小説 | ナノ

微睡の光景


「おい」
「きゃっ」
勢い良く障子が開け放たれ、幸紀は小さく叫んだ。
悲鳴を聞いた晴信は、心外極まりないといった面持ちで、
「そんな驚くこともなかろう」
と溜息混じりに呟く。
「だって、戦に行っているとばかり思っていましたので……」
「夕べ遅くに帰城したのじゃ。なのに幸紀は挨拶にも来ぬ」
ぶつくさ言いながら、無遠慮に部屋へ入り込むと、どっかりとその場に座り込む。
湯を使った後であろうが、まだ微かに戦塵の匂いがした。
「それで、お叱りに来られましたの?」
幸紀は居住まいを正し、大きな瞳を晴信に向けた。彼が自分に途方もなく甘いことは、とうに知り抜いている。
この程度の軽口など日常茶飯事。あれだけ嫉妬深い正室――三条の方の毒気さえ、持ち前の愛嬌で早々に抜いてしまった。
「どうせわしが叱ったところで、次から出迎えに来るわけでもあるまい」
「そんなに幸紀に出迎えて欲しいのですか、お館さまは」
少し真剣な表情を作って上目遣いに見上げれば、
「べ、別に……っ」
晴信は言葉に詰まって視線を逸らしてしまう。耳まで赤くなっているのが幸紀にはおかしくて、気付かれないように頬を緩ませた。
諏訪の姫への執着が薄れたわけではなかろうが、昨今、晴信の寵を一身に受けている姫が幸紀である。
彼女もまた、晴信に攻め入られた豪族の娘だが、父が愛妾に没頭して自分や生母は蔑ろにされていたこともあり、別に実家に愛着があったわけではない。だから諏訪の姫のように、生家が滅ぼされても晴信を肉親の敵と恨んではいないし、それどころか、実の父親よりも余程可愛がってくれるこの男に好感さえ抱いていた。
今日だって、戦場から帰ってきたばかりだというのに、軍装を解いた後、真っ先に訪ねてきたのは幸紀の部屋である。それだけ気にかけて貰っておいて、悪意を抱く女はいないだろう。
愛娘の顔見たさに急いで帰ってきた父親のようだね…と、真田幸隆辺りが見たら揶揄いそうな風情だ。
「幸紀の顔を見れば、長い戦陣の疲れも吹き飛ぶのう」
とはいうものの、それが彼女を喜ばせる為の方言でないことは、声の調子でわかった。しみじみと嘆息する様子には、いくら声を張っても隠せない疲労の色が滲んでいて、幸紀はいつも少なからず胸を打たれる。
(これがお館さまの、嘘偽りのない本心か……)
そうなると、軽くあしらう気にもなれず、
「此度の戦勝、誠に祝着に御座います」
やや改まった調子で、戦勝祝いの口上を述べた。
「うん」
晴信は満足げにそれを聞き届けると、再び幸紀と真正面から向かい合う。
「わしが留守にしとる間、何ぞ変わりなかったか」
「はい」
「途中、寒い日が続いたが…風邪など召してなかろうな」
「お館さまったら心配性なんだから。幸紀はとても健やかに過ごしておりましたよ」
「それは何より……」
と、そこで晴信は欠伸を一つ噛み殺した。やはり疲れているのだろう。
幸紀が、
「お館さまこそ、お疲れでいらっしゃるのではなくて?」
いつになく親身な声音で問い返すと、晴信がいたく驚いた表情を見せる。
「これは…珍しいこともあるものじゃ。幸紀が心配してくれるとはの」
「まぁ、失礼な。幸紀はいつだって、お館さまの身を案じておりますれば…」
つい本音が出て、あっと気付いた時にはもう遅く。
晴信が悪戯っぽい表情を浮かべているのが、羞恥に顔を俯けていてもわかった。
「そうか、幸紀はそこまでわしのことを…」
「……お館さまに何かあれば、家中の者が皆路頭に迷うからですよっ」
我ながら苦しい言い訳に、ますます顔が熱くなる。
「意地を張らずとも…偶には素直に、寂しかったと言えば良かろう」
「……」
図星をつかれて返事ができずにいると、ぐいっと腕を掴まれて晴信のほうに引き寄せられた。
「あ…っ」
すっぽりと胸の中に抱きすくめられ、頭では抵抗しようと思っても、体は金縛りにでも遭ったように動かない。
「幸紀、会いたかった」
「お館さま……」
「陣中でも、頭に浮かぶはそなたのことばかりじゃ」
言葉の一つ一つが弛緩剤のように体に染み渡り、幸紀はゆっくりと肩の力を抜いて、そろそろと晴信の背中に腕を回した。この姿勢でいると妙に安心するのは、認めたくないけれども事実で。
「会いたかったって言ってくれ」
くぐもった声で囁かれ、幸紀は渋々といった体をつくって口を開く。
偽らざる本心なのに、なかなか素直に言えない。厄介な性格だと、胸の内で自嘲した。
「あ、会いたかったです…」
一度言ってしまえば、あとはもう、意地を張る必要もなく。
厚い胸板にぺたりと頬をくっ付ければ、それに応えるかのように彼が肩口に唇を埋めて吐息を洩らす。
「このまま幸紀と……ずっとこうしておられたらいいのにな」
「でもお館さまは、またすぐに戦に行ってしまわれるのでしょう」
「……幸紀が行くなと言うなら、考えるやもしれぬ」
そのまま二人は、雪崩れ込むようにして畳の上に横たわった。幸紀の小さな頭が、晴信の逞しい腕にちょこんと乗っている。もう片方の手で愛しげに寵姫の髪を梳き、そっと額に、頬に、唇が落とされた。
「お館さま…」
「幸紀」
貪るように抱き締められ、次第に着物の襟が乱れ、帯が緩んでいくのがわかる。
それには構わず、晴信は幸紀の肩口に顔を埋めて、掠れた声で何度も名前と睦言を繰り返した。
けれどそれ以上の行為に及ぶには、まだ陽が高く。
「幸紀、早くわしの子を産め…さすれば……」
家督をさっさと譲ってそなたと隠居できるから…と、冗談とも本気とも付かないような台詞を残し、やがて穏やかな寝息を立て始めた。
「……」
幸紀は息を詰めて聞いていたが、彼が眠ったことを知ると、ふっと息を吐いた。
行儀が悪いとは思いつつも、晴信に抱かれたままの体勢で侍女を呼び寄せる。
肌掛けを受け取り、そっと二人の体を包むようにして被ると、自身も深い眠りへと身を委ねた。

prev / next
[戻る]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -