小説 | ナノ

緩やかな微睡の傍らで


遠くに、蝉の鳴き声が聞こえる。
季節は夏の盛り。


幸紀は、会津黒川城内に構えてある政宗の居室にそっと忍び込み、御簾の内で微睡んでいた。
冷んやりとした畳の感触が、薄地の着物を通して伝わってきてとても心地良い。
本来なら、無断で立ち入ってはならない場所なのであるが、今日のように誰も立ち寄る気配のない時は、こっそりと涼みに来ている。
単に、御簾の内の一段高くなった畳の上で、数刻ほどうたた寝していくだけなのだが、老臣たちに見つかったら口うるさく説教されるに違いない。


うつらうつらと瞳を閉じれば、瞼の裏には天守から見た雲一つない青空と、峰状に連なる山々の見事な景観が鮮やかに浮かび上がる。
「壮観であろう」
体の小さな幸紀を軽々と抱き上げ、今朝、政宗が見せてくれたその景色は確かに素晴らしく、胸が震えたが、
「暑い…」
夫のそんな気遣いがどうにも面映く、ぶっきら棒な返事で応じることしかできなかった。
後で決まって自己嫌悪に陥るのだが、優しくされればされるほど戸惑ってしまう。

(わらわは可愛くない女子じゃな…)

頬をぺたりと畳にくっ付けたまま、小さく溜息をつく。
尤も、幸紀の愛想の無さは今に始まったことではないので、政宗は全く驚かない。
現に「暑い」と言ったのに彼はまだ、暫くその場を動こうとはしなかった。

(他の女子なら…たとえば…)

そこでふと、政宗に想いを寄せている侍女の一人の顔を思い浮かべる。
かの女なら、即座に気の利いた返事ができるのであろう。

はぁ…と、幸紀はもう一度息をついて、重々しく寝返りを打つ。
幸紀は、決して政宗を好いていないわけではない。ただ、素直に好意を表せないだけなのだ。

(殿は、わかってくれておると良いが…)

虫が良いと思いつつも、そう願わずにはいられなくて。
眠気に任せて目を閉じれば、真下に位置する大広間の喧騒が耳に届いてくる。
階下では、今日も酒宴が催されているらしい。最近よく、政宗の友人だという男が訪ねてくるのだ。
名を前田慶次といい、何やら面白い男だというのを家臣たちが噂しているのを聞いた。
幸紀は勿論、慶次を見たことはない。政宗も口数の多い人間ではないので、自らその友人について彼女に話すこともなかった。

(今日も来ておるのか…)

階下の笑い声は、今や畳に寝そべらなくとも聞こえるほどに高くなっている。
やがて、ふとざわめきが止み、いくつかの足音が遠のいていくのを掠れ行く意識の中で聞きながら、幸紀は眠りに落ちていった。



「そういえば、政宗殿の居室で飲むのは初めてであったな」
「言われてみれば、そうでござるな」

その声で、幸紀ははっと飛び起きた。どうやら、たった数分の間とはいえ、熟睡していたらしい。

「酒肴を増やす故、少し部屋で待っていては貰えぬか」
「相わかった」

そんなやり取りの後、大きな足音を響かせて、部屋に一つの大きな人影が現れた。
幸紀は寝乱れた着物の前を慌てて直しながら、じっと息を潜める。

「ん?御簾の内に誰かおるのか…」

衣擦れの音一つ立ててはいないつもりだったが、やはり人の気配というのはわかるのだろう。
声と同時にひょいっと御簾が捲り上げられ、幸紀は思わず小さな悲鳴を上げて身を硬くした。

「きゃ…っ」
「うわっ」

しかし驚いたのは、相手も同じだったようである。
まさか城主の居室に隠れている人間がいるなど到底考えられないことであるから、それも当然であろう。

「何だ、子供か…!?」

幸紀の視界を、大きな図体が塞ぐ。
彼女は、政宗以外の若い男を全くといって良いほど知らない。
小姓や近習はいるが、彼らは幸紀の前に来ると頭を上げられないので、顔を見ることも殆どないのだ。

「全く、こんな所に勝手に入り込んじゃ駄目だぞ」

目の前の少女にしか見えない女性が、まさか政宗の正室だとは露ほどにも思っていないのであろう。
慶次は、二の句が継げないでいる幸紀に、大真面目に説教をしている。
幸紀はそれを他人事のように聞きながら、漸く正常に動き始めた思考回路で、

(彼奴が前田慶次か…)

