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夕凪


穏やかな日々が続いていた。
ここ数ヶ月は近隣諸国との小競り合いすらなく、こんなに平和な時期は紗世にとっても、生まれてからこの方、殆ど記憶にない。
「平和なこと…」
三原の澄んだ空を見上げて口元を綻ばせる。愛する人が大好きだといった景観は、彼女にとっても愛おしいもので。
その空が晴れているというだけでも、なにやら祝福された一日になるような予感がするから不思議だ。


「紗世」
縁側に座ってぼんやりと空を眺めていた彼女は、その声につと振り返った。
声の主を認めて、表情がぱっと明るくなる。
「隆景さま」
両手で包んでいたお気に入りの湯飲み茶碗をコトリと傍らに置き、尻尾を振る仔犬のような風情で夫の端正な佇まいを眺めた。
「紗世は朝が早いな」
「今日は隆景さまが遅いのですよ」
もう太陽があんなに高いところにあります、と白い手を空に翳せば、隆景は可笑しそうに笑う。
「本当だ。どうも、寝過ごしてしまった」
「心地良さそうに眠っていらしたので、起こしませんでした」
紗世が今朝方の光景を思い出していると、隆景は決まり悪そうに視線を逸らす。その様子が、いつもの一分の隙もない彼からは連想できなくて、
(隆景さまでもこんな表情をなさるのだ…)
紗世は何だか嬉しくなり、気付かれないようにしてくすくす笑った。


「しかし良い天気だな。城の中にいるのが勿体無いくらいだ」
柔らかな陽光がきらきらと降りかかる庭で、隆景は空を見上げて嘆息した。紗世もつられて夫の視線を追う。薄い青がどこまでも広がり、一筋の細い雲が白線を引いたように浮かんでいる。
「この様子なら、海もさぞ見応えがあろう」
その言葉に紗世が心から頷くと、隆景はごく自然に彼女の手を取って、天守へと連れて行った。
「わぁ…」
城の最上部から見下ろす海は絶景で、幻想的な美しさを感じさせる。紗世は思わず歓声を上げた。
海岸には水軍の、多くの船が見受けられる。一縷の乱れもなく整列した軍船の群れに、各々の家紋を染め抜いた旗が一斉に翻る様は美々しく壮観でさえあった。
「これから城下に出てみぬか」
「はい」
隆景の提案に否やがある筈がなく、紗世は浮き立つ心を必死に抑えながらついていく。
幼子のように手を引かれて、賑わう城下の町並みを、一つ一つ丁寧にゆっくりと見て歩いた。
数年前までの雄高山城で暮らしていた時は、今ほどの大身ではなく、紗世も自ら買い物に出掛けたりしていたが、三原に移ってからは軽やかに町中を歩き回れる環境ではなくなってしまった。そんな時代の変化に一抹の寂しさを感じてしまうことがある。
だから余計に、隆景がこうして連れ出してくれるのが嬉しくて仕方なかった。何か目的があるわけでも、必要な物を探しているわけでもなく、ただ二人で散歩がてらに町を歩くというのが、こんなにも心躍るものだとは知らなかった。
「隆景さま」
「うん?」
「こんなにも幸せな時間を過ごしているなんて、夢のようですね」
しみじみとした紗世の口調に、隆景は一瞬虚を突かれたような表情になる。てっきり笑われると思っていたのだが、彼は一つ黙って頷くと、
「本当にそうだな」
紗世に劣らず真剣な声音で言った。
鼻先を、縁日の時に嗅いだ記憶のある甘ったるい匂いが掠めていく。
「戦乱続きの世に、かような平和な日々が続くのは珍しい」
「ええ」
紗世の胸の内には、近いうちに再び大乱が起こり、隆景と離れて過ごす時間が多くなるのではないかと、漠然とした不安が常にある。
織田信長という尾張の一大名が俄かに台頭して、日本の勢力図を大きく塗り替えていっているとの報せは、中国地方にも届いていた。今歩いている町の人々なら誰もが、自分と同じような心境を抱えているのではないだろうか。
「いずれ、また大きな戦があるかもしれない」
紗世の内心を見透かしたかのように隆景が言う。
神妙に頷くと、彼はふっと表情を和らげて、
「そんな心配そうな顔をするな」
片方の空いているほうの手で、彼女の頬に触れた。
「だって…」
子供じみた表情で唇を尖らせる紗世を愛しげに見遣って、一息ついた後、
「束の間の平和といえど、満喫するに越したことはあるまい」
潔く言い切って、再び真正面に視線を据える。
その姿を見ていると、自然と紗世も背筋が伸びた。
「そうですね」
まだ表情には少し硬さが残るけれど、顔を上げた紗世を見て、隆景はそれで良しというふうに微笑した。
「紗世、せっかくの余暇ぞ。楽しく過ごそうではないか」
それから、「そうだ…」と何かを思いついたように立ち止まり、ふと目についた店の主人に声をかけた。
店の周りには甘い匂いが立ち込めていて、紗世は看板を見上げ、そこが飴や駄菓子を売っている店であることに気付く。
(さっきの縁日を思い出すような匂いは、ここから漂ってきたのか…)
正面に視線を戻すと、色とりどりの水飴が並んでいて、どれも甘くて美味そうだ。
手際良く選んでいる隆景は、楽しそうな表情を横顔に浮かべていて、紗世は意外な一面を垣間見た気がする。
それとも自分を元気付けようとしてくれているのだろうか…と自惚れそうになるのも事実で。
やがて、両手に溢れるほどの菓子を携えて紗世を振り返り、
「紗世も少し持て」
押し付けるようにして、片手に飴や駄菓子をたっぷりと握らされた。空いているもう片方の手は、当たり前のように彼のそれと繋がれていて、こんなやり取りを人に見られるのは何やら気恥ずかしい。
「これでも食べて元気出せ」
しかも口元に小さめのりんご飴を差し出され、その芳しい林檎の香りに反射的に口付けてしまった。
(あ…)
してやられた…と思った時には後の祭りで、まんまと策にはめた形となった隆景はにこにこ笑っている。
それでも口中に拡がる程良い甘味に抗えるはずもなく、
「隆景さまは、紗世のこと子供扱いして…」
――甘い物食べればすぐ元気になると思って…。
憎まれ口を叩いても柳に風。言いながら、紗世自身も頬が緩むのを抑えられず、結局は顔を見合わせて笑った。


店主の男に手を振りつつ、隆景と紗世は店に背を向ける。
まだ笑いの余韻が残る二人は、視線が合うとどちらからともなく笑顔になった。
「楽しかったですね」
秋の夕暮れは早く、既に陽は西に傾きかけている。ほのかに橙色が混じり出した空の下、紗世は隆景に言った。
「ああ。紗世姫はりんご飴一つで元気になってくれたことだし…」
普段、滅多に冗談など言わない彼にしては珍しく饒舌で、
「もう、揶揄わないで下さいっ…!」
紗世の必死の抵抗も、どこ吹く風かと言いたげに聞き流される。
鈴を転がすように笑いさざめき合いながら、三原城へと帰る二人を夕陽が照らして、寄り添う一対の影が長く柔らかく伸びていた。

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