小説 | ナノ

怪談


季節は、夏。
北のほうに位置する越後でさえも、うだるような酷暑の日々が続いていた。

「暑いなぁ…。こうも暑いと動く気にもなれん…」

この日も朝から兼続の屋敷に入り浸っていた慶次は、庭に背を向ける形で寝転び、心底鬱陶しげな声を出した。
蝉の鳴き声と共に燦々と降り注ぐ真夏の太陽の光が、御簾を下ろしている部屋の中にも届いてきており、まるで蒸し風呂のようだ。
風通しを良くしようと女中衆が何度も試みたが、外は生憎の無風であった。

「全くだな」

慶次の声につられて、兼続も文机から視線を上げる。
懐から扇子を取り出して仰いではみるものの、生温い風が微かに沸き起こるだけで役に立たない。
口を開けば、暑い、の一言しか出てこないことはわかっているので、二人とも暫く無言で虚空を眺めていた。



静寂を割いたのは、

「殿」

という、涼やかな一声。鈴のような声の主は、数ヶ月前に嫁いできたばかりの兼続の妻・幸紀である。
部屋の外に控えていた家臣が御簾を上げてやると、彼女は微笑を浮かべてその美貌を覗かせた。

「幸紀…」
「与板のお城にいるのも退屈で、ついここまで来てしまいました。お邪魔でしたでしょうか」

夏物の薄手の小袖に身を包み、幸紀は小首を傾げてみせる。
兼続が答えるよりも先に、慶次がさっきとは打って変わった晴れやかな声を上げた。

「これはこれは、幸紀どのではござらぬか。いやなに、我々もちょうど退屈しておったところ故、邪魔などとはとんでも無い。なぁ、兼続殿」

慶次の背中越しに文机に向かう夫の姿を認め、幸紀はやや不安げな眼差しを向ける。
仕事の邪魔をしたのではないかと、気を揉んでいるらしい。

「慶次殿の言う通りだ。仕事も一段落したところで、茶でも頂こうかと思っていたところでな」
「それなら良いのですが…」

兼続がそう答えると、幸紀は漸く安堵の表情を見せた。花のように可憐な笑顔が零れ、二人の男はその度に胸の奥に甘やかな痛みを覚える。
部屋の外に声をかけて、よく冷やした茶と幸紀の好きそうな菓子を運ばせた。ほんの僅かではあるが、体が冷えて心地良い。

「こんなに暑い日は、冷たい茶に限るねぇ」
「うむ…」

美味そうに茶を啜る慶次に頷きかけながら、兼続はつと傍らに座る幸紀に視線を滑らせた。
自分たちのような剛健な体つきの者の中にあると、妻の小柄で華奢な体躯は儚げで頼りなく、守らねばならない存在であることを一層強く意識させる。
そんな夫の心中を知る由のない彼女は、慶次の他愛もない話に熱心に耳を傾け、時折明るい笑い声を上げていた。

「ところで、幸紀どのは最近城下町で流行っているこんな話を聞いたことはござらぬか?」

会話が一旦途切れ、兼続ははっと我に返る。
前方の慶次に視線を戻すと、彼は何やら面白い事を思いついたと言わんばかりに、幸紀にそう問いかけた。
その瞳は悪戯を企んでいる無邪気な子供のそれと大差なく、兼続は思わず微かな苦笑を洩らしてしまう。

「まぁ、どんなお話でしょう」

幸紀もいくら人妻とはいえ、まだ年端のいかない娘なので、ひっそりと交わされる類の話が嫌いなわけではない。
慶次の言葉にぱっと表情を輝かせ、話の続きを促している。
慶次は、兼続に悪戯っぽく目配せして、いきなり声を潜めた。

「怪談でござるよ」

あ、と兼続は口を開きかけた。幸紀は、この手の話は大丈夫なのだろうか。

「まぁ、怪談」

幸紀も驚いたような表情を一瞬見せたが、たちまちいつもの笑顔に戻ったところを見ると、さして心配する必要はないのかもしれない。
兼続も慶次のほうを見て続きを促す。
芝居っ気を交えて慶次が語った話のあらすじは、簡単に言うと、晒し首の幽霊が出るという内容のものであった。

「首だけが宙に浮いて、フワフワと漂っているんだそうな。そして標的を見つけると、世にも不気味な顔でニタリと……」
「きゃっ」

尾を踏まれた子犬のような声に続いて、兼続の腰に、ドスッと鈍い衝撃が走る。

「え…」

声を上げたのは自分か慶次か……ふと傍らを見ると、幸紀の細い指が兼続の着物に食い込んでいる。
さっきの衝撃は彼女が抱き付いてきたからだと認識できたのは、数秒が経過した後だった。

「幸紀…」
「も、申し訳ありません…私ったら……!」

あたふたと顔を上げ、幸紀は俯いたまま体を離す。

「や、そんなに慌てなくとも…」

兼続のほうも、予期していなかった幸紀の行動に思わず鼓動を乱されてしまい、咄嗟にそんな台詞が口をついて出た。
「仲がよろしいことで」

互いに落ち着かない様子の二人を眺めて、慶次は隠さずにニヤニヤと笑っている。
兼続は一つ咳払いをし、慌てて体勢を立て直した。

「どこの誰が考えたかは知らぬが、肝を冷やすにはちょうど良い話でござるな」

なぁ、幸紀…と傍らに座る妻を振り向いた。彼女はぎこちなく微笑を浮かべて「ええ」と頷く。

「幸紀どの、いかがです。結構怖かったでしょう」

慶次が満面の笑みを向けると、幸紀は漸く体勢を立て直してゆったりと微笑み返す。

「そうですね」

一つ頷くとまた、普段通りの凛とした姿を見せた。
だが、まだ恐怖から醒め切っていないのであろう気配が兼続には伝わってきて、心配すると同時に、最愛の妻の知らぬ一面を見せられて面映くもあるのだった。





