小説 | ナノ

空蝉 - 最終話 -


本丸へ戻りながら、隆景はふと紗世のことを考えた。
彼女は今、何を思っているだろう。
最後に別れた場面は、自分と尾崎の方との密会である。紗世と元春の関係を疑っていた隆景にとっては痛烈な皮肉であった。

広間では、相変わらず賑やかな酒宴が続いている。尾崎の方を伴って現れた隆景に、先に戻っていたらしい姉が厳しい視線を投げ付けたが、それも一瞬のことで、後は何事もなかったかのように妁をして回っていた。
隆元は、妻が中座したことに気付いているのだろうけれど、何も言わない。息子の輝元がはしゃいだ声を上げ、尾崎の方は弱々しい笑顔でそれに応えていた。
「隆景様」
小声で名前を呼ばれて振り返る。家臣の一人が傍らに膝をついていた。
「如何した」
返事をする隆景の声にも力はないが、男の話を聞いている内に血の気が引いた。
「奥方様が廊下で転倒し、重傷を負ったとの報せが」
それが言伝の内容だった。しかも、付き添っているのが元春だというではないか。
「したが、元春兄者は今日は来られないのではなかったか」
「如何にも。しかしながら大殿が早馬を飛ばされ、先刻の着城早々、奥方様の事故の現場に居合わせたとのことで」
そうなると、手当てをしたのも兄だろう。他の男でなくて良かったとは思わない。寧ろ、家臣でも下男でもいいから、元春以外の男であったほうが良かった。彼らなら紗世に憧憬こそあれ、それ以上の感情は持たないだろうから。
「して、紗世は何処へ」
「お部屋におられます。吉川元春殿より、早く殿へ報せるよう仰せつかってきました」
「相わかった。すぐに参ろう」
家臣に先導されながら、元春の堂々とした言い分が癇に障る。自分と尾崎殿の関係を見透かされているのではないかと勘繰りたくなる。らしくないと思いつつも、不快感は拭えない。
そして、同時に後悔が襲ってくる。あの時追いかけていれば、こんな事にはならなかっただろうに、と。

元春は、紗世の寝顔を見下ろし、額に浮かんだ玉のような汗を時折拭ってやっていた。患部の腫れが酷いうえに泣いた所為か発熱しだした様子を見て、医者を呼んで欲しいと頼んだのだが、まだ到着する気配はない。
火野山城で初めて紗世を意識してから、まだ三日ほどしか経過していないのに、状況はめまぐるしく変化している。元春はその原因の一端が自分にもあることを思い出し、小さく嘆息した。
(はてさて、どうしたものか)
取り敢えず、我が身よりも隆景と尾崎の方を心配する紗世には、今のところは一先ず充分に休養するようにと言い渡してある。
「隆景には俺から話をしよう」
もしその際に、紗世との間に何かあったのかと隆景に問われたら、火野山城での一夜を正直に話すつもりだ、とも告げた。紗世は黙って頷いただけである。
「元春さま、先日来、ご迷惑ばかりおかけして御免なさい」
寝具が整えられた後に人払いをして向かい合い、二人は久しぶりに言葉を交わした。元春の申し出に、痛みと熱の中で紗世が苦しそうに答える。熱く甘い吐息が肌を掠め、心臓を鷲掴みにされたような切なさを覚えて、その時ばかりはたまらず抱き締めた。
紗世がぎこちなく背中に腕を回したから、ますます愛しかった。互いの気持ちは明白であったが、きっとこれが最後の抱擁になるのだろう。
いや、そうでなくてはならない…と、元春は自分自身に懸命に言い聞かせる。それが二人の幸せの為なのだ。自分も蕗女や子供たちと一緒にこれまで通り暮らすから、紗世にも隆景といつまでも仲睦まじい夫婦であって欲しいと願った。
そしてそのささやかな願いは、紗世が熱に浮かされて隆景の名を呼んだことでいっそう強まったのと同時に、激しい嫉妬を生んだ。こんな時だというのに傍に居ない、薄情な男の名を呼ぶ紗世も憎かった。
けれどそんな胸の内とは反対に、元春は優しく声をかける。
「隆景ならもうすぐ来る故、ご安心召され」

