小説 | ナノ

Home,Bitter Sweet Home


同居人は殆ど料理をしない人だったから、家庭科の授業で調理実習を終えた日、少年は市場に寄って、授業で使ったものと同じ食材を買い集めた。
(人参とジャガイモ、あと何だっけ……)
調理実習で作った献立は、肉じゃがだった。
いかにも家庭科の先生…といった風情の、少女じみた雰囲気の教師が、流れるような手つきで料理をしているのを見て、きっと母親とか妻とか呼ばれる女性はこんな感じなのだろうと、少年は漠然と思う。
(それに比べてノアは…)
買い物をしながら、脳裏に同居人の姿を思い浮かべる。
美人で愛嬌があって、そのうえ話し上手の聞き上手な所為か、言い寄ってくる男には不自由しない。
けれどいつも、結婚まで辿り着かず、彼女の恋愛は見ていて痛々しい結末に終わるのだった。
(男を見る目が皆無というか…)
そんなことをつらつらと考えつつ、買い物を済ませて家に帰る。
「ただい……」
立て付けの悪い、安普請のドアを開けようとした時、中から男の声が聞こえて、少年は思わず手が止まった。


「で、でも、キミとのことは本気だったんだ…。なぁ、信じてくれよ…」
「嘘。奥さんと別れる気なんか、ないくせに…!」
薄いアルミを隔てて、パシッと鋭い音がする。
平手打ちでも食らわしたのだろう。
バタバタと足音が迫ってきて、内側から勢い良くドアが開かれた。
少年は反射神経が良いから、こうなるであろうことを予想して、既に少し離れた所に移動している。
家の中から転げるようにして出てきたのは、どこにでもいるような、小肥りの冴えない中年男だった。
平穏な家庭を築いていそうな、どこにでもいる類の男。
(相変わらず、趣味の悪い女……)
そそくさと、逃げるようにして去って行った男の後姿を見送りながら、少年は思わず鼻を鳴らす。
どうしてこう、ノアが付き合うのはこんな男ばかりなのだろう。
不倫だったり、二股をかけられていたり…。
その気になれば、相応の男と充分に幸せな恋愛ができるのに、何故か彼女は報われない恋ばかりを選ぶ。
部屋の中からは、雑誌を床に投げ付けたのか、バシッという音に、ノアの毒吐く声が続いた。
壁を隔てているので、言葉の内容までははっきりとは聞き取れない。
やがて、ドシドシと足音がして、大きなため息が一つ聞こえた後、まるで何事もなかったかのように、急に静かになる。
少年はそろそろと、ドアを開けた。
「ただいま」
返事はない。
寝室にでも閉じ篭っているのだろうか。
あんな男でも、出て行かれたらショックなのだろうか。
「ノア……」
少年は恐る恐る声をかけてみる。
世の中の、どんな事にも動じない彼にしては珍しく、威勢が弱かった。
失恋した相手にはどんな言葉をかければ良いのか、わからない。
一番奥の和室に敷かれたまま、万年床となった布団の上で、ノアは毛布を被って丸くなっていた。
傍には、空になったワンカップやつまみの袋が散らばっている。
起きているのかもわからず、ノア、ノア…と何度か呼びかけると、不機嫌さを隠そうともせず、短く低い声が返ってきた。
「何よ」
「どうしたの、こんな真昼間から横になって…具合でも悪いの?」
我ながら下手な言い草だと思ったが、出て行った男のことを大っぴらに訊ねて良いのか迷う。
これが他の女なら、どうでもいい女であれば、興味本位も手伝って無理矢理にでも修羅場の経緯を聞き出すのに。
ノアに対してそんな事はできないと思ってしまうのは、長く一緒に暮らして、肉親にも似た情が沸いている所為だろうか。
「うっさいわね。私のことなんか放っておいてよ」
酒臭い息とうんざりとした口調で追い返される。
酔っ払いの戯言だと判ると、腹を立てる気にもなれず、少年は一つ息をついて冷蔵庫に野菜を仕舞い始めた。




コトコトと、鍋が美味しそうな音を立てている。
キッチンの窓から夕陽が差し込み、白いテーブルクロスをオレンジに染めていた。
少年が鍋の中身を味見して、満足げにコンロの火を止めるのとほぼ同時に、人の気配がする。
振り返ると、寝起きで部屋着や髪が乱れたままの姿の同居人が、冷蔵庫を開けているところだった。
「うー…、昼間から飲み過ぎた…」
ミネラルウォーターをペットボトルのまま呷って、盛大に溜息をつく。
そして漸く、コンロの前に立っている少年に気付いたようだ。
「あら、しげる君、何やってるの」
先ほど八つ当たりしたことなど、すっかり忘れているかのような口調で、足取り軽く傍に寄ってくる。
汗と微かに酒臭さの残る体臭が入り混じり、甘ったるい匂いが鼻先を掠めた。
「料理。見たらわかるでしょ」
「そりゃわかるけど…珍しいなと思って。肉じゃが作ったの?スゴクいい匂い」
くんくん、と鼻を近付けて大げさに鍋から漂ってくる匂いを嗅いでいる。
「美味しそう〜」
そして、つい今まで不貞寝していた人間と同じとは思えないほど明るい声を上げ、蕩けるような微笑を浮かべた。
その表情が心の奥底にある琴線に触れ、これだから憎めないのだと、少年は同居人から視線を逸らす。
「熱いうちに食べなよ、ノア」
「うん、ありがと。せっかくだから、しげる君も一緒に食べようよ」
言うや否や、食器棚から手早く皿を取り出して、居間のテーブルに並べていく。
その背中に向かって、あの男は誰で、何があったのか問い詰めたい衝動を堪えつつ、食卓についた。




「しげる君って、本当に何でもできるのねぇ…」
肉じゃがを頬張りつつ、ノアがしみじみと感嘆する。
「普通できるでしょ、これくらい」
「そうなの?私、肉じゃがなんて作れないんだけど」
「ノアは料理できなさ過ぎ」
「それ、今日あの人にも言われた」
あまりにもサラリと言うから、危うく聞き逃してしまうところだった。
少年は、“あの人”というのが昼間出ていった中年男のことだと瞬時に理解する。
「もっと家庭的な女だと思ってたんですって」
他人事のように淡々と語るのは、もう過去のことだと割り切ったからなのだろうか。
黙って話の続きを促すと、ノアは箸を動かす手を止めて話し始めた。
「だから本気で惚れた、奥さんと別れて一緒になろう…って、ずっと言ってたの」
「……」
「馬鹿よねぇ…、私。そんな話を真に受けてたんだから」
「それで、その人と喧嘩したの?」
別れたの?と聞けば、盗み聞きしていたことがバレてしまいそうなので、遠回しな言い方になった。
「うん、奥さんと離婚するとか離婚しないとかで喧嘩になって、その勢いで別れた」
「そう」
「うん…」
少年に向かって、というよりは、自分に言い聞かせるように頷いて、ノアはまた箸を取った。
「あー、こうやってしげる君に話したら何かすっきりしたわ」
ありがとね…とにっこり笑顔を向けられる。
人の心の琴線を揺らさずにはいられない笑顔。
「それは良かった」
「それに、こんな美味しいゴハン作ってくれるし…。もうしげる君さえいれば、他の男なんてどうでもいいや」
「ちょっと、本気で言ってるの…?」
ノアの声には、冗談で済ませられないくらいの真摯さが滲んでいて、少年のほうが慌てた。
「……今は、本気で考えてる」
「………」
少年は思わず黙った。めまぐるしく思考回路を回転させるが、咄嗟に言葉が出てこない。
「――なんて、冗談よ…」
その様子を見て、場の雰囲気が重たくなりそうなのを察してか、ノアがふふっと悪戯っぽく笑う。
こうやって、雲行きが怪しくなったらすかさずはぐらかすところが、彼女にとっては出来る限り傷付かずに生きていく為の処世術なのだろうと、少年はどこか憐みを以て思った。
ふっと、緊張を解くように息を吐く。
「ノア、早く食べないと肉じゃが冷めるよ」
「そうだね」
自分が促したものの、それ以上、話を戻そうとはせずに、再び箸を取った同居人を見て、少年は微かに後悔する。
もっと詰め寄って、この機に乗じて確実に言質を取れば良かったのかもしれない。
(ノアの関心が、いつも自分だけに集まっていれば良いのに……)
いつの間にか、心に根を下ろしていた独占欲。
入れ代わり立ち代わりにやって来る男たちが不快で。彼らに媚を売る同居人の姿はもっと不愉快で。子供じみた嫉妬だとわかっていても、どうしようもできない。自制の効かない、自らのコントロールを離れた感情を持つのは初めてだった。
その気持ちが強まる余り、ふと、食事中にも関わらず、彼女をこのまま床に押し倒している自分の姿がありありと想像できる。
そして拒まれないであろうことも、予想できた。
そこまで考えていながら、それでもこの期に及んでまだ、今抱いている慕情が恋なのか、或いは母親を慕う子供の欲求と同質のものなのか、明確な判断を下せないでいる。
切羽詰った少年の心境とは対照的に、家族団欒を象徴するかのような甘辛い香りが、部屋じゅうに漂っていて、ふと、肉じゃがの匂いの中で女を組み敷いている図は滑稽だな…と少年は自嘲気味に小さく笑った。

prev / next
[戻る]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -