小説 | ナノ

身を切るように愛した


彼女の住んでいるマンションに入ったのは初めてだった。
何の連絡もせず急に訪ねたことを、今になって少しばかり後悔し始めていたが、ここまで来て引き返すわけにもいかず、目的の部屋のチャイムを鳴らした。

「はい…」

チェーンの外される音がして、薄くドアが開く。
訝しげな顔を覗かせたノアに、数ヶ月前までの明るい面影は残っていなかった。
元々細かった体は更に痩せたように見えるし、頬から首筋にかけての線は痛々しい程に鋭くなっている。
だが、色を抜いたように白く陶磁器のように滑らかな肌は、本来の美貌を爪の先程も損なわせておらず、寧ろそこはかとなく漂う哀愁が、整った顔立ちを一層際立たせていた。

「よお…」
「原田さん……」

一切の感情を消した能面のような表情に、微かに驚きの色が走る。

「どうしたんですか、こんな所まで」

声はか細いが、想像していたよりははっきりとしていて、そのことにやや安堵した。
てっきり、弱り切って臥せってしまっているのではないかと思っていたから。

「渡したいモンがあって」

これ…と、ポケットから御守りの形に縫われた布袋を差し出した。

「何ですか?」

ノアは小首を傾げつつ受け取って、紐で結わえてある部分をするすると解いていく。
やがて、中から出てきた小さな灰色の塊を認めると、悲鳴にも似た声を上げた。

「まさか、これ……」
「そう……赤木の墓石の欠片や」

傍目にもわかるほど、彼女の小袋を持つ手が震えていた。

「赤木さんのお墓の欠片…?」
「金光に頼んで、ちょっと砕いてもろた」

お前に渡すために……とは言わずに。
本当は、彼女は赤木のことなんてもう忘れたいと思っているかもしれなくて。
そんな時に墓石の欠片を渡されても、却って傷付いたのではないかと危惧したからだ。

赤木をあんな形で失って、一番悲しんだのはノアだろう。
原田の見ていたところでは、赤木といる時のノアはいつも笑っていたし、赤木のほうも、あの男にしては珍しく、彼女を可愛がっていた。
無論、内実はどうだったのか知らないが、少なくとも他の女とは一線を画して扱っていた。
ノアとて、その微妙な差異に気付かぬほど鈍感な少女ではあるまい。

そんな彼女は、掌に載った墓石の欠片を放心したように眺めている。その表情からは、何を考えているのか露程も汲み取れない。

「ノア、今暇か?」

そう声をかけると、はっと我に返ったように顔を上げた。

「え…。あ、はい…」
「なら、ちょっと付き合え」

一瞬、断られるのではないかと身構えたが、ノアは素直にこくりと頷いた。

「上着を取ってくるので、ちょっと待ってて下さいね」

言い残して、パタパタと部屋の中へ駆けてゆく。
程なくして出てきた時には、ピンク色の可愛らしいコートを羽織っていて、それがいつも赤木と一緒にいる時に身に着けていた、見慣れたものだと気付いた時、時間が過去に戻ったような錯覚を覚えた。














「どこに行きたい?」

原田の部下が運転する高級車は、滑るように大通りを走っていく。平日の昼間ということもあり、道路は空いていた。
ノアは後部座席の端にちょこんと座って、ずっと窓の外を眺めている。
手には、墓石の欠片が入った御守り袋が、紐の部分を指に巻くようにして握られていた。

「海に……」

窓の外を流れる景色から車内へと視線を移したノアが、ゆっくりと口を開く。

「海に行きたいんです」

少し間隔を空けて隣に座っていた原田を、ひたと真剣な眼差しで見上げて言った。
その視線の、思いがけない強さに内心たじろぐ。

「冬の海なんか、寒いだけやろ」

風邪でも引いたら大変だからヤメといたほうが…と、異議を唱えたが、ノアは首を横に振り、有無を言わせぬ口調で返事をした。

「いいんです」

仕方なく、運転している部下に近所の観光名所となっている海岸の名を伝える。
ここから十分も走れば着くだろう。そう伝えると、ノアが今日初めて笑顔を見せた。

「ありがとう、原田さん」














「何で海なん?」
「小説とかによく出てくる冬の海ってどんな感じなんだろうって、いつも考えてて…。一度来てみたかったの」

本当は、赤木さんと来たかった。何でも、初めてのことをするのは赤木さんと一緒が良かった……。
勿論、口に出しては言わない。
だが、それが彼女の本音であることを、原田は知らないだろう。


「赤木さんとは、冬の海って来たことがなかったんです」

海岸に部下を待たせて、原田とノアは海岸へと降りた。頭上には灰色の雲が重く垂れこめていて、海風が強い。
激しい波しぶきが、時折堤防を越えそうな高さまで跳ね上がる。
ノアは気にする風でもなく、堤防に肘を載せて海の遥か遠くに視線を投げていた。

「ハワイには連れて行ってくれたんですけどね」

彼女の独白を、原田は紫煙を吹かしながら黙って聞いている。薄いカシミヤのコートの裾が、風にはためいてバサバサと音を立てた。

「赤木と、仲良かったんやな」

嫌味でも皮肉でも当てこすりでもなく、正直な感想を述べたつもりだったが、ノアは自嘲気味に笑う。

「そんなこと…ないですよ」

怪訝そうな表情を浮かべた原田に、

「多分、原田さんが思ってたほど、赤木さんと私、仲良かったわけじゃないと思う」

と付け足した。

「私は…私は赤木さんの事が本当に好きで好きで堪らなかったけど、赤木さんはどうだったのかな。私のことなんか、たくさんいる女の人と同じくらいにしか考えてなかったんじゃないかな…って今でも思うんです」