と思い至り、目の前の男をしげしげと眺めた。まじまじと自分を見つめている少女を前に、

「この娘、人の話を聞いておるのか…」

と、慶次が首を傾げたところへ。

「前田殿、いかがなされた」

すっかり機嫌を良くした政宗が、家臣を従えて部屋に入ってきた。
どうやら彼には、幸紀の姿は慶次の巨体に隠れて見えてないらしい。

「おお、政宗殿、そなたの部屋に迷い子が……」

言って、脇に体をずらすと、珍客の若い大男にすっかり怯えて肩を震わせていた幸紀の視線の先には、政宗の珍しく驚いた表情があった。

「あ…」

果たして、声を出したのはどちらが先だったか。
政宗も、こんな所に妻がいるとは全く考えてもいなかった筈である。
幸紀は、厳しい叱責を覚悟してぐっと身を縮めたが、

「幸紀、こんな所で何をしておるのだ」

頭上に降ってきたのは微かに笑いを含んだ声と大きな温かい掌であった。

恐る恐る顔を上げる。
微笑を浮かべた政宗と、事の成り行きに唖然としている慶次。
そして…その後ろでは、幸紀以上に慌てふためいている様子の家臣たちの姿があった。

「前田殿、紹介が遅れて相済まぬ。これが我が妻…幸紀じゃ」
「妻!?この幼子が!?」

慶次が素っ頓狂な声を上げるのも無理はない。
幸紀の外見はまだ十にも満たないのではないかと思うほど頼りなく、常に無口な所為か、口調も幼女のように舌足らずなのである。

慶次の率直な感想に、幸紀は一瞬むっとして眉を顰めたが、やはり黙ったままだ。

「俺にはどうしても姫御にしか見えないんだがなぁ…」

政宗が思わず笑ってしまうほどに、慶次はまじまじと幸紀を眺めている。
前から後ろから斜めから…まるで動物でも観察しているような不躾な視線で、最初は黙っていた幸紀も、たまりかねて声を上げた。

「そ…そなた、無礼じゃぞ…!」
「おおっ、怒らせてしまったか。なら、すまぬ」

全く悪びれていない様子の慶次をじっと睨み付けてはみるものの、幸紀の怒気は彼に僅かの痛痒さえ与えるものでもなく、それどころか、

「うん、よく見るとなかなかに可愛い女子だ」

サラリと言ってのけられ、今度は怒りとは別の感情で頬が朱に染まる。

「なっ…」

幸紀が二の句を継げずに口をパクパクさせていると、慶次は政宗を振り返って、

「のう、政宗どの」

と同意を求める。
訊かれた当人である政宗は、一瞬、幸紀のほうを見遣った。
視線が合うとどうにも気恥ずかしく、ぷいっと顔を背けてしまい、それで幸紀としては却って後ろめたいような気持ちになってしまうのだが……。
政宗は慣れているので、そんな幼妻の態度を咎めようとはせず、そのうえ至極慈愛に満ちた声音で、

「ああ、幸紀は本当に愛らしい嫁御じゃ」

と呟いた。
そんな風に言われると、妙に落ち着かなくて。
まるで地に足がついてないかのような、ふわふわとした心地に襲われる。
今にも足が勝手に地面から離れて飛んでいってしまうのではないかと、思わず政宗の傍へと駆け寄ってひしとしがみ付いた。
彼の着物に顔を埋めていると、安堵と羞恥が同時に込み上げてきて、耳朶まで真っ赤に染まっているのがわかる。

「あまりの可愛さ故に、儂は幸紀を甘やかし過ぎたようで…。先刻は前田殿に挨拶もせず、申し訳ない」
「いや、俺はそんな事は気にしておらんよ」

幸紀は二人のやり取りを聞きながら、そういえばさっき慶次のことを無礼だと罵ったが、挨拶すらしていない自分を省みて愕然とする。

(何と…。それでは、幸紀は此奴のことを無礼だなどと言える筋合いではないではないか)

今から顔を上げて、もう一度向き直ろうかとも思ったが、雰囲気から察するに、どうやら酒宴が再開されたらしい。
ふわりと体が宙に浮く感覚があって、次の瞬間には胡坐をかいた政宗の膝の上に乗せられていた。
恐る恐るといった体で顔を上げたが、彼は慶次と談笑しているようで幸紀には気付かない。

「おっ、幸紀どのが顔を上げたぞ」

慶次が銚子を片手に悪戯っぽく笑って言う。
しかし、幸紀の性分ではやはりむっつりと黙ってしまう形になり、視線を逸らして着物の裾など弄っていたのだが、不意に、

「先程は、申し訳なかったの」

と、独り言のように呟いた。

「わらわは幸紀、と申すのじゃ」
「幸紀、か。そなたに似合いの、可愛い名ではないか」

慶次の言葉にはまたふんと鼻を鳴らすと、彼は楽しそうな笑い声を上げ、

「しかし、あれだな。幸紀どのにはいくら鼻であしらわれても、不思議と腹が立たぬ。なぁ、政宗どの」
「左様…。幸紀は、嫁いで来た当初からかような感じで、もう儂も慣れてしまった」

その返事に、慶次はうんうんと納得するように頷いている。そして、

「惚れた弱みでござるな」

と二人を交互に見て、盃を呷りながらニッと笑った。

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