小説 | ナノ

亡霊


仕事から帰って郵便受けを確認していたら、ヒラリと一枚のハガキが足元に落ちた。
(誰からだろう?)
不審に思いつつ拾い上げ、差出人の名前を確認する。
『赤木(旧姓××) ○美』
名前の一字が雨に滲んでいて、何と書いてあるのか判別不能だったけれど、それでも衝撃を受けるには十分で。一瞬にして血の気が引いた。
何かの間違いではないかという気がしたが、宛名はまぎれもなく平井ノア…私の名前だ。私は確かにこの名前を知っている。そう、知りすぎる程に知っている……。
唐突に、そこに並ぶ四文字が、意志を持った生き物のように像を成し、脳裏に浮かび上がってきた。
忘れもしない、三年前の記憶を伴って――。


* * *

単刀直入に言うと、この女は、私の当時の恋人を寝取った女だ。彼女とは、会社の先輩後輩の間柄だった。
年は十以上離れていたけれど、言動や行動にどこか幼さが残る人で、年下の私と喋っていても全く先輩という感じがしない。けれど可愛い子ぶってるのともちょっと違っていて、仕事は的確で速いし、姉御肌な一面もあった。
愚痴や相談にも嫌な顔一つせず応じてくれたから、後輩からの人気も高かったと思う。
私はその当時、アカギさんという雀士と付き合っていた。一介のしがないOLでしかない私が、本来なら彼のようなアウトローな仕事をしている人と接点を持つ筈はないのだが、私の父親はフィクサーである。
偶々ついて行った先の料亭で、相手の暴力団側にアカギさんがいた。一目惚れだった。私が一方的に纏わりつくようにして恋人といえる関係になり、それから順調な交際を続けていたのだ。


今となって振り返れば、あの会話が全ての悲劇の始まりだった。
私はあまりの嬉しさに、有頂天になっていたのかもしれない。
ある冬の日、先輩にふと、アカギさんの話をした。
「へぇー、麻雀やってる人なんだ。でもノアちゃんみたいなお嬢様が、そんなヤクザな仕事してる人と付き合うなんて意外!」
相変わらず子供のように無邪気な声で、先輩はそう言って笑った。
「まぁ、うちの親も似たようなものですから…」
「そっか、そういえばそうだったね。抵抗なくて当たり前かぁ」
先輩とは込み入った話もできる仲になっており、彼女は私の父親が誰なのか知っている。一人でうんうんと納得し、
「んで、アカギさんってカッコイイんでしょ?いいなぁ、私も会ってみたい」
ぱっと瞳を輝かせて身を乗り出した。
そこで私は断るべきだったのだ。
彼女が大の麻雀好きだということをすっかり失念していた。
「アカギさん、会社の先輩なんです」
ある日の終業後、デートの前にアカギさんを先輩に紹介した。
「ふぅん、ノアの…」
気乗りしない様子で煙草を吹かしていたアカギさんだったが、
「初めまして。無理言って連れてきてもらっちゃいました」
先輩がにっこり笑ってそう言った時、視線が意味ありげに動いたのを私は見逃さなかった。
(あれ…?)
興味を持ったのだろう。自分に対して、臆せず笑いかけた女に対して。
だけどその時は気に留める程の事でもなく、先輩はすぐに、
「じゃあね、邪魔しちゃ悪いから。ノアちゃん、会わせてくれてありがと!」
コートの裾をばさっと翻して、反対方向へと歩いて行った。
アカギさんと私は暫くその後姿を見送っていたが、やがてどちらともなく歩き出し、その日のデートもいつもと変わらなかった。


