小説 | ナノ

空蝉 - 第五話 -


紗世は一心不乱に城内を駆けた。臓腑が飛び出るのではないかと思うほど、心臓は早鐘を打っている。
自分がどこへ向かおうとしているのかはわからない。ただ、あの場から少しでも遠くへと離れたかった。
「――っ…!」
足が縺れたと思った矢先、視線が宙を彷徨い、次の瞬間、激しい音を立てて体が床に打ち付けられる。膝と腕を強打して、立ち上がることができない。
「何だ、今の音は」
城内の警備の兵たちが一斉に廊下へと集まってくる。気付いた一人が悲鳴に似た叫びを上げた。
「殿の奥方様じゃ」
「何と…奥方様とな。これは一大事」
「誰か至急、本丸におわすお館様へ報せよ」
怒号のような大声が飛び交う中、紗世は痛む体を丸めて蹲っている。
「無理に動かさんほうがいい。頭を打っとるかもしれん」
老臣の一人だろう。年配の男の声がした直後、
「いかがいたした」
と落ち着いた声が頭上に降ってきた。聞き覚えのある声に、うっすらと目を開けて仰天した。
「こ、これは…吉川元春殿…」
反射的に平伏した兵士達を尻目に、声の主―元春は、驚いた表情で紗世を見つめた。
「紗世どの、いかがなされた」
痛みに口を利けないでいると、傍らに膝をつき、素早く全身に目を走らせる。そこには些かのてらいもなく、戦場で怪我をした兵士達の傷を確認しているような様子であった。
「骨が折れているわけではなさそうだの。奥方様はわしが部屋まで負ぶって行こう。そち達は早く隆景に報せよ」
はっと短い返事がして、見張りの者達が四方に駆けて行く。一人残った年配の男が体を支えてくれて、紗世は元春の背に負ぶわれた。温かい背中に、張り詰めていた緊張がゆるゆると解けていくと、激痛も手伝って、次々と涙が溢れてくる。やがて堪えきれずに、声を上げて泣いた。まるで赤子のような態度だが、あまりの痛みの前に、羞恥心などどこかに飛んでしまっている。
「しかとしがみ付いておれ」
まともに返事ができず、紗世はただただしゃくり上げるだけだった。


話は少し遡る。
元春のもとに早馬がやってきたのは、昼を少し過ぎた時刻であった。元就からの、元春一人でも雄高山城へ来るようにとの達しである。
「というわけで…蕗女、俺は雄高山城へ行ってくる」
蕗女はまだ口を利こうとしない。昨夜も仲直りをしようともせずに、菓子を届けるとの口実で雄高山城の紗世に会いに行ったことに腹を立てているのだ。
そして今日の集まりには絶対に出席しないと言い張っている。元春も、紗世に心が傾いている後ろめたさがあって、ならば一人で行くともなかなか言い出せずにいた。
だからこの早馬は、彼にとってはまさに渡りに船であった。
すぐさま馬を駆って雄高山城へ登城したのだが、本丸へ向かう途中、何やら騒がしい声が聞こえた。男たちの慌てる声に、城内で何ぞ異変でも起きたのかと足早に廊下を歩いていくと、途中に人だかりができているのを見つけて今に至る。
紗世が怪我をしてしまったのは元春にとっても心痛であるが、どんな形であれ、彼女の傍にいられるのは不謹慎ながらも嬉しい。ましてやこの数日間、紗世は元春に対してぎこちなく接してきたのに、今はその垣根が消えて、童女のような姿を曝け出しているのである。我が娘に接しているようで、元春もふと心が軽くなった。そこで、まだ泣き止む気配のない紗世に声をかけてみる。
「紗世どの、まだ足が痛むか」
「足だけじゃなくて腕も痛みまする」
その物言いはまるで幼い駄々っ子のそれである。
(意外と、子供っぽいところがあるんだの)
だがそれすらも愛しく感じてしまうのは、惚れた弱みだろう。
紗世が怪我をしたという報せは侍女達の間にすぐ伝わったらしく、居室へ近づくと侍女の集団が緊張した面持ちで立っていた。
「吉川元春様、この度は御方様の件で大変ご迷惑をおかけ致しました」
白髪の混じった初老の女性が、静々と進み出て丁寧に頭を下げる。
「迷惑だなどとは微塵も思っておらぬ。お気になさるな。それより、紗世どのの部屋はこちらで良いのかな」
女が頷いたので、部屋に足を踏み入れ、背中でぐずっている紗世をゆっくりと畳の上に下ろした。顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れているが、それはそれで幼い姫のような趣があって愛らしい。
「氷と布を持ってきてはくれぬか」
「は、はい…ただいま…」
慌しく廊下を駆けていく侍女衆の足音を聞きながら、紗世の髪を撫でてやっていた。絹糸のようにさらさらと流れる黒髪の感触が、指先に心地良い。
「紗世どの、怪我の具合は如何か」
優しく訊ねると、大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべて元春を見上げる。その頼りなげな様子に、思わず抱き締めたくなる衝動をぐっと堪えて返事を待った。
「ちっとも良くありませぬ」
紗世は涙声で言ってから、左手で右手の袖を捲り上げた。広く内出血しており、思わず元春も眉を顰める。
「足は…」
目顔で触っても良いか確認すると、こくりと頷いて、つ…と伸ばした足を差し出した。紗世が細い指で着物の裾を捲ると、足首は赤黒く腫れている。
「これは痛かろう…」
心底、同情の声が出た。あれだけ泣いていたのも無理はない。
「一体どうして、こんなことになった」
そもそも、本丸にいる筈の紗世がどうしてあんな所に一人でいたのか。元春には想像がつきかねる。しかも、まだ隆景から音沙汰がないというのも不可解だ。
「転んだのでございます」
紗世は短く答えた。声の調子がいつになく暗い。いきなり人が変わったような変化に、元春は眉を顰める。何か尋常では考えられないようなことがあったに違いない。
「それはわかるが、どうしてあのような所にいたのだ。そなたは父上や隆景と一緒に、本丸にいたのではなかったのか」
問い詰めるような口調になってしまったが、後悔しても遅い。紗世の表情がみるみる強張っていき、また泣き出すのではないかと思って、慌てて言葉を続けた。
「それとも、本丸で何かあったか」
隆景と喧嘩でもしたのだろうか。そんな考えも脳裏を過ったが、直截的に訊くのも憚られるので紗世から話し出すのを待つことにした。
「尾崎の御方様が……」
やがて口を開いた紗世の言葉に、元春は一瞬耳を疑った。
「今、何と…」
「尾崎の御方様が、隆景様と密会していたのです」

