小説 | ナノ

自分だけのお姫様


遠くに、人々の楽しそうなざわめきを聞く。
幸紀の部屋からそう離れていない、お館…晴信の居室からのものだろう。
いいなぁ、と彼女はいつも思う。
……と同時に、仲間はずれにされているような、一抹の寂しさを覚える。
晴信に見初められ、請われてこの城に入ってから、早数ヶ月。
城内とはいえ、幸紀が一人で出歩いていると晴信はいい顔をしないので、彼女はじっとこの部屋に篭っていた。
そこに聞こえてくる、男女の笑い声。
(幸紀もあの中に入りたい…)
いっそ晴信に、そう打ち明けてみようか。
そう思い立つと、何やら妙案のような気がして、彼女は夜までの時間をそわそわとしながら過ごした。



その日の夜、というよりはまだ夕刻。
晴信は、いつものように無遠慮な動作で、幸紀の部屋に入ってきた。
「あー、疲れた」
そう言ってどかりと畳に腰を下ろす。
幸紀が、お疲れ様で御座います…などと声をかけながらも、いつ話を切り出そうかと時機を窺っていたら、落ち着きなさげな雰囲気を察してか、
「どうかしたのか?」
と、晴信のほうから訊ねてきた。
「お館さま、幸紀にはお館さまにお願いが御座います」
「ワシに…?」
訝しげに問い返しながらも、最も寵愛している姫に上目遣いに見つめられると、思わず頬が緩んでしまう。
「何か欲しいものでもあるのか?」
年頃の娘だから、可愛い着物や髪飾りが欲しくなったのだろうか。
「いくらでも買うてやるから遠慮せずに言え」
つい鷹揚に引き受けると、
「物じゃないのです」
幸紀はちょっと困ったように笑った。
「では、何だというのだ?」
それでも、若い娘の強請ることなど大した内容ではないだろう…と高を括っている晴信である。
…とそこに、
「幸紀を、せめて城内くらいは自由に歩き回れるようにして欲しいのです」
「……」
予期していなかった答えが返ってきて、晴信は思わず言葉に詰まった。二人の間に、途端に重たい沈黙が落ちる。
確かに晴信は、これまで幸紀が城内を散策するのを赦してなかった。出歩いたと知ると、どうにも機嫌が悪くなって、悟られまいとしてもやはり露骨に態度に出てしまう。
その度に、幸紀は言い訳せずに平謝りに徹してきたのだが、他の側室は城内くらいは自由に歩き回っているところを見て、理不尽だという思いがあったのだろう。
「お館さまがどうしても駄目だって仰るなら…諦めますけど」
とは云うものの、幸紀はいつになく消沈している様子で、晴信はこの寵姫にそんな顔をされると滅法弱い。
(しかしなぁ…)
だからといって、二つ返事で了承するわけにもいかないのが本心である。
やがて考えあぐねた末に、やはりそれだけは了解しかねると告げると、彼女はみるみるうちに、瞳に涙を溢れさせた。
「あ、ちょ、幸紀…泣くなって…」
これまで泣かせたことなど一度もなかっただけに、思わず慌てふためく。
「どうして幸紀だけ自由に出歩いちゃいけないのですか…。他の女性たちは皆、好きなように歩き回ってるじゃないですか」
しくしくと俯いている幸紀に、取り敢えず泣き止んで貰おうと肩を抱こうとしたが、手を振り払われる。
晴信はこれまた拒否されたのも初めてなので、二重にも三重にも慌てた。
「幸紀…」
「お館さまのバカ。幸紀が出歩いてはいけない理由があるなら、ちゃんと仰ってくれればいいじゃない」
しかも、幸紀の言い分は尤もで、晴信はそれ以上言葉が継げず、暫く押し黙っていた。
……とはいうものの。
(言えるかよ…)
本当の理由なんて、と口に出さず呟く。
幸紀を外に出したくない理由…それがあまりに子供じみていることは自分自身がよくわかっているから。
「お前が大切で、掠り傷一つつけたくなくて…もし城内で怪我でもしたらと思うと心配だから…じゃダメか?」
これでも充分、正直に話しているつもりなのだが…幸紀は、泣き顔のままむっつりと黙り込んでいる。不服な表情すら愛しくて、抱き締めようと伸ばした腕を、また振り払われるのではないかと思うと躊躇われて、髪をかき上げて誤魔化した。
「なら、お館さまが一緒について居てくれればいいじゃない。幸紀だけいつもお部屋に取り残されて、つまんない。幸紀も、みんなと一緒に遊びたいの」
泣きながらも、一気に捲し立てられる。
晴信はそこまで聞いて、漸く合点がいった。なるほど幸紀は、正室や他の側室達が家臣と自由に交流しているのを見て、羨ましくなったのか。
(でも、それなら尚のこと…)
ダメだ、と晴信は思う。我ながら幼稚だとは思うが、幸紀だけは手放したくないのだから仕方ない。
「幸紀を他の家臣に見せたくない」
本人を前にして、きっぱりと言い切った。ぽかんとした表情で、幸紀が晴信を見上げている。
「え、他の家臣って…」
「言い換えれば、他の男ってことだよ」
「そんな……。別に家臣の人達は、幸紀のことなんて相手に致しませぬよ…」
主君の側室や寵姫に手を出すなど、命知らずもいいところではないか。
そう訴えても、晴信は首を縦に振らない。
彼の脳裏には、そんな命知らずな輩の顔が二、三浮かんでいるのだ。
「いるんだよ、幸紀みたいな美人を見せたら、何かとちょっかいかけてきそうなヤツが」
山本勘助、真田幸隆…と、最近人質としてやって来たその息子。
幸紀だって、勘助や幸隆みたいな男のほうが晴信よりも好みかもしれない。
それに、子供たち。無邪気に幸紀に纏わりつけば、彼女も邪険にはしないだろう。
そう考えると、幼い嫉妬だとはわかっていても、彼女を人目に触れさせたくないと思ってしまう彼であった。
「だからな、幸紀…。ワシは何も意地悪でお前を閉じ込めているわけではなくて…」
そこまで言っても、まだ納得しかねるといった様子である。
「じゃあ、お館さまが一緒の時だけでいいので、幸紀もお部屋の外に出して下さいませ」
一日中部屋で過ごすのは退屈だ…という彼女の言い分は、晴信にも理解できた。
「わかったよ」
ついに根負けしたという格好になり、頷く。幸紀は泣き顔から一転、満面の笑顔になって主人を見上げた。
「嬉しい」
その一言に、花のように可憐な表情に、狼狽えてしまったのは晴信のほうで。こんなに喜ばれるのなら、どうしてもっと早くに気付かなかったのだろうと悔やみさえする。
「では、早速明日に…」
「ああ」
晴信の着物の袖を引きつつせがむ幸紀がたまらなく愛しくて、そっとその背に腕を回した。今度は拒まれなかった。