だが、変化は早くもその週末には起こっていた。
日曜日の夜、
「ノアの…あの先輩、麻雀するんだってな」
アカギさんのほうから機嫌よく話しかけてきた時、私は何とも言い様のない悪寒を感じたのを覚えている。予感、だったのだろう。
「そういえば、そんな話を聞いたことがある…」
とはいうものの、私はアカギさんに言われるまですっかり失念していた。話しながら必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
まだ私が入社したての頃、社内のお偉いさんと先輩が麻雀の話で盛り上がっていたことを思い出した。
『先輩、麻雀お好きなんですか?』
『うん、大好き。楽しいよ、麻雀』
そんな会話を交わしたのだった。私は麻雀は全くやらないし、あまりに些細なことだったので、いつしか忘れていた。
「でも、何でいきなり…」
そんな話を持ち出すのか。
私の怪訝そうな表情を見て、アカギさんは喉の奥で低く笑う。根がサディストなのだ。人の嫌がりそうなことを敢えてするのが好きで、それは恋人の私に対しても変わらない。
「昨日、会ったんだ」
「え……」
絶句。そして混乱。
「……会ったって、先輩と…?」
声が震えているのが自分でもわかる。そして、“会ったんだ”…その一言に含まれる意味。私はカタカタと歯が音を立てるのを聞いた。
「そう。明日辺り、本人から何か言ってくるんじゃない?」
アカギさんはふっと笑って、私に背を向ける。パタンと閉まるドアを、私は呆然と眺めていることしかできなかった


翌日は会社に行くのが憂鬱だったが、真偽を確かめなければという一心で出社した。
いつもは天真爛漫で明るい先輩が、私と目が合ったら気まずそうに視線を逸らす。
それが何よりの証拠であった。
仕事が殆ど手に付かないまま迎えた昼休み、誰もいない会議室でランチを食べていると、先輩が入ってきた。
「聞いたでしょ…」
誰から、何を…と言わずとも、私にはわかっていた。
「はい」
硬い声で返事をする。先輩はふうっと一つ溜息をついて、
「この際だから正直に言うわ。私、寝たのよ、アカギさんと」
「……」
予想していたとはいえ、面と向かって言われると辛い。気が遠くなりそうになるのを懸命に堪えていた私に、追い討ちをかけるかのような一言が飛んでくる。
「それでね…私、彼に惚れちゃったみたい」
「え……」
顔を上げた時には、それまでの、人の良さそうな先輩の顔ではなかった。一人の、悪魔のような女がそこにいた。
「私ねぇ、惚れたものがあると、全力で獲りに行くタイプなのよ」
惚れた人間も同様だと言わんばかりの口調で、彼女はゆうるりと唇の端を上げる。
「ノアちゃん、ごめんなさいね」
既に勝敗が見えているかのような口ぶりにカッとしたが、何も言い返せない。
……そこから私の、地獄のような日々が始まった。


当時のことは、思い出すだけでも呼吸が浅くなる。アカギさんは無論のこと、先輩とも何度も激しい罵り合いになった。そして、先輩を罵れば罵るほどに、アカギさんの心が自分から離れていった。
だけど別れるのだけは絶対に嫌で、あっさりと敗北を認めるのが癪で。奇妙な三角関係をそれから約一年続けたことになる。
アカギさんが二股をかけていた…と言えば、確かにそうなのだが、内実はそんな単純なものではなかった。
アカギさんは、私と早く別れて先輩のほうへ行きたかっただろう。だが、何だかんだと事情をつけては、私はアカギさんと会っていた。あのおよそ血の通っていないような冷血漢に、そんな優しい一面があったとはあまり思えないのだが、それでも一度は恋人だった私に情をかけていたのだろうか。会えば優しくしてくれた。だから尚更、離れられなかった。
その間、私は他の男性と付き合おうと考えなくもなかったが、どの恋愛も長続きせずに終わった。アカギさんの後となっては、大抵の男が惰弱に見える。
先輩とて同じだったようで、どちらもアカギさんには痛い目に遭わされつつも諦め切れなかった。そうなると、恋敵であるにも関わらず、相手の女に対して同情心のようなものさえ生まれてくるから不思議だ。
だから私は…いや、私たちは、泥沼の三角関係を続けるしかなかった。
「ノアちゃん、もうそんな男はやめたほうがいいよ」
父の仕事を手伝っている森田くんがよく、そう言って慰めてくれた。心配してくれるのは有り難かったが、しかしアカギさんと別れたらどうなるのか、不安に駆られる。
まず、奪われたことが嫌だった。その事実に激しく自尊心を傷付けられていた私は、本当にアカギさんを失ってしまったら、精神が崩壊するのではないかと真剣に考えるほど、追い詰められていた。
もうその頃には、アカギさんの気持ちははっきりと先輩のほうに傾いていて、誰がどう見ても私に勝ちの目は残っていなかった。
「ノア、もう職場も変わって、その先輩の女とも関わるな。新しい仕事くらいは手配してやれるし、それが嫌なら暫く家にいてもいいから」
極度のストレスに、もう何度目かわからず寝込んでいた時、父がベッドサイドで最後通牒のように突きつけた言葉がそれだ。何事に対峙しても、勝てない人間なんて一瞥するにも値しないという態度を貫き続けてきた人が、娘相手とはいえ理念に反する言葉をかけるなんて、傍から見ても私たちのやっている事は愚かだったのだろう。
ただ頷くしかなかった。涙が溢れて止まらなかったけれど、漸くこれで楽になれると安堵したのも事実で。
「アカギさん、たくさん迷惑かけてごめんなさい。そしてありがとう」
具合が良くなるとすぐ、改めてアカギさんと会った。できれば私のほうからは言いたくなかったさよならを告げる為に。
「ノア、本当にいいのか」
私が別れを申し出たことに、アカギさんが少しでも当惑してくれれば救われたのかもしれないが、彼の声はいつものようにフラットで、それが良いのか悪いのか判断できなかった。
先輩にはまともに挨拶もせず、そそくさと職場を辞めた。表向きには、体調を崩して辞めると言っていたから、同僚からお見舞いにと貰った花束を抱えて、私は会社のビルに背を向けた。秋の終わりで、夕暮れ時に吹く風はもう真冬のように冷たかったのを覚えている。