慶次はそれから更に一刻ほど喋って、夕刻には自分の常宿へと帰っていった。
それを機に自身も仕事に戻ろうと思い立ち、兼続は幸紀に先に与板城に帰るよう勧めた。

「此方はまだ仕事が残っている故、幸紀は先に与板の城に戻ったらどうだ」

普段ならあっさりと兼続の提案を受け容れる幸紀であるが、今回は珍しく首を横に振る。

「嫌でございます」

何故、と訊ねても、拗ねたようにそっぽを向いたままだ。
帰るといっても、春日山城と与板城は目と鼻の先なので、歩いたところで四半刻もかからない。
幸紀はよく、供を連れずに一人で自由に行き来していたし、今日だってそのようにしてこちらへ来たようだ。
兼続は、「疲れたなら与板に使いをやって輿を寄越そう」と提案したが、幸紀は頑なに首を振るばかりであった。
暫く帰る、帰らないの押し問答が続いたが、

「ならもう少し待っていて欲しい」

と、兼続が引き下がる形で決着が着いた。

(――はて、どうしたものか)

よもや、昼間の話が…という思いが脳裏をちらりと掠めたが、幸紀ももう小さな子供ではない。
まさかそんな事はないだろうと、自分の考えに首を振った。
しかしながら、違うとすれば何が原因か。

「埒が明かぬ……」

眉間を指で押さえながら天を仰ぎ、一旦、屋敷の女中衆に幸紀を託してから部屋へと戻った。
膨大な書類に間断なく目を通し、一段落して顔を上げた時にはすっかり外は夜の闇に包まれていた。

「お殿様…」

と、音もなく襖が開き、指をつかえた年嵩の女中の一人が顔を覗かせた。
そういえば、陽が沈む頃に幸紀の様子を伝えに来るよう、予め頼んでいたのだった。

「幸紀はどうしている」

別れ際になってもとうとう振り向いてくれなかった妻の横顔を思い出し、兼続は隠さず苦笑した。

(これまで幸紀に困らされたことなど一度もなかったな……)

思考を遮るようにして、女が口を開く。

「それが……」

長くこの屋敷に仕えている年配の女中も、兼続に向かって素直に苦笑して見せた。おや…と思いつつも、

「何かあったのか」

言葉の続きを促すと、彼女は、

「幸紀さまにお殿様には秘密にしておくよう固く言われたのですが…」

そう前置きしてから口を開いた。

「お昼に前田殿からお聞きした怪談が忘れられず、与板城の自室に一人でいるのが怖いからだそうです」

言い終えた時、女中は笑いを零さないように必死のようであった。
兼続も唖然とした後、弾かれたように笑い声を上げる。

「では、幸紀はあの晒し首の話を信じておるのか」
「どうやら、そのご様子で…。与板城にも幸紀様付きの侍女がおられるから大丈夫だと申し上げたのですが、お殿様がいないと安心できないの一点張りで……」
「それは……とんだ面倒を押し付けてしまったようで、かたじけない」

兼続が笑ったままそう告げると、女は「滅相もございません」と平伏さんばかりに頭を下げる。

「では、仕事も片付いたことだ。その怖がりなお姫様のところへ参るとするか」

兼続は文机の脇の灯りを手で消して、女中について部屋を出た。
案内された幸紀の部屋は、灯りをともしていても薄暗く、数人の侍女に囲まれていた彼女は、今にも泣き出しそうな表情で唇を引き結んでいた。

「幸紀、遅くなってすまない」

その子供っぽい一面に、兼続は思わず微笑して、幸紀の面前に進み出た。
彼女は一瞬、驚いたように目を瞠り、腰を屈めた夫に体当たりするようにして、その胸に顔を埋める。

「何だ、泣いておるのか」

その華奢な体を受け止めて、揶揄うように背を軽く叩くと、湿った声で「泣いてなんかいませんわ」と返ってきた。





「しかし、慶次殿の話を真に受けるとは……」

与板城への道すがら、供廻りの者に馬を引かせ、その上に幸紀を乗せて、兼続はのんびりと隣を歩きながら軽やかな笑い声を上げた。
妻はまだうっすらと鼻の頭を赤くさせて、「聞かれたのですね…」と、恨めしげに兼続を見ている。

「だって、いかにも出そうじゃありませんか」
「出たなら出たで、首ごとき、城にいる男たちがどうにでもしてくれよう」

仮にも、上杉家に仕える武士なのだから、皆、多少は腕に覚えのある者ばかりだ。
しかし幸紀は、それでも、と馬上から声を張る。

「それでも、私は兼続さまでないと、安心できませぬ」

きっぱりと、そこには一縷の迷いも感じ取れない口調で。
一思いに言った後で、幸紀がはっとしたように息を呑んだのがわかった。
一瞬、時が止まったように息を詰め、供の者が持っている提灯が月夜に彼女の横顔を照らし出す。
色白の頬が桜色に染まり、恥じらいを必死に隠そうとしている姿が、兼続の目にはさっきの台詞と相俟ってあまりにいじらしく映った。

「や、それは光栄でござるが……」

守ってやりたいと常々思っている相手に、こうやって頼りにされているのは嬉しいことだ…と、兼続は何となく胸の内が温かく満たされていくのを感じる。

(それにしても、何とも素直な……)

策謀渦巻く世界に生きてきたから、聞き慣れていない真っ直ぐな台詞。
胸を衝かれて微かに赤面すれば、熱を帯びた肌に一陣の涼やかな夜風が心地良かった。

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