で、儂にどうしろと」
真昼間に、小十郎と幸紀姫の侍女の一人が慌てて駆け込んでくるから、何事かと思えば……。
二人の報告を聞き終えた政宗は、脇息に肘をついたまま、嘆息交じりにそう答えた。
「ですから、幸紀姫さまに、金輪際このような嫌がらせをするのは止めるよう、殿の口から伝えて下さいよ」
「私たちがいくら注意しても、幸紀姫さまは聞いて下さらないのです」
侍女が弁解するようにそう添えた。
政宗は遠くを見るようにして、妻になったばかりの少女のことを考える。
困っている二人には申し訳ないが、彼は幸紀姫に愛着を感じていた。
傍から見れば、厄介事を無理矢理押し付けられた形となったこの婚儀であるが、何不自由なく安全な朝廷での生活から放り出されて、荒事が日常茶飯事の戦国武将の生活に投げ込まれた彼女の心労は、並大抵のものではないだろう。
それでも泣き事や文句の一つも言わずに過ごしている姿が、政宗の瞳にはいじらしく映った。
些細な悪戯で気が晴れるなら、それくらいは大目に見てやりたいというのが彼の本心である。
「今回は戦記の写しだったから良かったようなものの…。これが我が家や敵の動向に関わるような書類であれば一大事ですぞ」
「そんな大事なものなら、幸紀の手の届かぬ所に置いてある」
「しかしそれ以外にも、家宝などに悪戯されたらどうします」
「幸紀は賢いから、心配は無用じゃ」
小十郎と侍女は、まだ納得が行かないという表情で政宗を見ている。
三人の間に、しばし沈黙が落ちた。
政宗は、実は二人から注進される度に、幸紀姫には事の真偽を確かめているのだ。
一度目の、小十郎の大事な茶器に落書きした理由は、彼が幸紀姫が大事に使っていた簪を踏んで折ってしまったのに、知らぬ顔をして通り過ぎたから。
二度目の、侍女の着物に蛙を入れたのは、その侍女が陰で幸紀姫の悪口を言っていたから。
幸紀姫は、政宗が聞けば何でも素直に答えた。
折れた簪を見つめて溜息をついていたので、新しいものを買ってやったら、どことなく嬉しそうにしていた横顔を思い出す。つまり、根拠のない嫌がらせをやっているわけではないのだ。
小十郎とこの侍女は、それに気付いていないらしい。
(はてさて、今回は何をやらかしたのか…)
当人には言えないが、政宗は心の内で既に、小十郎のほうに非があると決めつけている。
何かがあったのだ。幸紀姫の機嫌を損ねる何か、が。
「小十郎、そのほうは、心当たりがないのか」
「心当たり、ですか…」
そんなものはあるわけがないと、言葉に出さずとも顔に書いてあった。
政宗は内心苦笑しつつ、懸命に思い当たる節を探している家臣の姿を眺める。
「そなたも、幸紀に仕えているのであれば、心当たりの一つくらいあっても良かろう」
「も、申し訳御座いませぬ…」
侍女にも、多少のあてつけを込めて言う。
彼女は羞恥でさっと頬に朱を上らせたが、面を伏せたまま、めまぐるしく思案しているようであった。
と、そこに人の気配がして、障子に小さな影が映る。
見覚えのある影絵に、政宗は思わず口元が綻んだ。
「幸紀姫か」
誰何の声をかけると、愛らしい顔がちょこんと覗いた。
あっ…と、小十郎と侍女に関しては天敵を見付けたような表情をしたが、幸紀は二人を無視して、頼りない足取りで政宗のいる上座に近寄った。
脇息に凭れかけていた体を起こし、腕を伸ばして幼妻の小さな体を抱き上げる。その姿は夫婦というよりも親子なのだが、大人しく抱かれている幸紀は誰の目から見ても愛くるしい。
公家の血を引いているだけあって顔立ちに気品もあり、濡れたような黒瞳で凝と見つめられると、小十郎も侍女も何となしに胸が騒いだ。
「幸紀、あの二人は何故そなたが機嫌を損ねたのか、見当が付かぬらしい」
政宗は幸紀を赤子をあやすようにして、可笑しそうに喉の奥で笑っている。
見当が付かないということに対してか、幸紀の表情が僅かにむっとしたものに変わったが、やがて果実のような唇を小さく動かした。
「幸紀の、お団子……」
その言葉を聞いて、思わず声を上げたのは小十郎と侍女のほうである。
二人には、彼女の言う「お団子」に心当たりがあった。
「あの二人が、そなたの好物を取ったのか?」
幸紀はその問い掛けに大きく頷く。政宗は、どういうことだ…と、家臣に目を向けた。
「幸紀姫さまが仰っているのは、多分、京の珍しい和菓子のことではないかと…」
侍女が説明する。何でもそれは、ほのかに蜜柑の味がする柔らかな蒸し団子で、先日、幸紀の実家から暑気見舞いにと届けられたものらしい。
幸紀はこの辺では手に入らないその菓子をいたく気に入っており、自室に恭しく積み上げて飾っていた。
時間をかけてゆっくり食べていこうと思ったのだろう。
だが、侍女間の連絡に行き違いがあり、幸紀が大切に保管していたその和菓子は近隣の小大名が寄越したものとして認識されていた。
だから侍女は、小十郎ら伊達家の重臣にも、惜しげなく配ってしまったのだった。
因みに近隣の小大名が持ってきた菓子も、受け取った際に、幸紀姫の件の和菓子の近くに置かれており、侍女の誰かが取り違えたものと思われる。
幸紀姫は帰室して菓子がなくなっていることを知り、大きな衝撃を受けた。
その隣に、同じような包装紙に包まれた菓子が堆く積まれていたから、侍女らが間違ったのだとは勘付いたのだが、当の本人たちは気付いておらず、謝りもしない。
それで腹いせに、小十郎が大事そうに書き写していた戦記の一部を燃やしたのだった。
幸紀にしてみれば、配った侍女も食べた重臣も皆同じであった。
「なるほどのう…」
政宗は話の一部始終を聞き終えた後、愛しそうに幸紀姫を抱えたまま、納得したように呟いた。
腕の中で幸紀姫は、思い出すだけでも悔しいのか、唇を固く噛み締めている。
小十郎と侍女は、自分達がそんな過ちを犯していたとは知らず、血の気の引く思いであった。
「幸紀姫様、本当に申し訳ありませぬ。侍女衆にもきつく言い聞かせておきます故…」
女主人に冷たく睨まれて、侍女はひたすら平身低頭するのみである。小十郎も額の汗をしきりに拭っていた。
三人を見渡して、政宗が取り成すように言う。
「幸紀、そなたも小十郎が大事にしている戦記を燃やしたのなら、喧嘩両成敗ということで如何か」
幸紀姫はその言葉を聞き、政宗とその家臣たちを交互に見比べてから、渋々といった体で頷いた。
「代わりと言っては何だが、新しい菓子なら儂が買ってやろう」
これから一緒に城下まで買いに行くか…という政宗の申し出が余程嬉しかったのだろう。
幸紀姫の顔に、これまでに見たことのないような明るい表情が広がる。
(この少女は、こんなに美しい表情ができたのか…)
小十郎も侍女も、花開く瞬間のようなその変化に思わず見惚れ、自分の主君が何故この幼妻を溺愛しているのか少しだけわかるような気がした。

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