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春 陽


刻一刻と、出陣の時が迫っていた。
政宗は、戦に臨む前はいつもそうするように、天守閣から一望できる自国の景観を眺めていた。
長く連なる緑豊かな山々と、冬の澄み渡った青空の鮮やかな対比。
まるでこれから合戦が始まるなどというのは嘘のように、長閑に響く小鳥の囀りは、しかし彼に寸先ほどの情動すら与えるものではなく。
ただ静かに自然に背を向けて、いざ戦場へと。
耳をつんざくような悲鳴が静寂を切り裂いたのは、相応の覚悟を持して一歩踏み出した、その刹那であった。

「奥方さまっ……幸紀姫さまあぁっっ……」
城内を駆け巡るいくつもの足音。
妻に尋常でない事が起こったのだということは、天守にいた彼にもわかった。
一分と経たずに、家臣の一人が転がるようにして飛び込んでくる。

「殿っ…」
「幸紀に何があった」
男は平伏したまま、は、と短く息を次いだ。
「幸紀姫様がお倒れになられました」
その名前を聞いて、政宗の脳裏に、正妻の華やかな美貌が浮かぶ。
つい先刻――政宗が一人天守に上がる直前まで、彼女の姿は自分の傍らにあった筈だ。
「幸紀が、まさか……」
「ただいま医者を呼んでおります。ただ、相当お苦しみのご様子……」
居ても立ってもいられなくなるというのは、このことだろうか。政宗は弾かれたように天守を下った。
城内にはいつにない緊迫した空気が流れ、慌しく動き回る女達の顔は一様に険しい。
「殿、殿はご出陣間近ゆえ、幸紀様のことは城内の者にお任せ下さい」
古くから伊達の家に仕えている老臣が、政宗の姿を認めて耳打ちする。
それには答えず、
「幸紀は自室か」
独り言のように呟いて、廊下を突き進んだ。
城の最奥、一番安全な所に設えられた、最愛の妻の居室。
限られた者だけを集めているのか、部屋の周りに人影は少なかった。
勢い良く開け放つ。目に飛び込んできたのは、篝火に照らされてもまだ蒼白にしか見えない、人形のような顔であった。
「お館様っ…!」
介抱していたと思しき侍女が、慌てて指をつかえる。他の女中衆もそれに倣おうとするのを手で制し、
「それより、幸紀は」
と語気鋭く訊ねた。一番年嵩と思しき侍女が進み出て、おずおずと病状を説明する。
「高熱で、意識が朦朧としております。これは一大事かと」
いつもは気にならないのに、もごもごとした口調すら癇に障った。さりとて、誰に苛立ちをぶつけるわけにもいかず、
「医者はまだなのかっ!?」
怒鳴るように一喝したが、皆俯くだけで、政宗は焦る心をどうにか抑えながら、苦悶に喘いでいる妻の傍へと膝を寄せた。
「幸紀…」
名前を呼ぶと、微かに唇が動いたが、言葉にはならず、苦しそうな息と共に消えた。
医者の到着を待つのみという状況で、何をしてやれるわけでもなく。政宗はただ妻が苦しんでいるのを黙って見ていることしかできなかった。


やがて、重臣の一人が、出陣の時間を知らせに来た。
その頃には医者が到着していたのだが、その診断ははかばかしくなく、幸紀の病状は油断ならない状態であると告げられた。
「今夜が峠でしょう」
その言葉に、女達の間からは、鼻を啜る音さえ聞こえてくる。
そんな感傷を他所に、外では既に隊が整いつつあるらしく、開戦を告げる法螺の音が鳴り響いている。
重臣が厳かに、
「殿、参りましょう」
と出陣を促す。
「しかし……」
そうは叫んだものの、総大将の自分が行かぬわけにはゆかず。政宗は半ば押し出されるような形で部屋を出た。


合戦の最中、幾多の敵兵を一閃で退けようとも。
脳裏に浮かぶのは花のように可憐な幸紀の笑顔で。
不意に視界が霞んだのを汗の所為にして、政宗は馬上から、いつ泣き出すやもわからぬ空を見上げた。


大勝利とも言える戦果を挙げて、政宗が帰城したのはそれから一週間後のことだった。
戦場で付着した汚れを落とすや否や、真っ先に向かったのは幸紀の居室である。
三日目の夕刻に、彼女の容態が快方に向かっている旨を伝え聞いていたのだ。

