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ないものねだりの二人


見張りの兵が持つ松明の炎が、夜の闇に揺らめいている。
川で手早く体の汚れを落としてきた私は、彼らに一礼して、本陣に足を踏み入れた。
満天の星空の下、橙色の柔らかな光が辺りを温かく照らし、兵士達はみな寛いだ表情で、仲間と酒を酌み交わしている。

「まだ勝利と決まったわけではないのだから、ハメを外し過ぎぬようにな」

そう窘める家老の声もまた穏やかで、陣中に漂う雰囲気は既に勝利後のそれであった。

「幸紀、そなたもこちらへ来て呑まぬか」

私は名前を呼ばれて、振り返る。
少し離れた所で、自軍の将が手招きしていた。

「兼続様」

思わず華やいだ声を上げてしまった自分が恥ずかしくなり、慌てて口元を引き締める。
早足で駆け寄れば、兼続様は「そんなに慌てずとも、肴は逃げぬぞ」と、可笑しそうに笑って。
その笑顔に、胸の中に蝋燭の炎を灯したような温もりを覚える。
見惚れてしまいそうになるのをぐっと堪え、私は膨れっ面を作って見せた。

「もう、人のこと、食い意地が張ってるみたいな言い方して」
「や、これは失礼。年頃の女子には禁句だったかな」

そうやって軽口を叩き合う私たちを、周りの男たちが笑顔で眺めている。
今回借り出された兵士の中に、女は私ひとりだった。
本来は忍びである私に与えられた任務は、偽の密書を敵の家中に送り込み、疑心暗鬼を起こし、内部崩壊を誘発させること。
他家からの使いを装い、書状を渡すことなど造作もなかった。
結果、それを受け取った相手の城主は、家臣達に不要な疑惑を抱き、内部の関係が脆弱になってしまう。
そこを我が上杉軍が槍を以て一突きし、敵城は呆気なく陥落することとなったのだった。

「まぁ、機嫌を直して呑め、幸紀。此度はそなたの活躍が大きかったのだから」

笑いながら言って、兼続様が私の盃に酒を満たす。

「我が殿も、感謝しておられる」
「そんな…大したことじゃないですよ」

しみじみと言われて気恥ずかしくなり、つい口調が素っ気無くなってしまった。

「――して、今後はいかがしましょう」

傍に控えていた老齢の家臣が進み出でて、小声で問う。

「明日の早朝、城下に火を放て」

そう命令する兼続様の声音は、先程まで私を揶揄っていた人間とは別人のように冷たい。
果たしてどちらが本性なのかは、長く仕えていても私には未だ判らなかった。

二言、三言交わしながら酒で唇を湿らせていると、伝令の一人が、

「兼続様、これを」
と、一通の書状を手渡してきた。
その内容が今回の戦に関係のないものであることは、薄桃色の和紙から私にも判別できる。

「何だ……」

訝しげだったその声も、紙を見て、次第に優しさを帯びてくる。

「ほう、奥方様からですかな」
「どうやらそうらしい。遅くとも明後日には帰ると伝えてあるのに……」

言葉とは裏腹に、手紙を広げる兼続様の表情は柔らかい。
気にしないようにと努めていても、自分の顔が強張っていくのを感じる。

奥方様の、可憐な笑顔が脳裏に浮かんだ。
華奢な体躯は、戦いとは無縁の生活を送っている証拠のようで、私はその姿を前にするといつも、少なからず衝撃を受ける。
多くの家臣に傅かれ、兼続様の寵愛を一身に受けながら、皆に大切な宝物のように扱われている同じ年頃の女性がいるという事実。
その存在は、忍びとして裏の世界を生きる身であることを重々承知している私にさえ、嫉妬を抱かせるには充分であった。

「奥方様はいかがされてますかな」
「今日は京へ買い物へ行ったと書いてある。気に入った簪を見つけたと、上機嫌でござるよ」

老臣と兼続様が、声を合わせて笑う。

「幸紀にも土産を買ってきたそうだ。城に帰ったら、御方の所に寄ってやってくれ」

そう言って、彼は薄桃色の和紙を私にも見せる。
流麗な文字が連ねられた手紙は、私への追伸で締め括られていた。

『幸紀にも土産を買っております故、帰城したら私の所に来るようお伝え下さい』

奥方様は、何かと私を気遣ってくれる。
きっと、忍びの任務が過酷なことを知って、同じ女性として私の身を案じてくれているのだろう。
それはとても有り難く、素直に喜ぶべきことなのだけれども、口をついて出たのは可愛げのない一言。