時を同じくして、庭先では姉と弟が対峙していた。
「隆景、そなた紗世どのを追わなくて良いのですか」
五龍の方は隆景の落ち着き払った立姿を一瞬眩しそうに見やった後、ややきつい口調で言った。
「そうしたいのは山々…とはいえ、尾崎の御方様を、ここに一人残していくわけにもいきませぬのでな」
「御方様は私にお任せして、そなたは紗世どのを追いなされ」
やや躊躇った後に、それならば…と隆景が足を踏み出した瞬間、
「行かないで下さい、隆景様…っ!」
と悲鳴のように尾崎の方が取り縋った。五龍の方は呆気に取られたが、何となく予想していたことだったので、冷めた目で二人を眺めていた。
(強かな女よの…)
隆景は優しいから、こう言われると断り辛いだろう。
しかしながら、一人で走り去った紗世のことは五龍の方も気にかかる。
「姉上、私の代わりに紗世を探してくれませぬか」
案の定、隆景は尾崎の方を選んだ。二人がどのような関係にあるのかははっきりとはわからないが、五龍の方にはある程度推測がつく。
「隆景、戻ってきたらそなたに話がありますから、お忘れなきよう」
黙って去るのは癪だったので、一言言い捨てて踵を返した。

残された尾崎の方は、複雑な心境でその背中を見送った。あの姉は自分の夫より発言力があり、隆元やその上の元就に密告されたらと思うと、途端に不安になる。
隆景には、この場で想いを打ち明けるつもりでいた。成就することはないとわかっているけれども、気持ちを押し殺したまま暮らすのは苦しかった。
(それで自分は一体何を望んでいたのだろう……)
告白して、その後、今まで通りの二人でいられるとは思えなかった。あの時、五龍の方に声をかけられるまでは、告白した先のことまでは考えていなかったが、今ふと冷静になって振り返ると、自分は危険な事をしようとしていたような気がする。
(言わなくて良かったのかもしれない…)
安堵、ともいうべき感情が津波のように体を襲って、瓦礫が崩れるようにその場に頽折れた。
「尾崎殿…」
隆景が慌ててその背中を支えてくれる。安堵と不安がせめぎ合う中添えられた掌の温かさに、思わず両手で顔を覆った。指の隙間からは雨粒ような涙が滴った。


「隆景と尾崎の御方様が密会…!?」
侍女が持ってきてくれた氷と手拭を手に、紗世の傷の手当をしていた元春は思わず動きが止まった。しかし、心のどこかで、
(有り得ぬことではない)
と思ってしまうのも正直なところである。
紗世の話によると、五龍の方に連れられていった庭先で、隆景と尾崎の方が宴会を抜け出して二人で歩いているのを見た。会話の内容もさることながら、雰囲気からして只事ではなさそうだ。
しかも五龍の方によると、二人はよく安芸吉田の郡山城でも忍んで会っているという。
「紗世はどうすればよいのでしょう…」
元春に向けられた真摯な眼差しと、その声の儚く消え入りそうなことに、憐れみと愛しさと嫉妬を同時に感じた。侍女達がいなければ、今すぐにでも細い躰を抱き締め、言葉を尽くして慰めただろう。
「そうさな…」
だが実際には相槌を打つのが精一杯で。
二人の頭上に、重たい静寂が圧し掛かっていた。

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