それから数分も経たぬうちに、人の気配がして、元春の背後の障子が勢い良く開け放たれた。
「兄上、紗世は…?」
こんなに心許ない表情の弟を見るのは、幼少の時以来かもしれないと、元春は思う。
だが自業自得だろう…と、冷ややかな気持ちもあり、無言のまま視線で苦しそうに息をしている彼の妻女を示した。
「もうすぐ医者が来るとのことだ」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
今日はこの夫婦に謝られっぱなしだな…と思いながら、
「隆景、少し外へ…」
と弟を庭に連れ出した。そうして向かい合った時には、いつもの沈着な表情に戻っており、
「何か」
涼しい声で問い返される。疚しいことなど、何もないとでもいうように。
元春は、僅かに逡巡した後、口を開いた。
「尾崎の御方様とそなたが密通しておるとの噂を聞いたが、誠か」
すぐさま否定の言葉が返ってくるだろうと予想していたのだが、それに反して隆景は、微かに躊躇った様子を見せた後、
「密通…とまでは行きませんが、会っていたのは事実です」
静かに答えた。
「ですが、兄上が考えられているようなことではありません。輝元どのの養育に関して、相談を受けていただけで…」
隆景が言うには、輝元は病弱な所為か性格も気弱なところがあり、隆元の跡を継ぐには頼りない。心配した尾崎の局が、隆景に輝元をしっかり教育してくれないかと頼んできたとのことだった。
「しかしそれなら、隆元兄者に言うのが筋であろう」
元春が尤もな主張をすると、隆景はうっすらと酷薄な笑みを唇に浮かべた。彼の怜悧な表情は、肉親の目から見ても美しい。
元春は我が弟ながら、つい目を奪われた。
「隆元兄者にも相談したが親身になって話を聞いてくれなかった…と泣きつかれたのです。それが本当か否かはわかりませぬが…」
「ふむ……」
元春は、尾崎の局の薄い印象を思い出していた。姉や自分の正室―新庄の方に比べると、全く逞しさが感じられない。
紗世の持つ儚げな雰囲気ともまた違っていて、守ってやらねばという庇護欲を男に掻き立てさせるような女性である。
元春は、隆景ほど彼女と親しくないが、もし親密な話をするようになれば、自分も弟と同じような行動を取るのかもしれなかった。
「それよりも……」
という隆景の声で我に返る。
「何だ」
「私も兄上に聞きたいことがあります」
彼の言わんとしていることはわかっていた。元春は黙って続きを促す。
「紗世との間に、何かあったのですか」
怒っているふうでも、妬いているふうでもなく、隆景の口調は平常時と変わらず淡々としている。
元春は白旗を上げて、ここ数日の間に紗世との間に起こった出来事について正直に話した。
「紗世どのに移り気した…」
と告げた時には、流石に隆景も顔色を失くしたが、紗世は元春の心の内は知らず、これ以上深入りするつもりはないことを話すと、弟の肩から力が抜けたのが見てとれた。
「紗世どのを責めるなよ」
お前だって尾崎の局との間に抱擁を交わし、もしくはそれ以上の行為に及んでいるかもしれないのを不問に付しているのだから…と言外に匂わせば、隆景も頷くしかない。
「それは勿論…わかってます」
「紗世どのは、病床でもお前の名を呼んでおったぞ」
「そうですか…」
隆景が痛ましそうに睫毛を伏せたのを見て、何となく溜飲の下がる思いがした。
「部屋へ戻ろう」
話が長くなってしまったことに気付き、元春は少し慌てて弟を促す。紗世が目を開けた時、隆景の姿が見えたら安心できるだろうと思い、同時にそうやって、紗世には明るい表情を見せて欲しいと切に願っている自分に対して元春は苦笑した。