* * *

それから、アカギさんとは数える程しか会っていない。
いや、会ったというよりも擦れ違ったと言ったほうが正しい。単に、町中で何度か見かけただけだ。
時々、先輩が隣にいるのを見てしまい、私は何も疚しいことはないのに、そそくさと物陰に隠れたりしていた。
時間こそが何にも勝る良薬で、あれから一年経って漸く傷が癒えてきたところだった。
先刻こそ、帰りの電車の中で、アカギさんと出会ってからもう五年が経とうとしているのかと、ふと冷静に思い返していたところなのだ。夏に出会ったから、同じ季節を迎える度に僅かでも思い出してしまうのは、致し方ないことだろう。出会ってから今までの五年間の内、約三年間を不毛な争いに費やしてきた。無駄だったとは思わないけれど、徒労と虚無感が時折鎌首をもたげてくる。
(まぁ、人生いろいろあるよね……)
そう、自分に苦笑しつつエントランスをくぐって、今日も平和な一日だったことに安堵していたところなのに……。
ハガキを持つ手が震え、私は片方の手にしていたバッグを落とした。ドサリと鈍い音がどこか遠くに聞こえる。
(どうして…何で…)
ハガキを裏返すのが怖い。内容は、差出人の欄を見た時からある程度察しがついていた。
それは二人の結婚を報せる通知だった。友人知人に事務的に宛てたもので、式は挙げず、籍だけ入れたことが簡潔に書かれている。
アカギさんとの未来。それはかつて私が、喉から手が出る程欲したのに、とうとう手に入れられなかったもの。
紙切れ一枚の誓約に縋るなんて愚かだと言わんばかりの冷たさで、結婚の二文字は常に撥ね退けられてきた。
確かに、それでこそアカギさんらしいと思って、私も最後のほうは諦めたものだ。
それを、あの女は手に入れたというのか。
「ふふ……」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
涙腺は今にも崩壊しそうに緩んでいるのだが、三年前にアカギさんと別れた時、一生分の涙を流してしまったかのように、もう一滴も出てこない。
記憶が過去へと逆行する。悔やんでも悔やみきれない後悔。そして果てのない悲しみと喪失感に襲われて、私はハガキを無我夢中で破った。床に散らばるのも構わず、その場に蹲って暫く立てないでいた。
(亡霊…)
ふと、そんな単語が脳裏を掠める。過去という亡霊は、少し前の私にとっては近しい存在だった。また憑りつかれるのだろうか。考えるだに恐ろしい。
両肩に見えざる手が置かれたように重く、私は膝を抱えたまま、体が地面の底に沈んでいくのではないかという錯覚を覚えて、エントランスの床で孤独に蹲っている。

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