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明日さえ知れないこの世界で


「たかかげさま、たかかげさま…」
真っ暗な夢の中、紗世は何度も愛する夫の名を叫んだ。
眼前には一粒の砂ほどの光もなく、いくら手を伸ばしても、その背中は遠ざかるばかりで。
やがて喉が枯れ、唇を動かしても声が出ない。自分の耳にさえ届かない。
――そこで目が覚めた。
バネ仕掛けの人形のように跳ね起きる。
水が滴るのではないかと思うほど、夜着が濡れていた。
(ゆ、夢…)
それにしても、何と恐ろしい夢だろう。
紗世は侍女に手伝って貰いながら衣服を着替え、再び体を横たえた。
頭が、体が、鉛を詰め込まれたように重い。
息苦しくて、何度も寝返りを打った。
けれど纏わりついてくる不快感からはどうにも逃れられなくて……。
結局、それから一睡もできないまま、空が白み始めた。



「明朝、厳島へ渡海する」
隆景にそう告げられたのは、昨日の朝だった。
渡海してすぐに戦いが始まるわけではない。
今回は水軍の力が大いに必要ということもあり、天候次第ではどうなるかわからない。
「……しかし、滞陣が長引くこともないだろう」
彼はそう言っていたから、今頃にはもう、戦闘が始まっているに違いない。
雄高山城の庭から見上げる空は青く澄み渡っている。
大きな瞳に透き通った青空を映して、紗世は眠気を堪えつつ、今朝方見た夢を思い出していた。
『行かないで、隆景さま…』
涙ながらに叫んだその声は、しかし届かない。
こんなに不吉な夢を見たのは初めてだった。
ふと、脳裏に一昨日の夜のことが思い出される。
何故かあの晩、痛切に、
「隆景さまの和子が欲しい――」
そう願った。
口に出していたらしく、抱かれながら、「こればかりは……欲しいといって手に入るものではない」
と、苦笑混じりに諭された、その声が微かに記憶に残っている。
子供が欲しいと思ったのは初めてではないし、一日も早く世嗣を生まねばならないということは常に念頭にあるのだけれど、あの夜はいつになく気持ちが切迫していた。
翌日には今生の別れとなるかもしれない、大合戦を控えていたからだろうか。
(虫の知らせ…)
そんな言葉さえ脳裏を過って、紗世はその想像が意味するところの恐ろしさに大きく身を震わせる。
今の彼女には、自分の体を抱き締めながら陽のあたる縁側で暫くじっとしているしか、恐怖に耐え得る方法が見つからなかった。
戦国乱世の武士の家に生まれ、今更戦が怖いとは言えないけれど、それでもできるなら戦は避けて通りたい。
そうすれば、隆景とずっと一緒にいられるから。
(隆景さまが傍にいないのは心細い…)
ともすれば零れ落ちそうになる涙を堪えつつ、彼女はずっと、いつもと変わらない景色を眺めていた。



「お味方勝利」
その報がもたらされたのは、午後を過ぎた辺りだった。
城内が歓声に沸く。
隆景付きの侍女が紗世の所へやって来て、涙を浮かべて勝利を告げた。
「紗世様、良かったですね」
「本当に」
女同士、何度も頷き合う。
しかし、手放しで喜んではいられなかった。
続報で、隆景が負傷したことが伝わったからだ。
「陶晴賢を追撃する際、手傷を負われたとのこと。火急の報せではないので、大したお怪我には至ってないのだと思われますが」
「そんな…」
まさか、あの夢は……と、彼女は両手で口元を覆った。
紗世の狼狽を察し、
「大丈夫ですよ、奥方様。殿は戦上手なお方ですから」
「そうで御座いますよ。もし何か大事があれば、こちらにも既に飛脚が駆けてきているはず」
続報を持ってきた留守居役の士卒と侍女はそう言って慰めてくれたが、体の震えが止まらない。
けれど夢の話を二人にするのは憚られ、紗世はぎこちなく頷いた。
続く三度目の報は、現在、厳島では首実検が行われているとの内容で、
「三原への凱旋は、明日の朝になるでしょう」
という知らせを聞き、城内は俄かに騒がしくなる。
出迎えの支度や戦勝祝賀の用意…と、走り回る家人たちを横目に、紗世はひたすら、隆景の無事を祈っていた。



