小説 | ナノ

逆進する未来航海図


いつか、友人と語ったことがある。

『もうこの年になると、「将来俺はビッグになるぜ!」なんて言ってるような男はダメよね』

かなり長い時間喋ったのだが、要約すればそんな話だった。
かなりあけすけな内容にも関わらず、話が盛り上がってしまい、私たちはディナーを取っていたイタリアンレストランで、声高に理想論を捲し立てた。
二人ともテレビドラマに出てくる、優雅な暮らしを送る専業主婦の身に憧れていた。
医者や弁護士、官僚、大手企業の出世頭、御曹司…なんて贅沢は言わない。
容姿もそこまで拘らない。(まぁ、イケメンに越したことはないけれど…)
ただ家族や友人の誰に紹介しても恥ずかしくないような、そんな彼が欲しい。
欲を言えば、見栄っ張りなのは重々承知だけど、女友達にはできるだけ羨まれたい。
私たちは学生時代から前述のような夢を見て、そうなるようにこれまで生きてきた。
そこそこの学校に通い、できるだけエリートの多そうな職場に就職。
授業や仕事はサボッても、化粧や服装だけは手を抜かない。
雑誌を見て流行の服やコスメを買い、花嫁修業色の強い習い事に精を出して。
気付けば、一人、また一人と、自分と同じような友人や会社の同僚が寿退職している。
皆一様に幸せそうな顔をして、周囲の人々に祝福されながら。
私も当然、本来ならその中の一人になっている筈だった。
だが……。
今現在、置かれている現実といったらどうだろう。
かつて『こんな彼氏だけは絶対に持ちたくない』と力説したそのままの人間と、今、私は付き合っている。