二人が連れ立って部屋へ戻った時には、医者が診察を終えて帰ろうとしているところだった。
「熱が高いので、解熱作用のある薬湯を飲ませておきました」
年老いた医者はそういって会釈し、案内役の侍女を従えて部屋を出ていく。
「俺は本丸の父上のところに顔を出してくるから、隆景は紗世どのの傍に」
隆景は兄の言葉に小さく頷き、医者と入れ替わるようにして紗世の傍に腰を下ろした。
氷水に浸された布で額の汗を拭ってやると、心地良いのか呼吸が少しだけ穏やかになる。
この数日間で、精神的にも肉体的にも疲労していたのだろう。面窶れして顔色は蒼ざめているほどに白いが、元来の美貌には些かの翳りもなかった。
どれくらいの時間、そうしていただろう。陽が傾き始める頃になって、紗世がうっすらと瞳を開けた。
「隆景さま…」
熱が下がってきたのか、声の調子がいくらかはっきりしている。
「紗世」
たった数時間ぶりに言葉を交わしただけだというのに、もう何日も会っていなかったような錯覚に陥って、
「具合はどうだ」
そう訊ねるのが精一杯で、あとは何から話せば良いのかわからなかった。
「腕が…」
そう言って差し出された細い腕には、真白い包帯が巻かれている。
「そうか、転んだのだったな…」
多分、元春が手当てしたのだろう。器用に結ばれた包帯の結び目をぼんやりと眺めていたら、その視線に気付いたのか、紗世のほうから口を開いた。
「元春さまとのこと…ごめんなさい」
今にも泣き出しそうな表情で。
それが何を意味するのかわかっていたから、隆景はそっと彼女の掌を包むように握った。
「兄上から話は聞いた。紗世が気に病む必要はない」
それに…と、一旦息をつく。
「私のほうも、紗世に謝らなくてはならない」
泣き出しそうな表情は、すっかり泣き顔に変わっていた。空いているほうの指先で零れ落ちる涙を掬ってやる。
「尾崎の御方との一件、嫌な思いをさせてしまったのだろう」
隆景の言葉に、紗世は諾とも否とも言わなかったが、彼女が少なからず傷付いたということは、その後の行動とこの結果で解っていた。
「紗世が心配するようなことは何もないから」
「本当に…?」
大きく頷くと、安堵からか、彼女は嗚咽を堪えようともせず声を上げて泣いた。
「これ、泣くでない。熱が上がってしまう」
隆景は慌てて宥めたけれど、言葉を尽くせば尽くす程、比例して泣き声が高くなる。
出会った時から、どんなに大変なことが起こっても、常に気丈に振る舞っていた紗世。
そんな彼女に、こんなにも脆い一面があったとは。自分でも驚くほど素直に可愛いという感情を抱いて、隆景はふと口元を綻ばせた。
本当ならば人払いがなされているのを良いことに、この場で抱き締めてたいくらいである。
(そういえば、怪我をしておるのだったな……)
自分にしては珍しい短慮に内心かなり苦笑しつつ、抱き締める代わりに熱の所為で少し火照った頬に指先で触れた。
「紗世」
名前を呼ばれた彼女は、微かに小首を傾げて隆景を見上げている。
「早く怪我を治してくれねば、何をやるにも心配で身が入らぬ」
「た、隆景さま…」
感激した様子の紗世の瞳に、じんわりと涙が滲んだ。
「それに……」
「…?」
不思議そうな表情の愛妻に向かって、悪戯っぽく笑って言う。
「紗世を抱けぬことほどの苦行もないからの」
「っ……」
紗世は夫の言わんとするところを理解して、みるみるうちに耳朶まで朱に染めた。
その様子を見て、隆景は軽やかな笑い声を立てる。
ますます愛しさが募り、彼女を失わずに済んだことに、改めて安堵したのだった。

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