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人が恋に落ちるとき


――隆景の嫁は美人。
元春は、父の元就からそう聞かされ続けていたが、肝心のその嫁を直に見たことがなかった。
(それは夫の自分から見てもあまり器量の良くない女を娶った自分への当てつけか…?)
とやや意地悪く考えもしたが、元春の嫁である新庄局はとびきりの美貌というわけではないものの、勝気な明るい女性だし、最初は陰口を叩いていた者たちもやがて何も言わなくなった。
しかしここにきて、先のような発言を父親のみならず、重臣の口からも度々聞かされている。
弟の結婚が決まったことは元春も大分前から知っていたが、彼と同じ城内にいるわけではないので、詳しい話はわからない。
先日、隆景に会った際、
「結婚が決まったそうだな」
と声をかけたら、彼はいつものように穏やかに笑って頷いただけであった。
従って、嫁となる娘の出自も知らないし、二人の間に面識があるのかもわからない。
元就だけが娘の顔を知っていて、隆景は知らないということだって有り得る。
試しに元春は、父の重臣たちにそれとなく水を向けてみたが、彼らは揃って首を横に振るだけであった。



そして祝言の日。
「隆景さまは礼装が似合いますなぁ」
元春の隣で、新庄局がしみじみと嘆息を洩らした。
身内贔屓かもしれないが、確かに正装した隆景はますます見栄えが良い。もともとが評判の美男子なのだ。元春の侍女たちの間でも、人気の高い弟なのだった。
「して、肝心の嫁御は……」
元春は隆景の隣にちょこんと座る女性――というよりも少女をやや不躾な視線で眺めた。
俯いているので顔はよく見えないが、小柄で華奢な体躯ながらも、体の線が柔らかく綺麗で確かに佇まいは美しい。
酒宴になったら弟を茶化しがてら間近で見てやろうと、元春は好きな少女にいたずらを仕掛ける子供のような心境で思った。



刻が過ぎ、型通りの祝言が行われた後、一座寛いだ酒宴となった。
夫婦となる二人は上座から動かないので、元春は新庄局を残して一人、弟夫婦の傍へと歩み寄った。
「おお、元春も来たか」
隆景よりも、父の元就が嬉しそうな声を上げる。
「隆景の奥方となる紗世姫じゃ」
彼のはしゃぎようたるや、自分が結婚したかのようである。元春はそんな父親に呆れつつ、形ばかりの祝いの口上を述べてから、紗世姫と呼ばれた弟の嫁を見た。
少女のほうも、視線に気付いてつと顔を上げる。夫の兄らしく、堂々たる態度で……と意気込んでいた元春は一瞬、呼吸が止まるのを感じた。
(こんな美しい女が現世にいるのか……)
というのが率直な感想であり、継ぐべき二の句が見つからない。
「はじめまして、元春さま。紗世です」
声は風鈴の音のように耳に心地良く、ほんのりと朱に染まった頬は瑞々しい白桃を思わせる。
「た、隆景…」
こんな美人とどこで知り合ったのだと、目顔で問いかければ、聡い弟は声を出せずにいる兄の心中を察し、馴れ初めを語り始めた。
「先日、父上と京で催された猿楽を観に行った際、隣に座っていたのが紗世で…。妙に話が合いましてね」
「そんな些細なきっかけで、婚儀まで辿り着けたと申すのか」
「ええ」
隆景は相変わらず捉えどころのない微笑で頷く。元春には俄かに信じられない話であった。
「何せこの美貌ですからな…」
そんな兄の内心を汲み取ってか、隆景はしかしながら臆面もなく言ってのける。
「私もはじめはまさか紗世と夫婦になれるとは思いませんでしたが、父上が熱心に仲介して下さったのです」
「そ、そうか…」
答えつつ元就のほうを見ると、彼は得意満面といった様子で喋り始める。
「いやぁ、わしもこんな上首尾に終わるとは思わなんだが、訊いてみると、紗世姫も隆景を気に入ってくれておっての。
相手方に無理を言って貰い受けてきたのだ」
中国地方の大勢力である毛利家当主の申し出である。相手方にすれば恫喝にしか聞こえなかっただろうと元春は密かに思ったが、口には出さない。
「前々からそちには話しておったろう、隆景の嫁は美人だて。どうじゃ、こんな美しい女子はなかなかおらんだろう」
まるで自分が射止めたかのような父の様子に半ば呆れながらも、確かに滅多に見られるものではないと元春も認めている。
「隆景、運の良い奴よの」
負け惜しみにしか聞こえないだろうが、元春は何か一言言わずにはおられず、結局それだけ言った。隆景は謙遜も否定もせず、唇の端に笑みを上せただけであった。