彼女のモノローグが、悲観的な方向へと転がるように傾いていくのに驚き、言下に否定した。
天真爛漫な印象を周囲に与えていたノアの意外な一面を垣間見た気がして、無意識の内に動揺したのかもしれない。

「そんなワケないやろ…」

ノアは泣き笑いのような表情で原田を見上げ、今にも泣き出しそうな声で呟いた。

「だといいんですけどねぇ……」

だからついムキになって言い返して、結果的には彼女を泣かせてしまったことになる。

「いいも何も…そうに決まっとるわ。自信がないなら、ひろや天にも聞いてみればええ。みんな、赤木にとってノアは特別やったって言うよ。俺が保証したる」
「ありがとう、原田さん…。そう言って貰えるだけでも充分だよ」

眦に浮かんだ涙の粒を指先で掬うように拭って、ノアは漸く明るい笑顔を向けた。
それからまた表情を消して、堤防の向こうを見遣る。海鳥が甲高い声で啼き、それに被さるようにして、潮騒の音が遠く聞こえた。

「赤木さんが亡くなってから、一緒にいた頃のことをずっと思い出してたんです」

ノアはぽつりぽつりと語り出す。返事を求めているわけではなさそうなので、黙って続きを促した。

「何で、あんなに辛い思いをしてまで、一緒に居たかったんだろう…って」
「そうは言うけど…お前いつも、楽しそうにしとったやないか」

――だから、自分があれだけ誘っても、終ぞ靡かなかったではないか。

そう言ってやりたいのをぐっと堪えて、彼女の話に耳を傾ける。
ずっと、誰かに言いたかったのだろう。鬱積していた感情を全て吐き出すかのように、一度堰を切った告白は、津波のような圧力を持って二人を呑み込んでいく。
まるで、眼前の海から本物の高波が襲ってきたかのような圧迫感さえ感じて息苦しい。

「勿論、楽しい時間もあったよ。でも、それ以上に喧嘩もしたし、別れ話も何度も出た。嫌われてるんじゃないかって思ったことも、冷たくされたことも度々ある」

ノアは、当時のことを思い出したのか、少し苦そうに笑って続けた。

「その度に泣いて…もう別れたい、別れるしかない…って。それがお互いの為だって、別れたほうが楽になれるって…そう、頭ではわかっていたのに、別れられなかった。何でだろう、恋人らしいことなんか殆どなくて、愛されてるっていう実感は最後まで持てなかったっていうのに…。私、それでも赤木さんが好きだった」

大粒の涙がはらはらと頬を滑り落ちて、堤防のコンクリートに灰色の沁みをいくつも作る。

「後悔だってたくさんしてる。こんな事になるんだったら、もっと赤木さんと話しておけば良かった、私の気持ちをしっかり伝えておけば良かった。意地張って、大人ぶって、独りでも大丈夫なフリをして、本当は…本当は私、そんなに強い人間じゃないのに……」
――馬鹿みたい、私。

ノアは悲鳴のように小さく叫んで、肩を震わせた。
迷子になって途方に暮れている幼い子供のように、その姿は頼りなくて。駆け寄って抱き締めてやれるならどんなに良いか。
けれど彼女の心がまだ赤木に縛られている事実を、こうしてまざまざと見せ付けられている最中では、手を差し伸べることが躊躇われる。

「一歩でもいいから、赤木さんに近付きたいって思ってた。だけどそんなの無理なのは当たり前で。真剣に話せば話す程、価値観の相違を感じたの。それでも…私さえ努力していれば、いつかはわかってくれるんじゃないかって、私のほうだけを向いてくれるんじゃないかって期待して。だから赤木さんが他の女の人の所に行ったりすると裏切られたような気になって、勝手に傷付いては憎んで。その度に自分が狭量な人間になったようで辛くて、そんな自分が一番嫌いで……。ああもうほんと私、馬鹿みたい」

涙に濡れた声で一息に吐き出して、彼女は堤防に縋るようにしてその場に頽折れた。
コートの裾が地面に擦れるも構わず、しゃがみ込んで声を上げて泣いている。
赤木さん、赤木さん、赤木さん……と、名前を呼ぶ声が届かないことは知っている筈なのに、彼女は一つ覚えのように同じ単語を繰り返した。空気を切り裂くような、断末魔の叫びにも似た高い声。
それはもう、全身を使って絶望という言葉を具現化したような慟哭であった。
痛い程に彼女の抱えている悲しみや苦しみが伝わってきて、見ているほうも辛い。

「ノア…」

傍らに立ち、その小さな頭を見下ろして名前を呼んだが、後が続かない。
この自分自身を傷付けているような泣き声の前では、何を言っても響かない気がして、ただただ寄り添うしかなかった。



ノアはあんな風に言ったけれど、原田にとっては、赤木がどんな形であれノアを愛していたことは疑いようのない事実だ。
彼女よりも長く生き、様々な人間模様を見てきたのだから、自分の認識が間違っているとは思わない。

(まぁ、いつかはわかるやろ……)

敢えてここで彼女に言い聞かせる必要もないか…と、まだ一向に泣き止む気配のないノアの背中を擦ってやる。
少しでも楽になるなら、いくらでも泣けばいいと思った。

「お前本当に、赤木のこと、愛してたんやな……」

好きとか恋とかとうに超えた激しい感情はもう愛と呼ぶしかないのだろう。
何気なく呟くと、泣き声が一段と高くなり、やがて喉の奥から絞り出すような声で返事が返ってくる。
ぞくりとする程気魄じみた声音は、体全部を使ってその想いの深さを表しているようで、原田は何も言えず天を仰いだ。

「ええ、そうよ……。私は赤木さんのことを――」

身を切るように愛した、という彼女の呟きは波音に紛れ、泡となって消えた。

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