「幸紀」
侍女に背中を支えて貰いながら、彼女は上半身を起こして出迎えた。
一週間ぶりに見る幸紀の顔は、少々やつれてはいるものの、表情は晴れやかである。
「政宗さま」
声には張りがあり、政宗の傷一つ無い姿を認めると嬉しそうに頬を綻ばせた。
「此度の合戦では、大勝利と伺っております」
本当に目出度う御座いました、という儀礼的な挨拶を聞き届けた後、政宗は侍女を下がらせて人払いを命じた。
二人きりになって改めて向かい合うと、もう何年も連れ添ってきた筈なのに、まるで初めて顔を合わせるかのように気恥ずかしい。
「もう起きて大丈夫なのか」
「はい」
屈託のない笑顔を向けられて、政宗は漸く肩の力を抜いた。
「そなたが倒れたと聞いた時は、本当に驚いた」
結局、この時の幸紀の病は酷く質の悪い風邪だったのだが、あまりに熱が高かった為、危険な状況にあったのだと後で告げられた。
「ほんの数刻前まで、一緒だったのにな」
「ええ」
幸紀も神妙に頷く。
二人はあの日、政宗が天守に上がる寸前まで一緒に櫓に上っていたのだ。
具合が悪いような素振りは全く感じられなかったが、政宗が気付かなかっただけで、幸紀は辛かったのかもしれない。
彼女は我慢強いから。戦場へ赴く夫に余計な心配をかけたくなかったのかもしれない。
しかし、幸紀はその問い掛けには首を振った。
「政宗さまとお別れして、ふとお庭を眺めていたら、急に目の前が真っ暗になったのですよ」
そう言って苦笑した幸紀の顔には、嘘をついているような色は露ほども見当たらなくて。
「そうか」
政宗もそれ以上追及することはなく、二人の間にはしばしの沈黙が落ちた。
「庭の…」
やがて、幸紀がぽつりと口を開く。それから視線を、政宗の背中の向こうに広がる広大な庭へと向けた。
「ん…」
つられて振り向くと、梅の大木がたわわに蕾をつけて、まだ初春だというのに、その一部はもう花弁を開かせている。
「梅の花が、綺麗だなと思って」
「ほう…」
「もう少し近くで見られれば良いのですが、生憎この体ではそれも叶いませぬ」
幸紀は微かに笑ったが、声音には残念そうな響きが混じっていた。
「ならば……」
「え?」
政宗は、そっと幸紀の体に腕を伸ばし、その小柄で華奢な体を一思いに抱え上げた。
真白い寝間着の裾から、自力で歩くことが滅多にない女の、か細い脚が覗く。
「政宗さま…」
「これくらいは、構わんだろう」
少女のように小さな体は、政宗の腕の中にすっぽりと納まる。
寒くないようにと自分のほうに抱き寄せて、庭の軒先に歩み出た。
「まあ、綺麗」
幸紀が細い腕を伸ばして、梅の花弁に触れる。
その横顔は透き通るように白く儚げで、政宗の隻眼には何か神々しいもののように映った。
「後で、庭師に頼んで手折ってきてやろう」
幸紀が嬉しそうに頷く。梅からそっと手を離し、そのまま政宗の頬を撫でた。
「幸紀のほうから触れてくるとは、珍しい」
政宗が喉の奥で可笑しそうに笑うと、幸紀はさっと頬を朱く染めたが、
「幸紀に触れられるのは、お嫌ですか?」
愛しむような微笑を向けてくる。
「嫌なわけがあるものか」
政宗も、柔らかな笑みを口元に称えた。城中の者には決して見せない、気を許した相手にのみ向けられる優しげな表情であった。
「そなたが倒れたと聞いたら、大事な戦にも身が入らんて」
強ち冗談とも取れぬ口調に、幸紀はくすくすと笑う。
「今日はやけに、饒舌なのですね」
政宗は妻の顔をつと眺めてから、それは、と口を開いた。
「幸紀を失わずに済んで、心底安堵したからとでも言おうか」

――そなたを失くす恐怖に比べたら、いくさ場で感じるそれなど取るに足らぬ。

幸紀が不意に、彼の胸に顔を埋めた。
「幸紀」
泣いているのか?と問いながら、絹糸のような髪を撫でる。ちらりと覗いた耳朶が真っ赤で、触れた指先がやけに熱かった。
照れているのか、と納得した後で、政宗自身も自分の発した言葉がどうにも恥ずかしくて仕方が無く感じる。
「政宗さま……」
「何だ」
ついぶっきらぼうに返事をすると、幸紀は顔を俯けたままで、
「どうやら私、また熱が出てきたのかもしれませぬ」
と蚊の鳴くような声で告げた。
「そうかもしれぬな」
そう答えながら、政宗も、微かに火照る体を冷やそうと、庭の外に顔を向ける。
腕の中では幸紀が雛鳥のようにちょこんと収まっていて、その重みに、知らず知らずの内に微笑が零れた。
庭には穏やかな春の陽射しが柔らかく降り注ぎ、仲睦まじい夫婦を見守るかのように暖かく包んでいる。

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