厳島合戦で大勝利を挙げた翌朝、まだ陽の昇り切らぬ早いうちから、城内の主だった人間は大手門付近で、凱旋する一行を出迎えるために待機していた。
紗世も先頭のほうで、留守役の重臣達と並び、今か今かと隆景の帰城を待ち侘びている。
余程落ち着きを失くしていたのか、
「紗世様、そんなに焦らずとも、殿は無事に帰ってきますぞ」
旧くから小早川家に仕える重臣が笑った。
「でもお怪我をなさったと聞いています」
紗世が至極真面目な顔つきで答えると、不意に相手も表情を改めて、「そうでしたな…」とやや沈んだ面持ちで頷いた。
(やはり怪我が酷いのでは…)
そんな些細な翳りさえ、重大に感じ取ってしまう今の紗世である。
「あっ!」
紗世がそっと顔を俯けたのと同時に、物見を兼ねていた門番が声を上げる。
「殿の旗印だ」
その声は、後方まで波紋のように広がり、歓喜の声が地鳴りのような響きに変わるまでさほど時間はかからなかった。
わっと大歓声が上がり、兵士達の無事を祝う人々に、紗世のような小柄な女性はたちまち揉まれて取り残されてしまう。
もう、誰が何を言っているのかも聞き取れない。
「いたた…」
後ろからきた女中衆がぶつかったらしく、紗世は人の群れからぽいっと弾き出されるかたちになる。
ぶつけられた腰の辺りを擦りつつ、視線だけは絶え間なく動かして隆景の姿を探した。
「殿、殿」
と、ひときわ大きな人だかりができているところに隆景がいるのだろうと思い、そちらへ向かって駆け出す。
近付くにつれ、馬上の隆景が笑顔で応対しているのが見えて、
(ご無事だったのだ…)
視界がじんわりと視界がぼやけていく。
「隆景さまっ!」
吠えるように叫んで、改めて馬上を振り仰いだ。
「紗世」
いつもと変わらない穏やかな声と微笑がそこにあって、戦勝祝いの口上を述べようとしたけれど、涙が溢れるばかりで言葉にならない。
そんな妻を見て、隆景は明るく笑った。
「そんなに泣いて、如何なされた」
「だって…隆景さま、お怪我なさったって…」
「ああ…それなら全く心配ない。ただの掠り傷だ」
その言葉に、紗世だけでなく、取り巻いていた一同に安堵の空気が流れる。
「良かったぁ…」
紗世はへなへなと体から力が抜けていくのがわかった。慌てて、傍にいた侍女が肩を支えてくれる。
「そんなに心配してくれていたのか」
「そ、それは…」
もう…、と答えようとしたのを遮って、紗世付きの侍女が、
「それはもう、紗世様は殆ど眠らずに、殿のお帰りを待ってらしたのですよ」
とやや揶揄いつつ捲し立てた。
「こ、こら、余計なことは言わないの…!」
「だって本当のことですもの」
紗世の叱咤など全く気にする様子もなく、侍女は着物の裾を翻し、祝賀の用意が…と城のほうへと駆けていく。
「もう…」
恨めしそうにその背中を見送っていた紗世の頭に、ポンと大きな手が置かれた。
振り向けば、隆景が馬から下りて、傍らに立っている。
「紗世には、心配をかけたな」
春の陽だまりを想起させるような、柔らかで温かな微笑。それは紗世の最も大切なもので。
「此度ばかりは何故か、隆景様のことが気になって……」
不安でした、と思わずポロリと本音が零れる。
黙って耳を傾けていた彼は、
「もう大丈夫だから」
片方の腕で紗世の華奢な肩をそっと抱いた。
「隆景さま…」
肌に伝わる温かな手のひらの感触が、固く結んでいた緊張の糸を一気に解き、紗世は着物が汚れるのも構わず、まだ武具を着けたままの隆景に、弾かれたように抱き付いた。

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