小説 | ナノ

籠の中の青い鳥


在全を初めて見た時、僕は自分の祖父という男を思い出した。
僕からノアさんを奪った、あの憎い男。
実の母親の記憶はない。元々体の弱い人で、僕を産むと同時に亡くなったそうだ。
金の有り余っている家だから、母親がいなくても育児に困ることはなかったらしい。
僕に付けられた、たくさんの家政婦と家庭教師。
ノアさんも、その中の一人だった。彼女は音楽の家庭教師として雇われていたのだ。
染めてもないのに栗色の、緩くウェーブのかかった長い髪。綺麗だけど、どこか寂しさを感じさせる笑顔で笑う人だった。
音楽の授業は頻繁にはなかったけれど、僕は解り過ぎて退屈な勉強の合間を縫っては、ノアさんに会いに行った。

「標くんは頭が良いのね。将来はきっと、世界を動かすような大人になるのね」
「わからないよ、そんなこと」
「ううん、標くんならそうなるわ。だってあなたみたいな賢い子供は、他にいないもの」
「………」

他の大人が言ったらなら冷笑したかもしれないそんな台詞も、ノアさんが言えばご神託のように聞こえるから不思議だ。
彼女はよくそう言って、いつもの寂しそうな微笑を浮かべて、僕の頭を撫でていた。



その寂しげな笑顔の理由を知ったのは、つい先日のことだった。
あの日は午後から保護者会があり、僕は午前中だけの授業を終えて、早々に学校から帰ってきたのだ。
屋敷の門をくぐろうとした時、中から祖父の罵声が聞こえ、反射的に立ち止まる。

「あのような、卑しい身分の女に誑かされおって…!」

続いて、「きゃっ」という甲高い悲鳴が聞こえ、僕は慌てて家の中へと駆け込んだ。
靴紐を解くのさえもどかしく、蹴るようにして脱ぎ捨てる。
廊下に面したつきあたりの部屋から、どさっという鈍い音がしたかと思うと、人間の体が飛び出してきた。
強かに腰を打ちつけて、再度、小さく悲鳴が上る。

「あっ…」
「ノアさん…!?」

僕は目の前に投げ出された細い体の傍にしゃがみ込み、ノアさん、ノアさん…と何度も名前を呼んだ。

「し、標くん…?」
「うん。それよりもどうしたの、ノアさん…」

ぬっと黒い影が頭上を覆う。
ノアさんの肩に手をかけたまま顔を上げると、般若のような祖父の顔があった。

「標、その女に関わるでない」
「どうして…」

祖父の後ろに隠れるようにして、青ざめた父の顔がある。
ふと、嫌な予感が頭を過った。

「この女はの、お前の父親を誑かしてこの家を乗っ取るつもりじゃ」
「ち、違います…」

ノアさんがか細い声で反駁しようとすると、祖父は持っていた杖を振り上げる。
後ろでそれを必死に止めようとする父親。

「標、お前の新しい母親となる人はもう決まっておる。にも関わらず、この女が…」
「やめて下さい、お父さん…!」

息子の制止を振り切って、祖父は杖を手にしたままノアさんを追い掛けようとする。

「ノアさん…!」

僕は咄嗟に、ノアさんの体に覆い被さった。背中に激しい痛みが走り、祖父が杖で打ったのだとわかる。

「っ……」
「標くん…!?」
「大丈夫だよ、ノアさん」

祖父は、自分の杖がノアさんではなく僕に当たったことに気付き、慌てて医者を呼ぶ。

「標、その女から早く離れるのじゃ。お前はこの家の大事な跡取り息子…怪我でもしたら大事……」
「ならノアさんにも暴力を振るうのはやめてくれないか」
「し、標…!?」
「ノアさんは僕の大切な人だ。傷付けて欲しくない」

僕にこれまで一度も反抗されたことのない祖父は、酸欠の金魚のように口をパクパクさせていたが、言葉が見つからないとなるとやがて口元を震わせながら僕とノアさんを一瞥して去って行った。
鬱積した怒りの矛先は父へと向かっているようで、怒声が遠く聞こえる。