「奥方様ったら、お気楽なんだから…」

冗談ぽく、わざと唇をへの字に曲げた。
厭味にだけは聞こえないように。

兼続様は、本心はどうかわからないが、明るく笑って頷いてくれた。

「全く幸紀の言う通りだな。こちらはどうやって敵城を落とすか四苦八苦しているというのに」

聡明な人だから、言葉の裏に隠された本音なんて見抜いているに違いないのに。
けれど私は、そのおかげで少しだけ、救われるのだ――。





「幸紀、幸紀」

数日後、自国へ引き上げて、改めて春日山城に登城した私を鈴の音のような声が追い掛けてくる。

「奥方様」

振り返ると、私よりも頭一つ背の低い彼女が、両手にたくさんの包みを抱えて立っていた。

「お土産があるって、殿に出したお手紙に書いてあったでしょう」

忘れていたのですか?と不満げに唇を尖らせる様は、同性の私から見ても愛らしい。

「忘れているわけないじゃないですか。ですが、これから私は殿に謁見せねばならないのです」
「まぁ、幸紀ったら…帰ってきたばかりなのにお忙しいのですね」

万華鏡のようにころころと表情が変わる、可愛い人。それが兼続様の奥方様だった。
忙しいといえば途端に心配げに顔色を曇らせて、本気で私の事を案じてくれているのだと、胸が熱くなる。

「ごめんなさい、私は戦のことはわからないから…」

無意識に繰り出される言葉は、私の心の表面を少なからず引っ掻いていくけれど、住む世界が違うのだから仕方ない。

「そんな、謝らないで下さいね。そもそも、戦場の駆け引きに長けているような奥方様だったら、兼続様も困りますって」

冗談に紛らわせて言ってやると、彼女はほっとしたように笑顔を見せた。

「まぁ、酷い言い様だこと。でも幸紀、後で必ず私の部屋に寄るのですよ」
「はい、わかってます」
「幸紀の好きな、舶来物の菓子も買っているのですからね」
「はいはい」

名残惜しそうに踵を返し、元来た廊下を歩いていく彼女の背中を暫く黙って見送っていた。
やがて角を曲がって姿が見えなくなってから、私は本丸へと向かう。





「幸紀、御方に会ったか」

私を出迎えた兼続様は、開口一番そう言った。
戦場にいる時は、こちらから話題を振らない限り、決して夫婦生活の事など話さない人だけど、きっと心の中ではいつも、自分の帰りを待ち侘びているであろう女性(ひと)のことを考えているのだろう。

「会いましたよ。後でお部屋に立ち寄らせて頂くことにしました」
「そうか、それなら良かった。最近、戦に続く戦で留守にしていることが多いからな。御方も寂しがっておる」

その時ふと、先刻の彼女の悲しげな表情が脳裏を過った。

『――私は、戦のことはわからないから…』

もしかするとあの人のほうも、私を羨んだことがあるのだろうか。
私がいつもそうしているのと、同じように。

「いくら何でも、戦場に連れていくわけにはいかぬからな」
「奥方様は、戦場に行きたいと仰るのですか」
「ああ。御方は幸紀が羨ましいのだそうな」
「私が?」
「そうだ。男勝りに戦場を駆けるのを見て、憧れるのだろう」

兼続様は屈託なく言って、のんびりと笑っている。私は笑顔で応えながら、住む世界が違うのに同じ人を愛してしまったもう一人の女性を、初めて近くに感じていた。
自分の愛する人と戦場で生死を共にする女に対して嫉妬に身を焦がす夜が、彼女にもあるのだろうか。
つまらない事を疑って鬱々と過ごす時間が、あの可憐なお姫様にもあるのだろうか。
花のような容貌を思い浮かべながら、一矢報いたような、少しだけ溜飲が下がるような、そんな複雑な感情が芽生えていくのをどうしても止められないことに些か戸惑う。
けれど目の前の人にはそんな歪んだ心の内を悟られたくなくて、私はいつものように、一切の感情を殺して一部の隙もない笑顔を作った。

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