――翌日。
美姫を伴って現れた晴信に、部屋で寝転びつつ菓子を食っていた勘助、幸隆の二人は、彼らにしては珍しく、暫く言葉を発せないでいた。
「……殿、どうしたの、その人」
「えらい美人な姫御だすな…」
世辞も揶揄も含まれてない彼らの賛辞を耳にして、ちょっと得意な気分になる。
「可愛いかろう。これが幸紀姫じゃ。幸紀、こっちは山本勘助と真田幸隆」
「初めまして、幸紀に御座います」
三つ指付く姿がまた、初々しい。
紹介された二人は、それぞれが自分らしい挨拶で幸紀を笑わせてくれたので、晴信は安心して三人を眺め遣っていた。
(心配し過ぎだったかの…)
とさえ思い始めている。
勘助が晴信の戦陣でのドジを面白おかしく話して聞かせているのにも、寛容な構えで聞き流していたら、ふと、傍らに幸隆が音もなく寄ってきていた。
「おわっ…何だよ、いきなり」
幸隆は、いつもと変わらない無表情ではあったが、しかし唇の端に揶揄うような笑みが浮かんでいる。
まあまあ、耳貸してよ…と言われて素直に耳を傾ければ、
「あの姫に、まだ手出してないでしょ」
「おまっ…どうしてそれを…」
図星である。
「だって、側室を扱っているようには見えなかったから」
と返されて、晴信が首を傾げていると、
「一瞬、殿の娘御かと思った」
と返ってきた。成程そういうことか…と晴信が得心していると、
「大事な姫なんだね」
しみじみとした声で幸隆が呟いた。
「だから、今日まで外に出さなかったんだよね」
「…ああ」
呆れるほど的確に見破られ、方便を使う気にもなれず素直に頷く。
「猪みたいな殿にも、純情なところがあるんだ」
「一言余計なんだよ、お前は…」
照れくさくって、顔の火照りと一緒に幸隆も手で追い払うような仕草を見せれば、
「ま、お幸せに」
と意味深な笑みを残してスッと晴信から離れていった。
彼がその微笑の意味を知るのは翌日のことで…。
「殿、まだ幸紀姫の手も握ってないって本当だすか?」
勘助に徐に問いかけられ、思わず手にしていた茶器を落とす。
「お前、誰からそれを…」
「ユッキーから聞いただ」
その張本人は涼しげな顔で、あらぬ方を向いている。
「馬っ…鹿。手くらいは握ったことあるに決まってんだろーがっ!」
「じゃあその先はまだっていうことなんだね」
「うっせー!」
晴信の怒声に幸隆の落ち着き払った声が重なり、いつもの賑やかな昼下がりである。
幸紀はその頃、少し離れた場所にある自身の居室で、そのざわめきを聞いていた。
先日までの寂しさはなく、どこか幸せな気持ちが、彼女の心を満たしていた。

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