今日も後輩の女の子にお祝いの花束を手渡した。
そうか、もう後輩でさえ結婚する年になったのか…と、私は何やら悟りを開いた老尼のような心境で彼女の幸せそうな顔を見送った。
羨ましいとか、次こそは…とか、もう思わない。
『末永くお幸せにー…』
と笑顔で言った自分の言葉を、どこか他人事のように聞いていた。
「おい、ノア、話聞いてるのかよ」
その声に、はっと我に返る。
ここは職場の最寄駅の近所にある、安い居酒屋。
大学生がコンパで利用するような、脂っこい食べ物と酒を飲むのだけがメインの店。
近くのテーブルでは、学生と思しき男女のグループが派手な嬌声を上げている。
他を見回しても客の年齢層は低く、私たちのような年代は全くと言っていい程いない。
しかもそんな店に、男女の二人連れで来ているなんて……。
以前の私がそんな光景を見たら、友人の袖を引っ張って笑っていただろう。
「聞いてるよ。来週の日曜、会えなくなったんでしょ」
私はもう何杯目かわからない温いビールでちびちびと舌を湿らせながら、ややうんざりした口調で返事をする。
相手はそれを、私が拗ねて不機嫌になったと解釈したらしい。
おめでたいヤツだ。
「ああ、ノアには悪いけど、組長が、もっとレートの高い麻雀の台打ちもして欲しいって俺に言ってきてさ。その件で食事をすることになったんだ」
「あ、そう…」
今付き合っているこの男―平山幸雄は、以前私が友人と語り合った、『この年になって絶対に付き合いたくない男の条件』を全て満たしているような男だった。
とにかく、『俺は将来ビッグになるぜ!!』を地で行っているようなヤツである。
そんな彼の仕事は、ヤクザの賭け麻雀の台打ち(仕事と呼んで良いのかもわからないが…)。
一応、本人はれっきと働いているつもりなのだろうが、家族や友人達に、
『彼は何をしてる人なの?』
と聞かれたら、咄嗟に本当の事を答えて良いか非常に迷う職業だ。
そもそも、私自身も殆ど理解していない。
麻雀は、上司の話題にはよく上るが、自分がやったことはないのでさっぱりわからない。だから、それがどれくらい凄いことなのか想像できない。
ただ、恐ろしく高額で、常に危険と隣り合わせの仕事ということはわかる。
しかも収入が不安定。
仕事がない時は全くないが、ある時は一晩に何度も麻雀を打つらしい。そして、勝てば代打ちの金を貰い、負けた時はそれなりの代償を支払わねばならない…のだそうだ。
「まぁ、俺は滅多に負けることないけどな…」
とはいうものの、不測の事態には備えねばならないので、稼いだ金は律儀に貯めている。だから必然的に、私と会う時もこんな安居酒屋に限られる。この後はできるだけ料金の安いラブホテルに行くのが、お決まりのパターンだった。
いつか夢見ていた高級なフレンチレストランも、高級ホテルのスイート…という虹色をしたシャボン玉は、ただの泡となって儚く消えた。
勿論、会計は一の位までしっかり割り勘である。
一円単位まで請求してきた彼に一度、皮肉交じりに、
『つかさあ…幸雄はそんだけ几帳面なんだから、役所にでも勤めたほうが良かったんじゃないの?』
と言ったことがある。まだ付き合い始めたばかりで、私は(今考えれば恐ろしいのだが)、彼と築く幸せな家庭を夢見ていた。
『家計とか任せたらうまく遣り繰りしそう』
『え、家計って…何の……?』
『だから、将来わたしと結婚した時の…』
『結婚?俺が結婚するっていうのか…?』
冗談はよせと言わんばかりの口調で、スーッと血の気が引いたのを覚えている。
どこか冷めてしまったのはその瞬間だったかもしれない。
彼には将来的に私との所帯を持つとかいう観念はなくて、ただ、自分の話を否定しないで聞いてくれる女だから付き合っているのだと、私はその時初めて理解した。
全く、恋は盲目とはよく言ったもので、私は付き合い始めた当初は幸雄に惚れていたのだ。
勉強は苦手でも恋愛は得意だった筈だったのに、そんな簡単なことすら見抜けず、迂闊に結婚なんて言葉を出した自分が悔しい。
とはいうものの、それは今だから冷静に振り返れることであって、当時の私は痘痕もえくぼ…の理論か、幸雄は何やらスケールの大きな仕事をして大金を稼いでいるようで、他の女友達の彼氏とは住む世界の違う男性と付き合っているような優越感があった。危うく、友人に自慢しそうになるところだった。
寸でのところでその仕事の実態に気付いて、今も家族は無論、友人知人にはひた隠しにしている。
だが、一度惚れてしまった事実が出来上がると厄介で。
彼にとっての私は今でも、出会ったばかりの頃の、従順で自分の話にひたすら耳を傾けてくれる聖母のような女性である。
『ノアみたいな優しい女って本当にいるんだな』
が彼の口癖で、その時ばかりは自尊心をくすぐられてちょっといい気になってしまう。
出会った当初の私は、そりゃもう、自分でも笑いたくなるほど甲斐甲斐しく彼の世話を焼いていた。
代打ちの仕事で嫌な目に遭ったと聞けば夜を徹して慰め、言葉を尽くして励まし、
『幸雄はもっと自分に自信持ちなよ。私、幸雄は本当はスゴイ人なんだって信じてるから!!』
『ありがとな、ノア。お前みたいないい女、いねぇよ』
なんて会話を何の臆面もなく交わしていた。今となっては、葬ってしまいたくなるような過去である。
あれから数年経ち、現在は金がないと言われれば用立ててやり、スーツのクリーニング、シャツのアイロンがけ、食事の用意…何でもやっている始末。
だけど次第に幸雄のことを知るにつれ…そう、あんな何気ない一言で気持ちが冷めていってからは、同じ行動を取りながらも、まるで別人と入れ替わったかのように冷静な自分がいる。
気付いてすぐ、別れようと思ったのに、別れられずに結局ここまで来たのはなぜだろう。
出会った頃の記憶のほうが、甘美な毒のように体内を回って、内側から心を雁字搦めにしている。
別れられないように。別れようと考えると、反射的に甘い思い出が呼び起されるように。
(全くタチの悪い、悪質なウイルスもかくや……)
居酒屋の安っぽい木目調のテーブルに視線を落としながら、私は心の中でいつもそう嘆いている。
別れたい…別れたいのに…別れられない。
「ノア、どこか具合でも悪いのか?」
先刻から黙りこくっている私に、幸雄が心配そうな声音で問いかける。
「え、あ、別に…。ちょっと仕事が忙しかったから、疲れてボーッとしてただけ…」
「そうか、あんまり頑張り過ぎるなよ。無理すると、体にも良くないしな」
こういう時の幸雄の口調はやけにしんみりとしていて、真剣に私のことを心配してくれているのが伝わってくる。
「……うん、ありがと」
心の中で、意地悪な気持ちがどんどん萎んでいき、代わりに温かい感情が溢れてきた。同じような場面になると、まるで条件反射のように感情が逆転する。
いつもそうやって、私はまだ彼が好きなのだと再確認するのだ。
(ああ……)
この歪んだ状況を誰かわかってくれるだろうか。
理想と真逆の男と付き合い、長年思い描いていた輝かしい将来の展望からみるみる離れ、逆進しながら生きている私を。
あの時語り合った友人が今の私を見たら、嘲笑うかもしれない。
『ノア、そんな男だけはダメだっていつも言ってたじゃない』
そんな彼女に対し、幸雄を庇って擁護論を必死に展開する自分の姿が目に浮かぶようで。
一体私はどこで道を誤ってしまったのか。
繰り返し自問自答する。
けれどその答えは、果たして出るのだろうか。
死ぬまで出ないのではないだろうかと考え至った時、今なら引き返せたたった一本の細い道さえ閉ざされたような感覚に陥り、私は不意に襲ってきた眩暈に耐えようと軽く瞑目した。

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