小説 | ナノ

トライアングラー


酷かった咳も漸く治まり、風邪薬の効果も手伝って心地良い眠りに落ちそうな頃。
玄関のほうが俄かに騒がしくなり、私は半ば手放していた意識を懸命に手繰り寄せた。
「ノアちゃん、咳が落ち着いてやっと眠ったところなんですから…」
起こさないであげて下さいという、ひろゆき君の懇願に近い声に重なるようにして、ドシドシと廊下を進む重たい足音が聞こえる。
「邪魔にはならんようにするさかい、安心せぇ」
「そうは言っても……。ってか、ノアちゃんが寝込んでるって誰から聞いたんですか」
「沢田や」
押し問答が続いているが、相手の声に聞き覚えがある。その声の主を思い出し、
(これじゃあひろゆき君には勝ち目がないなぁ)
私は小さく苦笑した。
ほぼ同時に、障子が勢い良く開け放たれる。
「よぉ…」
布団に横たわっている私を見下ろした原田さんには、家に入ってきた時の威勢は既になく、流石に決まり悪そうな表情だった。
「こんばんは」
声を出すと喉がひり付くように痛んで、思わず顔を顰める。
原田さんの背後で、ひろゆき君が心配そうな表情をこちらに向けていた。
「ノア、具合はどうや」
良くない、という返事の代わりにコホコホと咳が2つ。
原田さんは不躾に私の額に手を伸ばし、「熱いな」と独り言のように呟いた。
健康な時であれば、そういえば原田さんが私の体に直接触れたのはこれが初めてだということに気が付いて、少しは動揺したりするのだろう。けれど今の私は、意識は半分朦朧とした状態で、されるがままでいるしかない。
「これ、見舞いにと思って…。後でみんなで食い」
原田さんが私に見舞いの品として差し出したのは、一目で高級とわかる果物がどっさり入ったバスケットだった。
布団に磔のようにされていて動けない私の代わりに、様子を窺いに来たのであろう別の部屋で待機している黒服の一人が、恭しく受け取っている。
「赤木はどこに行っとるん」
「代打ちを頼まれて、どこかの料亭に…」
ひろゆき君がもごもごと答えた。原田さんは私に向き直り、
「自分の恋人がこうやって寝込んどるのに、薄情な奴やな」
とわざとらしい台詞を吐く。
「なぁ、ノア」
私は肯定も否定もせず、ただじっと原田さんを見つめた。
確かにこんな状態の恋人を放って勝負に出掛ける赤木さんは薄情なのかもしれないけれど、逆に、恋人が風邪で寝込んだくらいで頼まれている代打ちの仕事を断るような赤木さんは嫌だ。
そんな赤木さんなら、最初から付き合ってないと思う。
……と、原田さんに伝えたいのだけど、生憎声を出すのも一苦労のこの状況では、私は無言を貫くしかなかった。
二人の間に沈黙が落ちる。ひろゆき君は、気を利かせたのか、いつの間にか部屋を出ていっていた。
数分、いや、十分以上の時が流れたのではないかと思うほど、長く続いた静寂。
「……ノア」
その声は弱く、原田さんらしくない。
私の名前を呼ぶことをそんなに躊躇ったのだろうか。こんな人でも、躊躇うことがあるのだろうか。
関西屈指の暴力団の組長で、思い通りにならないことはないに等しいくらい、権力もお金も持っているのに。
そんな人が、何故こんな弱々しい声を出さなければならないのだろうか。
「赤木なんかとは早よ別れて、俺のモンになれや」
そうしたらこんな寂しい思いはさせないのに…と、その顔には書いてあった。
それは、私にだってわかっている。原田さんなら、風邪を引いて寝込んでいる恋人を放ったらかしになんてしないだろう。ずっと傍に居て、手厚く看病してくれて、心細い思いをしなくて済むだろう。
赤木さんとは真逆で、自分の好きな人には滅法甘い原田さん。
だけど私は、冷たい赤木さんが好きなのだ。
(本当は、こうやって弱っている時くらいは優しくして貰いたいと思っているのにね……)
唇に、自ずと自嘲の笑みが浮かぶ。
経験したことのないような酷い風邪を引いてしまい、心身共に弱らないわけがない。一人でこの広い家に残されたら、私はきっと泣いていただろう。ひろゆき君が自ら留守番を買って出てくれて、適度に様子を見に顔を覗かせてくれるから安心していられるだけだ。
それでも何となく人肌恋しくて、原田さんに向かって手を伸ばしてみれば、大きな掌が私のそれを優しく包んだ。
そこには全く性愛の匂いは感じられず、ただ父親が病身の娘を心配しているような、そんな労りの色がある。
「だけど……」
「ん?」
無理矢理声を押し出せば、喉が灼けるようにひりついた。
「だけど私は…赤木さんが好きだから」
それでも繋いだ手を振り払わない私は、何て卑怯なのだろう。
原田さんは、予め予想していたかのように少しだけ笑って、
「そうやったな」
空いているほうの手で私の髪に触れた。
「それでも、諦められへんから厄介なんや…」
と、独り言のように呟きながら。



「あ、赤木さん、おかえりなさい!」
襖の向こうでひろゆき君の声がして、赤木さんが帰ってきたことに気付いた。
原田さんは短く舌打ちしたものの、すんなりと繋いでいた手を解き、
「じゃあの、ノア。お大事にな」
と言い置いて部屋を出ていく。
入れ違いのように赤木さんが入ってきて、
「何だ、原田が来てるのか」
と屈託なく言ったから、私は少し後ろめたい気持ちを抱えつつ頷いた。
「風邪、少しは良くなったか?」
「うん」
「なら良かった」
そんな他愛ない会話が嬉しくて、もうそれだけで満足してしまう辺り、私は赤木さんが好きなのだと改めて認識する。
「赤木さーん、お寿司の出前来ましたよー」
とひろゆき君の呼ぶ声に、「おう、すぐ行く」と返事をして、
「ノアも、起きられそうなら後で顔出せよ」
と二、三度、頭をポンポンと叩いて、名残惜しさなど全く感じさせない風情で部屋を出ていった。
別に何を期待していたわけでもないけれど、私は少しだけ寂しさを感じて、それはきっと風邪で体が弱っている所為なのだと無理矢理自分に言い聞かせる。
(厄介な相手に惚れてしまったのは私も同じだよ、原田さん)

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