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落日


越前国―一乗谷。
朝倉義景は自身の居城、その臥所にて、夢現の間を彷徨っていた。
障子の隙間から御簾越しに柔らかな朝の陽光が差し込み、部屋全体がほのかに暖かくて心地良い。腕の中には寵姫……幸紀姫がいて、こちらも同じく、先程からうつらうつらしている。
今の義景にとっては、この姫さえいれば、未来のことなどはどうでも良かった。
期待していた嫡男が先の戦で戦死し、自分の中でふと消えたものがある。覇気か、それとも野望か……それを何と呼べば良いのかはわからない。だが先日までここに身を寄せていた足利将軍を奉じて、天下に号令する夢などは持ち合わせてなく、最早めまぐるしく変化する時勢を読んで奔走する気など更々ないということだけははっきりしていた。
体裁を取り繕うだけの威勢は残っておらず、重臣達が拠り所を失って右往左往しているのを遠くに聞く日々である。
起きているのか眠っているのか…。
それは、生きているのか死んでいるのか…と、言葉を置き換えても違和感がないほど、意識は常に霞がかっていた。
この贅を凝らした壮大な居城でさえも、今となっては砂上の楼閣のように感じられる中で、唯一確かなものは、腕の中の幸紀姫の存在だけ。
「義景さま…」
「うん?」
「もう朝なの?」
「さて、な……」
曖昧に答えれば、幸紀姫は自ら確認しようともせず、再び瞳を閉じた。
おそらく、彼女の精神も自分とさして変わらない状態なのだろう。強く起こさなければいつまでも眠っている。まるで現実の世界から逃れるように。
(余と同じだ…)
そう思うと、余計に愛しく感じられた。
洋々としていた前途に、影が差していることを認めたくなくて、常に現から目を逸らしている自分と――。
そこまで考えて、一つ大きく息をついた。無遠慮な足音が近づいてくる。痺れを切らした重臣達が起こしに来たのだろう。
いくら義景が彼らに全てを任せたいと望んでも、まだこの家の当主は自分で、彼らに何らかの下知を行わねばならない。
「幸紀姫」
「はい……」
「余はそろそろ執務がある」
「では、起きて……皆の所へ行ってしまわれるのですか」
「うむ」
「幸紀は義景さまとずっとこうしていたいのに…」
その声が合図になったかのように、どちらからともなく双腕を伸ばし、きつく抱き締め合う。
自分の中で、あまりに互いの存在が大き過ぎて、義景も幸紀姫も同じことを思う。
このまま溶け合って、そのまま消えてしまえれば、どんなに楽か…と。
「余も幸紀姫と同じ考えだが……そうもいかぬ」
「本当…足音が聞こえますわね」
「起きぬと、また煩いのでな」
苦笑混じりに呟いて、幸紀の体をそっと離すと、つぶらな瞳が義景を見上げていた。
「そんな顔をするな。離れがたくなる」
「だって、離れたくないんですもの」
「幸紀……」
手を伸ばし、白桃のような頬に触れる。
「幸紀はまだ、このまま寝みまする。義景さま、居なくなるなら、幸紀の眠っている間に…。そして早く戻ってきて」
幸紀の眠っている間に……。
義景は固く瞳を閉じている幸紀姫の寝顔を黙って見下ろしていた。
「相わかった」
一言、聞こえているのか聞こえていないのかわからない相手に、独り言のように言葉を返す。
…と同時に、
「あ、殿、早く着替えて下さい。もうみんな集まってますよ」
ずかずかと寝所にまで入り込んできた家臣が、大声で広間に来るよう急かした。
「わかっておる。少し静かにしてもらえまいか」
そう言って、眠っている幸紀姫を目顔で示すと、声の主は「あ…」と慌てて口を噤んだ。
「幸紀姫様がいらっしゃいましたか…」
それには応えず、
「すぐに仕度をするから、一寸そこで待っておれ。一緒に参ろう」
「はい」
枕元に掛けてある直衣を羽織り、並んで寝所の外に出る。
ふと縁側に視線を転じれば、濃淡様々な桃色の桜の花が、今が盛りとばかりに咲き誇っていた。
(もうそんな季節か)
思えば、外を見ることすらなくなっていた。世界はこんなにも鮮やかな色彩で満ちているというのに、自分たちはいつも灰色の景色の中にいる。
義景の心中を見透かしたかのように、
「殿は寝てばっかりだから、気付かなかったでしょう」
家臣が言う。咎める気にもなれず、「うむ」と素直に認めた。
「いかがです、幸紀姫様と一緒に花見など」
「そうだな、考えておこう」
返事をしながら、義景は不意に、この桜は今年でもう見納めになるような気がした。
「織田信長が、間もなくこの一乗谷にも攻め入りそうな気配です」
隣で、家臣が沈痛な面持ちを称えている。義景は桜に目を向けたまま、黙って話の続きを促した。
「何でも、信長という人物は何でも焼き払うのが趣味のようで…」
となると、攻め入られた場合は、この城も火攻めに遭うのだろう。
(炎に包まれて落城し、余はその中で自害するのか……)
その時は、幸紀姫もついてきてくれるだろうか。
最期の最期まで抱き合ったまま、肉も骨も焼かれ、二人一緒に溶けてなくなることができるなら……。
(悪くはないかもしれぬ)
朝倉家は、間もなく織田信長によって滅ぼされるに違いない。豪雪を考慮して、既に越前国へ向けて軍を発したとの知らせも届いている。
終焉が近い――。
義景はその残り少ない限られた時間の中で、幸紀姫に一度でいいから、この桜を見せてやりたいと思った。

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