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転落


もうずっと、ベッドの中にいる。
仕事を逃げるようにして辞めてから、早一週間。
私は一歩も外に出ることなく、一日中毛布に包まっている。
体は鉛のように重く、意識は常にはっきりしない。
息をする事さえ億劫で、トイレに行くのすら重労働。

「ノア、食事くらいは摂ったほうがいいぞ」
「……いらない」
「でもお前、もう何日もメシ食ってないだろ」

カイジにまで心配されるようになったら終わりだ、とひっそり自嘲する。
少し前までは、堕落し切っていた彼に、私が注意する立場だったのに。
いつの間にか優劣が逆転して、彼が社会に出ようとすればするほど、私は自分の世界へと篭っていく。


外の世界は、私にとっては恐ろしいものに変わり果てていた。
たった一ヶ月の間に。世界は薔薇色から黒一色へと色を変えた。
何がきっかけだったのだろう?
一月前、私は信頼していた先輩に、仕事上のミスを擦り付けられた。
しかも、一歩間違えば犯罪という重大な過失。
身の潔白は晴れたものの、先輩と私の関係が良過ぎた為に、本当は故意にやったのではないかと疑っている人間が少なからずいる。
きっと今頃、仕事を辞めた私を見て、「ほら、やっぱりグルだったんだ」と後ろ指を差していることだろう。
事が発覚してからの数週間は針の筵に座っているようだった。
『ノアが仕事辞めたら、それこそアイツらの思うツボじゃん』
友人はそう言って庇ってくれたが、私には一秒でも早く会社から離れることしか考えられなかった。
そして…仕事を辞めた直後の一週間前、今度はそれまで同棲していた彼氏に通帳と印鑑を持って逃げられた。
暗証番号をわかりやすく誕生日にしていた為、預金はすぐに下ろされていて、私は社会人生活で必死に貯めた金を一気に失った。
あれが残っていたなら、私はここまで落ちぶれずに済んだに違いない。
手元に残ったのは僅かな現金だけで、借りていたマンションの家賃すら支払えなくなり、こうやってカイジを頼って居候させてもらっている。
しかしその僅かな現金も底を尽きようとしていて、私はその先に待つ過酷な現実から逃れるように、ずっと体を丸めているのだ。

そうやって更に数日過ごしていると、今度はカイジがコンビニのバイトを辞めた。
横になっている私の背中に向かって、
「バイト、辞めたんだ」
と、決まり悪そうに告げた。
一ヶ月前までの私ならすかさず、「これからの生活どうするのよ!?」と詰め寄って説教しただろう。
彼とは高校時代からの友人で、東京に出てきてからもずっと付き合いを続けていた。
だから会社を辞めた時も、同僚の女の子に頼れないとなったら、もう行く宛てはカイジの所しかなかった。
彼がお人好しなのをいいことに、私は図々しく転がり込んで、ただ寝るだけの生活を送っているのだ。
その居場所さえ、崩れようとしている。
私は彼に背を向けたまま、のろのろと口を開いた。

「仕事辞めたら、この家とかどうなるの?」
「さあ…。取り敢えず、来月くらいまでは食い繋げると思うけど…」
「じゃあその間に仕事探してよね」

我ながら酷い言い草だなと、言った後で気付いた。
これではカイジのことを言える立場ではない。
しかし彼はやはり優しいのか、私の発言に怒るわけでもなく、

「あ、ああ…。つか、ノアはどうするんだ?」
「私は…」

さも心配そうに声をかけてきた。
言いかけて口を噤む。後に続く言葉が見つからない。
私は一体どうするのだろうか。
本気になって就職先を探せば、小さな会社の事務くらいはできると思う。
仮にデスクワークがなくても、まだ体力的にも年齢的にも充分、接客や営業ができる。
いずれにせよ、贅沢を言わなければ求人は難なく見つかるだろう。
問題は、やる気が全く起こらないということだ。
数週間も寝て過ごしていたら、それがあまりに心地良いことに驚いた。
皆が仕事に行っている時間、ただごろごろしながら惰眠を貪る生活。
腹が減ればスナック菓子とジュースを食らい、また横になる。
夜になり、バイトからカイジが帰ってきたら、まるで獣のように抱き合う。
部屋はいつの間にか汚れていったが、私は掃除もしないし洗濯もしない。
畳の上には埃とお菓子の食べくずが、あちこちに見受けられる。
風呂には入るものの、汗臭い服をもう何日も着替えず、しかも性行為でシーツや布団に染み付いた体液が、饐えた匂いを撒き散らしている。
悪臭が気になったのも初めの一日、二日のことで、今ではすっかり麻痺してしまっていた。
こんな快楽があることを、私は知らなかった。

だが、人間が生きて行く為には金が要る。
何か楽して大金を稼げる仕事はないだろうか。ちょっと危ない仕事でもいい……。
いや、いっそカイジが稼いできてくれれば。それなら家事くらいは喜んで引き受ける。
それをカイジに話したら、彼は隠さず嫌そうな顔をした。

「オレ、ノアの彼氏じゃねぇんだぞ」
「いいじゃん、もう恋人同士ってことで。どうせやってることは変わらないんだし」
「馬鹿言うなよ……」

泣きそうな顔になるカイジが可笑しかった。
そのまま組み伏せられ、「ほらやっぱり、やることだけはやるんだから」と揶揄えば、苛立たしげに唇を塞がれた。

事後の気だるい雰囲気の中で、カイジが天井を見上げてぽつりと呟いた。

「金は何とかするから」
「それって、どこかから借金するってこと?」
「バカ、そんなことしたら危ないに決まってるだろ。日雇いのバイトとかするって言ってるんだよ」
「ふぅん…」

カイジが、思ったよりも現実的な考え方だったことに、少なからず驚いた。
私は取り敢えず、当座の生活に困らなければそれで良いので、あとは黙ってしおらしく寄り添っておく。

「だからノアも、働けるようになったら少しでも働くんだぞ」
「……うん」

カイジはそう言って、子供にするようにポンポンと私の頭を軽く叩いた。
優しさが小さな棘のようになって私の胸を刺す。
初めて味わう感覚に、私は天井の一点をじっと見据えながら、泣き出したくなる衝動と必死に戦っていた。

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