親類縁者が多いため、酒宴は数日続く。
何度か顔を合わせている内に、元春と紗世姫の間にも安穏とした空気が漂うようになった。
なるほど父の元就が褒めちぎるように、紗世姫は容姿だけでなく性格も申し分ない。兄の目から見ても美男子の弟と並べば至極似合いの若夫婦である。
元春は、自分の妻が途中から奥へと引き揚げているのを良い事に、上座に陣取って弟夫婦を相手に酒を酌み交わしていた。実は一目見た時から紗世のことが頭から離れず、隆景のことが羨ましくて仕方ない元春である。
紗世姫が中座し隆景と二人で向き合った時、肉親相手の気安さに酒の勢いも手伝ってつい本音が出た。
「あんな美しい女子と夫婦になれるとは、我が弟ながら誠に羨ましい」
「何を言い出すのです、突然」
隆景は兄の言葉を、ただの酔っ払いの戯言として聞いている。元春にとってもそっちのほうが都合が良かった。
「父上が、隆景の嫁は美人だと触れ回っていた時は、てっきり誇張しておるのだとばかり決め付けていたが、実際に見て驚いたわ」
「左様ですか。私は、別に容貌で決めたわけではないのですがね」
「しかしそちも紗世姫を可愛く思うておるのだろう」
特に顔、と兄が強調するので、隆景は思わず破顔した。
「拘りますね、兄上。そんなに気に入ったのですか」
「ああ、気に入ったさ。一目で惚れてしもうたわ」
「では力ずくで奪いに来なされ。弓矢を以って丁重にお迎え申しましょう」
兄弟は一旦顔を見合わせ、どちらからともなく大笑した。
「腕っ節なら、そちに負ける気はせぬ」
「ええ、私も兄上に武力では敵う気がしませぬ。ですがこの一件に限っては、必ず勝つ自信がございます」
「こやつ…言うてくれるわ」
元春が笑うと、隆景も品の良い笑みを浮かべる。
「楽しそうですね、お二方とも」
いつの間にか戻ってきていた紗世姫が、笑顔の夫とその兄を見比べて軽やかに言った。
「紗世、兄上がそなたに一目惚れしたそうな」
隆景が冗談めかして言い、紗世が「まあ…」とはにかむ。
笑顔は可憐な花を思わせ、元春は鼓動が早くなっているのを悟られないよう、そっとその横顔を盗み見た。
(京に行っておればなぁ…)
自分が出会えたとは限らないのだが、そう思わずにはいられない彼であった。
「元春さまの武勇伝は京にも届いておりましたわ。何でもすごく戦上手なお方とか」
「いや、俺はそんな…」
慌てて打ち消すものの、みるみるうちに顔が火照ってくる。
どうやら、自分は本当に酔っ払っているのかもしれない。
「た、隆景とて、古今無双の名将だぞ」
隆景は柄にもなくうろたえている元春を見ながら、必死に笑いを堪えている様子である。
「それも…もちろん存じております」
紗世はいささかのてらいもなくそう言って、真正面から元春を見つめにこりと笑った。
(ああ…)
この自分でも持て余している気持ちをどうすればいいのか。
こんなに綺麗に笑う女性を初めて見た。
そう思い至った時、元春はすんなりと、己が心に宿った感情を恋だと認めた。
けれど、それは叶う筈のないもので。
「お似合いの夫婦だの。末永く幸せにな」
我ながら陳腐な台詞だと思ったが、他に祝福の言葉を見つけられず、そう声をかける。
「はい」
仲良く肩を並べた二人の返事を聞きながら、やり場のない気持ちを飲み下すように盃を呷った。

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