小説 | ナノ

雨降る朝の寸劇


カーテンを通して、雨音が聞こえる。
(やだなー、朝から雨だなんて……)
仕事に行くの、億劫だなぁ…と、知らず知らずの内に声に出していたのかもしれない。
「じゃあ、行かなければいいじゃない」
背中に他人の体温を感じたのと同時に、寝起きの少し掠れた声が耳朶に甘く響く。
鳩尾の辺りに回された細い腕。
十三歳のそれは、成人女性の私とそんなに変わらないのに、力だけは強い。
「そんなわけにも行かないの」
溜息混じりに呟いて、身を捩る。
放して欲しいという意思表示のつもりなのに、彼は一向に頓着しない。
「どうして?」
クスクスと、何が可笑しいのか、楽しそうに笑って、私の足に自分の足を絡めた。
剥き出しになった脹脛が触れ合って、くすぐったい。
パジャマ代わりのスウェットとシーツが擦れ、カサカサと乾燥した音がする。
「仕事がいっぱいあるのよ」
書類が山積みになったデスクを脳裏に思い浮かべつつ、
「足、放しなさいよ」
さほど本気ではない口調で言ってしまい、しまった…と後悔するのはいつものことで。
本心では離れたくないと思っているから、実際にするすると解かれるとどこか物足りない感覚に襲われる。
「ノアは真面目だね」
「アンタが不真面目なだけよ」
この不良中学生が…と、枕に顔を押し付けて言ったら、声がくぐもって自分でもよく聞き取れなかった。
「寝ぼけてるの?」
「違うわよ」
寝言と思ったらしい、きょとんとした声音に苦笑混じりに返事をしつつ、もう一つ寝返りを打つ。器用に、腕の位置を変えながら私に纏わりついてくるこの少年は、飼い主に従順な猫のようだ。
「しげる君…」
「なに?」
呼んでみただけ…と云えば、不服そうに鼻を鳴らした。
「ほら、そろそろ起きるよ」
そう言って身じろぎしても、回された腕が解ける気配はなく。
私は指を一本一本ほぐそうとして、でもできなくて…。
どちらともなく指を絡ませていき、気付けば手を繋いだような格好になっていた。
「ノア、何やってるのさ」
くくっと、さも愉快そうに笑う。
「アンタが放さないからいけないんでしょーが」
「フフ…」
放して欲しくなんか、ないくせに――。
唐突に、全身を総毛立たせるように艶っぽい声がして、ふと、私は大人の男と寝ているような感覚に陥る。
不覚にも、心臓が出鱈目な鼓動を打った。多分、今頃は耳まで赤くなっているのではないだろうか。
「どこで覚えてきたのよ、そんな台詞」
動揺しているのを悟られたくなくて、殊更大人ぶってみても、声にはいつものような力がない。
「さて、ね」
十以上も年下の、しかもまだ中学生の男にはぐらかされて、
「末恐ろしい子供」
と呟いたけれど、自分の耳にも完全な負け惜しみにしか聞こえなかった。
「さ、私は起きなきゃ。しげる君も、早くしないと学校に遅刻するよ」
体を起こしかけると、漸く本気だと気付いたのか、今度はやけにあっさりと腕を放した。
「メシは?」
そう言って眠たげに目を擦っているところなどはまだ子供にしか見えず、先ほど口を開いた人間とは別人なのではないかとさえ疑ってしまう。
「今から作るわよ」
私は、まだ先刻の狼狽が微かに残っているというのに――。
「じゃあ、用意できるまで寝てる」
ふあ…と、欠伸混じりの声が聞こえて、そのまるで無防備な姿に、緊張している自分のほうが馬鹿みたいだ。
私はもぞもぞと布団に逆戻りしているらしい少年の、衣擦れの音を背中で聞きながら、足早に寝室を出た。


「ノア、雨酷くなってきたよ」
向かい合って朝食を食べながら、しげる君が窓を振り向いて言った。
「えー、嫌だなぁ…」
盛大な溜息を洩らしても、雨音が弱まるわけがなく…。
「仕事どーしよ……」
雨が降ってるっていうだけで億劫になるよね、濡れるし…と誰にともなく呟いた。
「そんなに嫌なら、行かなきゃいいじゃん」
今朝方と同じ問答が繰り返される。
「そういうわけにもいかないのよ」
大人はねぇ、色々と大変なのよ…と、わざと年上ぶった言い方をしてみせれば、少年は何を思い出してかくくっと笑い、
「中学生の一言であんなに狼狽えたノアが“大人”、ねぇ…」
忘れかけていた矢先、鼻先にそんな台詞をつきつけられて、私は嫌でも先刻の一コマを思い出す。
「ちょ…余計なことばっかり覚えてるんじゃないの!ほんと…可愛くないんだからっ」
かっとなって言い返した私の言葉なんて歯牙にもかけず、はいはいと余裕たっぷりにあしらって、
「いいじゃない、そこがノアの可愛いところなんだから」
と、完全に口を封じられた。
一回り年下の子供の戯言に振り回されて、
(何なのよ、もう…)
私は彼に悟られないように、唇を噛んだ。
だけど、それが決して不愉快でないのもまた事実で、それどころか、いっそ甘美にすら感じられるからタチが悪い。
私を戸惑わせている当事者の少年は何事もなかったかのように、上品な仕草でトーストを口に運んでいて、ひとり慌てふためいている自分が滑稽だった。
まだ落ち着かない心臓の辺りを気にしつつも、時計を見上げて私は席を立つ。
「じゃあ、私は先に出るから…。戸締りして学校に行くのよ」
「行ってらっしゃい。ノアも気をつけて」
温かみのある声に、不意にいつもの日常が戻ってくるのを感じた。
束の間の、色を帯びた寸劇は夢であったかのようで。
それに安堵すべきなのか悲しむべきなのか判断できないまま、私は雨の中へと踏み出した。

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