「もう大丈夫だよ」
「あ、ありがとう…」

ノアさんは体じゅうが痛むのか、ぎこちなく表情を歪めて言った。
血の気を失った唇は微かに震えるだけで、言葉を紡ごうとはしない。
黙り込んでいる彼女に、僕はやや躊躇った挙句、意を決して訊ねた。

「父さんとの間に、何かあったの?」

目に見えてわかるほど、ノアさんの肩がビクリと跳ねる。
僕は、自分の勘の鋭さがつくづく嫌になるくらい、それで全てを察した。
彼女は途切れ途切れに、僕の考えを裏付けしていく。
曰く、父とノアさんは長く恋愛関係を続けており、今回、新しい再婚相手を祖父に決められそうになったのを機に、二人の関係を打ち明けた。
無論、ノアさんは名家出身ではないから、祖父が猛反対し、先程のような暴挙に出たのだという。
僕はそれを聞いて、自分でも驚く程ショックを受けていた。
それは、祖父が反対したことに対するものなのか、ノアさんと父がそういった関係であることに対してなのか、わからないのだけれど。
ノアさんは自嘲気味に笑うと、間もなくこの家を出ていくことになるだろうと僕に告げた。
確かに、祖父が彼女をこのまま雇っておくわけがない。
だけどそうなると、僕はノアさんに会えなくなってしまう。優しくて温かくて、もし母親という人間が存在するなら、きっとこんな雰囲気の人なのだろうと思わせてくれるようなノアさんに。

「家同士が釣り合わないから別れなきゃならないなんて、そんなの間違ってる」
「間違っていることなんて、世の中にはたくさんあるのよ」

白くて冷たい手が、僕の頬をそっと撫でた。
ならば何故、悟ったような口を利きながら、そんな寂しそうな顔をするのだろう。

「僕はノアさんと離れたくないよ」
「私だって…できることならずっと、標くんと一緒にいたいわ」
「ノアさん…」

その時、彼女の黒い瞳が不意に揺れて、真珠のネックレスが切れたように、大きな涙の粒が頬を滑り落ちた。
もしや…と、僕はとても自分に都合の良い仮説に行き当たる。

「さっき、標くんが庇ってくれた時、嬉しかった」
「だって、ああでもしないとノアさんが怪我をするところだったから…」
「ありがとう」

そう言って微笑みかけてくれたノアさんの肩口を両手で掴んで、僕は子供の無邪気さを装って問いかけた。
こういう時は、子供というのは本当に便利だ。無知な振りをしてどんな残酷な質問だってできる。
尤も僕がやれば、そんなのは演技だと簡単に見破られるかもしれないのだけど。

「ノアさんは、僕と父さん、どっちが好き?」
「え…」

即答できずに生まれた沈黙。彼女のような純朴な人を罠にかけるなんて、僕は卑怯なのかもしれない。だけど確かめずに別れることだけはどうしてもできなくて。
上目遣いに見つめていると、先に目を逸らしたのはノアさんだった。
困惑したように視線を彷徨わせた後、彼女はふっと表情を緩ませて、

「標くんがあの人よりも先に生まれていれば良かったのにね」

と今にも泣き出しそうな声を出す。

「なら、待っててよ、ノアさん…。僕が歳を重ねるまで、もう少し」


僕たちはそれから、一度だけ唇を重ねた。初めての口づけは冷たい絶望の味がして、僕はノアさんがこの世から消えてしまうのではないかと不安になり必死にその体にしがみ付いた。いっそ貪りつくしたい程だったのに、それ以上手を伸ばそうとすると、ノアさんは笑顔だが無言で首を横に振って、僕の手を押し留めたのだった。


世界を変えたいと強く願う時にいつも思い出すのは、あの翌朝、荷物を纏めて屋敷を出ていくノアさんの消え入りそうな背中と、悲しげな眼差しだ。

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